竹笋生ず

 竹笋生ず(たけのこしょうず)


 ゴールデンウィーク明けの我が家には恒例行事があった。母がタケノコの灰汁抜きをするのだ。母の生家の裏には竹林があり、ここで掘ったタケノコを叔父が送ってくれていた。春に進級報告を兼ねて遊びに行った折、私自身がタケノコ掘りの手ほどきを受けたこともある。 

 柄が長く、金属の部分が小さい鍬のようなもの(たぶん手づくり)をひょいと肩に担ぎ、叔父は裏庭に向かう。竹林で立ち止まり、地面をながめる。ここ、というポイントを見つけると近寄り、器用にタケノコ掘りの道具を操り、落ち葉や土をかきだす。すると小さなタケノコの先端がわずかに地面から姿を見せる。タケノコの周りに円を描くように地面を削り、ある程度、掘るとタケノコに刃を入れる。見事な手つきだった。

 立夏の末候は【竹笋生ず】。竹は生長が早い。先日、職場近くの薮でタケノコを見た。先端は緑で、茶色い皮に覆われているので竹にはなっていないけれども、高さは私の身長を越えている。おそらく食べても美味しくない、というか、食べられたものではないだろう。

 最初にナマコを食べた人は偉いという話を聞く。タケノコもそうだろう。この手のテーマは人間の勇気や食への探究心みたいな文脈で語られることが多い。けれども、話はもっと単純だったのではないかと思う。飢えだ。きっと腹が減っていたのだ。他に食べるものがなく、仕方なく口にした、あるいは少しでも腹を満たそうとして、誰かがナマコやタケノコを口にしたのだ。

 手の入っていない竹林はどこかぞっとさせるものがある。羅生門から去った下人が逃げ込んでいそうというか、あるいは老婆が身を潜めていそうというか。案外、人類で最初にタケノコを口にしたのはあの婆さんだったのではないか。

 反対に程よく手入れされた竹林は、整った美しさを感じさせる。やったことはないし、あくまでイメージだけれども、茶道の美しさはこういうものではなかろうか、と想像してしまう。暮らしと美の調和があるように思う。

 手入れする人がいないから竹林は荒れているだろう、と今年も母は嘆いていた。

 叔父の幽霊が竹林にたたずみ、じっと少しだけ地面の盛り上がった場所を探しているのかと思うと、久しぶりに墓参りついでに裏山をのぞいてみようかという気になる。墓石の前で手をあわせても、どうもそこに叔父がいる気がしないのだ。面倒見が良くてお酒が好きで、フットワーク軽く、困った人の相談ごとに手を貸していたから、おとなしく地面の下で眠っているとは思えないのだろう。

 お酒にあうタケノコの食べ方を聞いておくのだった、と悔やんでももう遅い。自分で見つけて、叔父に報告することにしよう。

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