隣人へ

久遠恭子

1話完結

 霜が降りてきそうな一月の或る日。

彼は肩を落として冬空の下、

一人で歩いていた。


何があったのか、私には知る由も無かった。

アパートの隣同士といっても、

今では挨拶くらいしかしないのだから当然だ。


ただ、昔一度だけサラリーマンの彼が

公園でサンドイッチを食べている時に

少し話した事があった。

「こんにちは」と私が声をかけると

「あ、どうも、どうも」と気さくに返してくれた。


本当は三白眼の彼の事を私はあまり得意ではなかった。目つきが怖かったからだ。でも、話しかけてみたら案外悪い人じゃなかった。


 春先の公園では、近所の子供達がはしゃいでいる。水飲み場で水を飲む女学生の姿も見える。彼は頭を掻きながら、

「今日は仕事を休んだんですよ。しがないサラリーマンです。でも、サボりました。だから、公園なんかに真っ昼間に居るんです。」そう言って、眼鏡を少し掛け直した仕草をした。それから、目線を下に向けたままサンドイッチからはみ出るたまごを頬張っている。


「そ、そうなんですね。私は体調が悪くて、公園で癒されに来たんです。」私はそう言ってから、少し黙り込んだ。


彼もしばらく黙って私を眺めていたが、

「貴女はよく路地裏の猫を撫でていますよね。たまにお見かけしてましたよ。私も猫は好きで。可愛いもんです。」サンドイッチを食べ終わった手をナプキンで拭いてから、空を仰いでそう言った。


それから、

「お身体お大事になさって下さい。話が出来て、良かったです。」

そう言うと彼は、軽く会釈をして何処かへ消えていった。


 そんな事が昔あって、私は彼がそんなに悪い人じゃないと思っている。それから、あまり元気の無さそうな彼の助けになれないかと考え始めた。

でも、彼はお仕着せがましい親切は嫌いだろう。


どうしよう…


うーん。


私は単純だ。何かプレゼントしたら喜んでくれるだろうと考えて、花を送ろう。そう思った。


 家から一番近い花屋は、築年数は古そうだったがレンガ張りの外観のモダンな建物だ。

私は勇気を出して自動ドアを入っていき、店員さんに声を掛けた。

「あ、あのぅ…。お花が買いたいんですが。どんなのが良いのか、分からなくて。相手の人に喜んでもらいたいんです。尊敬してるというか…」そう説明すると、店員さんは白いバラを何本か手に取って、花束を作ってくれた。

代金を支払って、花束を受け取って外に出てから私は急に大それた事をしようとしているんじゃないかという気持ちになってしまった。


それで、一度アパートに帰って考え直そうとした。

時刻は夕刻。白いバラの花束を持ってトボトボと歩いていると、偶然にも目の前に猫を撫でている彼が居た。そしてその背中はまだ何か寂しそうだった。


感覚を研ぎ澄ませて。


私は勢い余って、彼の左手に花束を掴ませて

「あのっ。これ、友達に貰ったんですけど。私、花粉症で!」と訳の分からない理由を伝えて逃げて来てしまった。


あとで調べたら、白いバラの花言葉は「尊敬」らしい。

それが、伝わっても伝わらなくてもいい。


 部屋に戻った彼は花束を押し入れから引っ張り出した花瓶に生けた。

彼の部屋のテーブルには今、白いバラの花が花瓶に差して飾られている。バラの花、その息づかいが彼にも聞こえてくれたなら。

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隣人へ 久遠恭子 @kyokopoyo

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