嵐の峡谷 7
峡谷の風が肌を撫でる中、少し開けた場所を見つけた。ダンジョン探索の合間にこうして落ち着ける場所を見つけるのもまた一つの技術だ。岩場に腰を下ろし、持参した弁当をバッグから取り出す。慎重に包みを広げると、中には丁寧に詰められたおかずが顔を覗かせた。
おにぎりが二つ、だし巻き卵、塩焼きの鮭、彩りを添えるブロッコリーとミニトマト。それぞれが小さな区画に仕切られ、整然と収まっている。こうした食事が冒険の途中でどれだけ心を癒してくれるか、経験上よく知っている。
まずはおにぎりを一つ手に取る。ほんのり海苔の香りが漂い、指に伝わる温かみがなんとも心地よい。一口頬張ると、口の中にふわりと広がるご飯の甘みと塩加減が絶妙だ。具はシンプルに梅干し。酸味がアクセントになり、疲れた体にじわりと染み渡る。
空を見上げると、峡谷を横切る風がわずかな雲を運んでいる。その動きをぼんやりと追いながら、口を動かす。こうして自然の中で食事をするのは、都市の喧騒やダンジョンの緊張感とは全く別の時間が流れている気がする。風の音が耳をくすぐり、鳥のさえずりが遠くに響く。
次に箸を手に取り、だし巻き卵をつまむ。その柔らかな食感が箸先から伝わり、食べる前から思わず顔がほころぶ。一口頬張ると、甘じょっぱい出汁の風味が広がり、体の隅々にまで染み込んでいくようだ。このだし巻き卵、作るのにちょっとした手間がかかるけれど、その価値がある。
ふと視線を峡谷の向こうに向けると、切り立った崖の先に広がる景色が目に飛び込んできた。遠くに流れる川と、緑が混じる大地。それを背景に風が走り抜けていく。目の前の光景がまるで絵画のようだ。こんな場所で休息を取れるのも冒険者の特権かもしれない。
少し背筋を伸ばして深呼吸する。空気が冷たいけれど、肺の中を満たす感覚が心地よい。この場所に来たのは正解だった。次の探索への力を蓄えるには十分すぎる。
この「嵐の峡谷」はその名の通り、常に風が渦巻いており、どこか生きているような気配を感じさせる。切り立った崖と緑に覆われた斜面が交互に現れ、時折視界の先に深い青空が覗く。風が強くなるたびに草が波のように揺れるのが見える。ここに来るだけでも壮大な自然の中に放り込まれたような感覚になる。
一方で、この景色に完全に心を奪われるわけにもいかない。ダンジョン内には常に危険が潜んでいる。風に紛れてモンスターが忍び寄ってくることもあれば、不意に足元が崩れる罠が待ち構えていることもある。だからこそ、周囲の環境に注意を払うのは重要だ。それでも、この景色の圧倒的な美しさに目を奪われることがある。崖の端に立ち、谷底を覗くと、遠くに流れる細い川が見える。その水音が風に乗って微かに耳に届く。
少し離れた場所には他の冒険者たちの姿も見える。岩陰に身を隠しながら食事をとっている者もいれば、道具を広げて地図を確認している者もいる。ある者は武器の刃を研ぎ、次の戦いに備えているようだ。みなそれぞれのペースで準備を整えているが、どこかで共通しているのはこの峡谷に対する敬意だろう。この地の美しさと恐ろしさの両方を知っているからこそ、その振る舞いには慎重さが感じられる。
近くの岩場では、数人の冒険者が声を潜めながら何かを相談している。恐らく次に進むルートを話し合っているのだろう。その緊張した表情を見ると、この峡谷の難易度が並ではないことが伝わってくる。さらに奥へ進むにつれ、モンスターの強さも増してくるはずだ。この場所での一瞬の油断が命取りになることは、彼らもよく知っているのだろう。
その一方で、崖の端に立つ若い冒険者が風を浴びながら空を見上げている姿が目に入った。その表情には不安もあれば、どこか楽しんでいるような雰囲気も漂う。初めてこの峡谷を訪れたのかもしれない。このような場所での冒険には恐怖だけでなく、確かに心を震わせる何かがある。それを感じ取るのは経験の浅い者ほどかもしれない。
足元の岩肌には無数の傷や削れた痕がある。これは過去の冒険者たちが戦った証拠なのか、それとも峡谷そのものが持つ自然の痕跡なのか。そのどちらにせよ、この場所が長い時間をかけて作られてきたことを感じさせる。風化した岩の模様が独特の美しさを持ち、この地がただの危険地帯ではなく、自然が生み出した一種の芸術であることを思い出させる。
視線を戻すと、遠くに続く狭い小道が見える。その先には、さらに切り立った崖があり、道の先がどこに続いているのか想像もつかない。風に乗って聞こえてくる音が、一瞬だけモンスターの咆哮のように聞こえるが、実際に何かが潜んでいるのかどうかはわからない。この不確かさが、冒険の緊張感をより一層高めてくれる。
おっと、いかんいかん。食事中だった。次は鮭に手を伸ばす。塩焼きの香りがふんわりと鼻をくすぐる。箸でほぐすと、ふっくらとした身がほろりと崩れる。少し炭の香りが残る焼き加減が絶妙だ。一口食べると、塩味と鮭本来の旨味が広がり、つい目を閉じてしまう。自然の中で味わう食事はこんなにも贅沢に感じるのかと改めて思う。
ミニトマトを口に運び、その瑞々しい甘みと酸味で口の中をリフレッシュする。続けてブロッコリー。食感がシャキシャキとしていて、ちょうどいい茹で加減だ。お弁当にこうした野菜があると、何となく体が喜んでいる気がする。
ふと、弁当を詰めた時のことを思い出す。あの朝の準備の時間。鮭を焼き、卵を巻き、ブロッコリーを茹でながら手際よく仕上げた自分を少しだけ褒めたい気分だ。未来の自分を支えるための小さな努力。それが今、確かな形で自分に返ってきている。
最後のおにぎりに手を伸ばす。具は鮭。塩焼きとはまた違う鮭のほぐし身が、ほんのり甘いご飯と絶妙に調和している。噛みしめるたびに、この時間がどれだけ貴重なものかを実感する。残り少ない一口が惜しい。
全てを食べ終え、包みを丁寧に畳む。空を見上げると、風が再び峡谷を駆け抜けていくのが見える。視線を戻すと、目の前には次の挑戦が待つ峡谷の奥。まだまだ先は長い。でも、この食事で満たされたこの感覚がある限り、どんな挑戦にも立ち向かえそうだ。
深呼吸をして立ち上がる。これからの戦いを前に、弁当の力が心に確かに残っている。バッグを背負い、剣を握りしめて一歩を踏み出す。また新たな戦いが始まるのだ。
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