その日は国語のテストだった。

 しおりは勉強ができる方だったから、スラスラと問題を解いていたのだが、漢字の書き間違いに気付き鉛筆を止めた。


 そして焦った。

 ――消しゴムが、ない。


 昨晩、筆箱をランドセルに入れた時には確かにあった。

 小さくなったからと、ママが用意してくれた新品の消しゴム。この前のテストが百点だったご褒美の、お気に入りのキャラクターのものだ。青い油性ペンで、しおりの名を入れてくれた。

 一限目の算数で初めて使う時、少し勿体ないような気持ちになったのも覚えている。それなのに……。


 頭が消しゴムの事でいっぱいになり、鉛筆はピタリと動かなくなった。

 どうしよう。新品をなくしたなんて知ったら、ママは悲しむだろう。もう二度と、あんなに可愛い消しゴムを買ってくれないかもしれない。


 焦るばかりで時間は過ぎ、テストは回収された。

 その後の休み時間。

 落ち込んだ気持ちのまま教室にいるのが辛くて、しおりは席を立った。そして、机と机の隙間を出口に向かっていた時。


 しおりは見てしまった。

 斜め後ろの席の男の子の机の上に、しおりのものと同じ消しゴムがあった。

 けれど、まだ大きいのにケースはボロボロに破れて、真っ白だった角は全部真っ黒になっていた。

 しおりは思わず足を止めた。


 その男の子の名は、圭人けいと

 クラスの中でも特に声が大きく、ガサツな性格だ。

 その時も、友達数人と大きな声で騒いでいたのだが、しおりが止まるのを見て、声を掛けてきた。

「何だよ、何か用かよ」

 心臓が縮み上がる思いだった。

 あまりクラスメイトと話す事もないが、圭人のような男子は特に苦手だった。

 それでも、笑顔で消しゴムを用意してくれたママの顔を思い出して、しおりは精一杯の声を上げた。


「……その消しゴム、私の……」


 蚊の鳴くようなしおりの声は、圭人のガラガラ声に簡単に掻き消された。

「は? 聞こえねーんだけど」

「その消しゴム、私の」

 しおりは絞り出すように繰り返し、圭人の机に手を伸ばした。


 その手を、圭人が思い切り払う。指を突いて、しおりは手を引っ込めた。

「消しゴム? これは妹のやつだよ」

「でも、名前が……」

 言うが早いか、圭人は消しゴムを取り上げ、裏側をしおりに向けた。

 ……そこは、鉛筆で真っ黒に塗り潰されており、名前は見えなかった。


「名前? そんなモンねーよ」

「でも、塗り潰して……」

「妹の名前が恥ずかしいから塗ったんだよ! 文句あんのか?」


 圭人の大声で、次々とクラスメイトが集まってきた。その視線が痛くて、しおりは顔を伏せた。

「おいおい、俺を泥棒呼ばわりするとは、いい度胸してるじゃねーか。証拠出せよ、証拠!」

 圭人の取り巻きは、面白おかしく「証拠! 証拠!」と騒ぎ立てる。その後ろの女子グループは、ヒソヒソとしおりを見ながら囁き合っている。


 耐えられなかった。

 せめて涙があふれるのを見られないよう、しおりは教室を飛び出した。


 こんな惨めな姿を、誰にも見られない場所。

 給食室の前の渡り廊下を走り、体育館を廻る。その裏に駆け込むと、しおりは顔を両手で隠して座り込んだ。

 冷たいコンクリートの壁に背を預け、半ば草に埋もれながら泣きじゃくる。誰も慰めてくれない、誰も味方してくれない、たった一人で。


 チャイムが遠くに聞こえた。

 でも、教室に戻る勇気はなかった。

 けれど、ここに座っていては、そのうち見付かってしまうだろう。


 ――その時、頭に浮かんだのは、草むらの奥。体育館の陰の薄暗い隙間にある、灰色の屋根。

 あそこなら、絶対に誰も来ないに違いない。


 その時、なぜか怖くなかった。

 それ以上に、劣等感が強く心を支配していた。


 しおりはチャイムが終わるのも待たず、体育館のすぐ横の、ガタガタとひび割れた側溝の蓋伝いに、草むらの奥へと駆け出した――。



 ***



 賽憂亭獄楽は、何も言わずに聞いていた。

 相変わらずの薄笑いを浮かべたまま。


 しおりは再び込み上げてきたものを拭うため、目にハンカチを当てた。

 すると獄楽は、しおりの前におしぼりを差し出す。

「目の腫れは冷やした方が良い」

 おしぼりを受け取ると、氷のように冷たい。先程とラムネといい、一体どこから出しているのか。


 そう怪訝に見返したしおりに、獄楽はニコリとして、文机の横に木桶を押し出した。

 氷水を満たしたそこには、ラムネやニッキ水の瓶が何本か浸され、そこにおしぼりが何枚か掛けられている。

「暑い時には、これが一番ですからな」


 ――本当に不思議な人だ。

 いや、獄楽だけでなく、この店が不思議な場所なのだ。


 コチコチコチと時を刻む柱時計の音が、全ての雑音を消しているようで、真の静寂とはこういう事を言うのだろうと、そんな気にさせる空間。

 エアコンどころか扇風機すらないのに、ひんやりと湿気を帯びた空気は、しおりを柔らかく包む。

 古臭いけれど埃っぽさを感じない調度品に、氷が割れた拍子にカチリと鳴るラムネ瓶。


 しおりの祖父母は幼い頃に亡くなり、それ以降行き来もなかったため、古い家屋というものを、彼女は知らない。

 そんなしおりでも、この空間の持つ強烈な懐かしさにくるまれると、どうしようもなくホッとした気分になるのだ。


 冷えたおしぼりを目に当てる。すると頭の中まで洗われるようで、しおりは思わずふぅと息を吐いた。

 満足気に口角を吊り上げた獄楽は、今度はニッキ水を彼女に差し出した。

 人工的な緑色をしたその液体は、なぜこんなにも清々しく心を和ませるのだろう。キャップを開け一口含めば、ピリッとした香味が舌を刺激する。


 この味わいの前では、涙の理由もささやかな事に思えて、しおりは獄楽に視線を戻した。

 彼は何も言わずに、しおりの言葉を待っていた。批評もせず、同情もせず、ただただ薄く笑みを浮かべて。


 その表情が、善も悪も、嘘も真も、全て受け止めてくれる気がして、しおりは再び口を開いた。

「まだ虫が多くいなくて、かといって凍えるような気候でもなくて、草むらの中を走っても、何の不安もありませんでした。けれど――」

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