ストーカーより、ココアいっぱいの毒を込めて

恵稀ヒロ

ストーカーより、ココアいっぱいの毒を込めて

 寂しさもとうに枯れ落ちて、心も凍てつく年の暮れ。いつものようにバイトを終えて街灯の少ない帰り道を抜け、自宅アパートの近くまで辿り着く。

 週明け、月曜日の夜は、自分の足音が反響して他人のものに聞こえてくるくらい静かだった。アパートの自室の前に立って鍵を回して扉を開ける。蝶番の鈍く不快な音がよく響いた。

「……疲れた」

 吐き捨てながら鞄を床に投げ出して、コートも脱がずにベッドに飛び込む。途端に、出せるだけのため息が零れた。

 デジタル時計は無愛想に二十三時を示していた。帰宅時間としてはいつも通りでも、やっぱり身体は疲れを訴えていた。

『ピンポーン』

「……誰だろ」

 通販……こんな時間に? そもそも何か頼んだっけ、とか思いながらとりあえずコートを壁に掛けてインターホンのモニターを覗き込む。その映像を見て疑問は氷解することなく更に深く凍てついた。

「ほんとに誰だろ」

 知らない女の子が、一切の緊張も恐縮もない表情でまるで親しい仲の友人を訪ねるときのような落ち着き方でそこに映っていた。

 頭の上に疑問符を残したまま通話のボタンを押す。プツッと音がしてマイクが繋がった。

「……はい」

「あ……声で分かるよ。よかった、部屋は間違えてなかったみたいだね」

 親しげに声を掛けられてさらに疑問符が増えると同時に途端に警戒心が高まる。仮にどこかで会ったことがあったとしても、家まで教えているなら流石に覚えているはずだし……悩んでいると、だんだん会ったことあるような気もしてきた。ただの防衛本能なのだろうが。

「良かった、いつも君をいってきますからただいままで見てたから間違えることはないとわかっていても初めての場所を訪ねるとやっぱり緊張しちゃうね。高校生の頃結局一度も職員室を訪ねないで卒業したのを思い出しちゃった」

「えっと、君は……」

 いつも見てた、と聞いた瞬間身体がぴくりと震えたような気がする。少なくとも、心はぴくりどころじゃなく動揺していた。

「そっか、確かに自己紹介もしたことなかったもんね」

 少女はこほんと形式だけの咳払いをして再び口を開く。一連の動作がやけに丁寧で好ましく、それが却って不気味だった。

「私は——」

 不吉な四文字が頭に浮かぶ。いや、浮かぶというより既に確信に近かった。

「君の恋人だよ」

 優しい微笑みで少女——ストーカーは、何かを確かめるようにそう言った。


「だからさ開けてほしいな。恋人だもんね、ドアくらい開けるよ」

「待って……だって冷静になってみてよ、自己紹介すらまだだった相手が恋人だって、そんなのはおかしくない?」

「おかしくないかな」

「なんで——」

「私は君のことを恋人だと思ってるし」

「いやそれは——」

「それに、君のバイト先の先輩も君と私が付き合ってると思ってるよ」

「は? ……いや、え?」

「君は基本キッチン担当だもんね、フロアの方があんまり目に入っていなくても仕方がないよ」

「いや待ってよ、そんな」

 慌てて、放り投げた鞄からスマホを手に取って、メッセージを送信する。

『突然すいません」

『どうしたの? 何かあった?』

『あの、もしかしてなんですが』

 そこまで送信して一旦手が止まる……あんまり、先輩を心配させるような文面にはしたくないな。

『僕が知らないだけで、彼女が結構カフェに来てたりしますか?』

『あれ? バレちゃった?』

『彼女ちゃんにバレたら恥ずかしいから隠してって言われてたんだけど』

『うん、来てるよ』

 絶句だった。

 今更、バイト先がバレていること自体はさして驚きもしなかったが、まさかそこまで根回しをしていたなんて……ストーカーなんてそういうものなのかもだけれど、正気じゃない。

「あ、私の方にもメッセージ来たよ『バレちゃった、ごめんね』だって。ちゃんと彼女として聞いてくれたんだね。優しすぎるんじゃないかな? 君のそういうところ」

 褒められているはずなのにちっとも嬉しくなかった。当然だけど。

「こんな時間に先輩に変なメッセージを送るわけにもいかないからね」

「認知の本質は多数決だよ。君が誤解を解こうとしない限り誤謬は正しい推論になって、事実は後からついてくるの。畢竟、君が否定しないままだとやっぱり君と私は恋人同士ってことになるわけ」

「でもそれは、逆もまた然りじゃないの? 僕が誤解を解こうとしたら君は終わりってことだよね?」

「そうだね。でも、しなかったから。ガリレオやコペルニクスが反旗を翻すまでは宇宙の中心は確かに地球だったんだよ」

「それはつまり僕はガリレオやコペルニクスにはなれないってこと?」

「私にここまで迫られてても先輩に迷惑を掛けたくないって意志の方が上回っちゃう君だし、なれないってことじゃないかな。それが悪いってことじゃないし、むしろ美徳だと私は思うけどね。それが弱みにもなるよってのが今現れてるってのもまた事実だけど」

「……」

「優しくて、強いよね。大好きだよ、君のそういうところ」

「僕はちょっと苦手になったかな、自分のそういうところ」

「また好きになれるよ。ゆっくりでいいから、君自身のことも、私のことも、好きになってよ」

「そんなの——」

「なってよ」

 有無を言わせない語気の強さに、思わず口を噤む。

「私、都合の良い女にはなれないけど君のことすっごく好きなんだよ。君のためにできることいっぱいあると思うし」

「最初は"私で良い"でも良いからさ、ちょっとずつ"私が良い"って思って貰えればそれで良い」

「それで、いつか君の方から私をぎゅってして頭を撫でてくれるようになったら嬉しいな。それとも君は——」

「わかったから! とりあえず鍵開けるからちょっと待って!」

 零時も近いというのに、構わずボリュームを上げていく彼女を誰かに見られたらと思うと流石にずっとインターホン越しに会話をしているわけにもいかないと思い、マイクにそれだけ言い残してドアの方に駆け出した。

 ガチャっと金属由来の鈍い音を立てて鍵を開けて、ゆっくりとドアノブを回す。いつも通りのドアのはずなのに、子供の頃に背伸びして押した実家のドアくらい重たかった。

「やっと開けてくれたね……でも、お人好しすぎて心配かな。私以外に迫られても開けないでね?」

「君以外に迫ってくるような子が現れないことを心から願うよ」

 わかりきっていたことだが、そこに立っていたのはとても可愛らしい女の子だった。整った髪をポニーテールに束ねて、白いコートの下にはガーリーでパステルな衣服を纏って、金平糖みたいに甘く優して、星屑みたいにキラキラしている女の子。

「見惚れちゃった? だったら嬉しいな、お気に入りの服なんだ、これ」

「いや……うん、かわいいよ。こんな出会いじゃなかったら一目惚れだったかも」

 軽口を叩いてしまうくらい緊張感も持てず、やっぱり悪意も感じない。ねっとりとした好意に全身を包まれるのも不思議と嫌にはなれなかったが、それでもやっぱりどこか不気味で、彼女のことが好きだなんて気持ちは微塵も湧いてこない。

「……えへへ、見つめてくれるのは嬉しいけど、続きは中でが良いかな」

 それでも微笑む彼女はかわいくて、どうにもならないため息が出そうになった。


「どうしようかな……」

 後先考えた結果、後先考えずにストーカーを部屋に入れてしまった……部屋に入って迷うことなくベッドに腰掛けたこの少女と出会ったのは今日が初めてで、僕は彼女の名前すら知らないと言ったら何人が笑ってくれるだろうか。

「とりあえずココアで良いかな、アレルギーとかない?」

 今日みたいな冬の寒い日にいつも飲むココア粉の入った袋に手を伸ばしながら尋ねる。バイト先のカフェのココアと比べると流石に安物だが、それでも冷えた身体には嬉しいはず。

「うん、アレルギーは大丈夫、特にないよ。ココア大好き」

「そっか、良かった」

「何か手伝えることはない?」

「大丈夫、座ってて」

 この家のものを触られれば触られるほど、彼女を恋人と認めてしまうような気がして嫌だった。ベッドなんか特に触られたくはなかったのだけれど……

「……でも、本当に心配だな。大丈夫? 私以外の人がこの部屋に来てたりしないよね? それって浮気だよ?」

「来てないよ」

 それが浮気かどうかはさておき。

「はい、ココア……って、コート預かってなかったね。ごめんね、気遣えなくて」

 口にした後、ストーカーに対する言葉としては似合わないなと思わず笑みが零れてしまった。

「ありがとう……やっぱり優しい、好き……」

 ……どうにも、笑っていられるような方向には転がっていないような気もするが。

「まあ今日はとりあえず、これ飲んだら帰ってくれると嬉しいかな」

「うーん、嫌かな」

「え?」

「だってせっかく君の部屋に入れてもらえて君と一緒になれたんだから、帰らないのは当然だよ?」

「願わくばこのままずっとここに住み続けたいけれど」

「このまま暮らして、永遠のおやすみのときも私は一緒に居たいし、いっしょに逝きたいに決まってるけれどいきなりは難しいから」

「だからせめて、今日のおやすみまでは一緒にいるつもりだし明日のおはようも一緒に言おうよ」

「それに、君が疲れてるなら私は君をいっぱい甘やかしてあげるられるよ。本当は私が君にぎゅってしてもらって、いっぱいいっぱいセットした形跡なんて残らないくらい頭を撫でて欲しいけど……えへへ」

「でも、君を甘やかすのも私は嫌じゃないよ。むしろやりたい、私が君のためになれることがひとつでもあるなら私はそれに全力を尽くしたい」

「だから帰らない。気を遣うことしか知らない君には難しいかもしれないけれど、たまには気を遣われてみるのも悪くないと思うよだからほら」

「おいで」

 捲し立てられた言葉の半分も聞き取れなかったけれど、最後の"おいで"に何も考えず身を委ねるのは危険な気がした。

「遠慮しておこうかな……恥ずかしいし」

「遠慮しなくていいのに……」

 不服そうに少女はそう言いつつ、それでも納得はしてくれたみたいだ。そういえば、帰る帰らないの話はどこに行ったのだろうか。

「……本当に帰らないの?」

「帰らないよ! 何? 帰ってほしいの?」

「いや、そういうわけじゃない! 誓って!!」

 誓った相手もわからない宣誓を口にしてしまった、しかも嘘。

 しかし、どれだけ温和で理性的でも目の前にいるのはストーカーなのだ。下手な刺激は絶対にまずいし、かといって受け入れるというわけにもいかない。

「ただまだ居るならさ、夜ご飯は二人分作らなきゃなって」

「あ、そういうことか。ごめんね、早とちりしちゃって」

「大丈夫だよ、全然」

 本当にそんなのは些細な問題だ。

「それで夜ご飯、まだ食べてないかな?」

「うん、服を選んでたら時間が過ぎちゃって、慌てて君の家まで向かってきたから」

 恋人がこれを言ってくれたなら、それはもう信じられないほどに嬉しいんだろうな。

「そっか、じゃあ一緒に食べよう」

「でも、そこまで君に任せるのも悪い……けど、客人に冷蔵庫を触られるのは流石に嫌?」

「そうは思わないけど、客人なんだし僕に任せてほしいな」

「そっか、じゃあお願いしようかな」

 変なところで常識的な気遣いができるところがちょっとだけ憎めなくて嫌だな、なんて思いながら、机を立ってキッチン……と呼んでいいのか小さいコンロとか冷蔵庫とかが並んだ部屋の隅に立って、冷蔵庫の扉を開いて悩み始める。冬だというのに、冷蔵庫の涼しさは妙に気分が良かった。

「何作ってくれるの?」

「そうだね……オムライス、かな」

 それなりの量蓄えられた冷蔵のご飯を見て呟いた。


 小皿に適量取り分けたオムライスを店だとまず使わない小さいスプーンで掬って食べる。

「……うん、おいしい。お店で食べるやつも好きだけど、こっちも同じくらいか、それ以上においしい」

「そう言ってもらえると、作って良かったって思えるよ」

 家にせよお店にせよ、なかなか料理に感想を貰える機会というのはなくて純粋に喜ぶ気持ちが芽生えてしまった。彼女が家に来てから解けない緊張と矛盾して頭がおかしくなりそうだ。

「それに、大きいお皿から二人で取り分けて食べるの、なんか家族って感じで嬉しいね」

「それは……あはは」

 同意するのが随分と厳しいことを言われて、苦笑いと愛想笑いの中間くらいの笑みで返事をした。

「これを食べたら……」

 帰ってほしい、と言いかけて時計に目を向けると既に零時を回って、一時に差し掛かっていた。流石にこの時間に一人で返す、ってのは……うーん……

「……僕のパジャマ貸すから、寝る時はそれを使ってね」

「うん、ありがとう」


「本当に、僕が先に入ってもいいの?」

「家主なんだから、遠慮しないでよ」

「それを言われたら客人なんだから遠慮しないでよと言いたくなるけど……じゃあまあ、お言葉に甘えようかな」

「うん、存分に甘えてよ」

 そう言われて一番風呂を貰ったのはいいけれど……

「……流石に寛げないな」

 仕方がないので湯舟には入らず頭から順に全身を手早く洗ってさっさと浴室を出てしまった。大体、十分掛かってないくらいだろうか。

「あれ、早いね」

「うん、そんなに長く待たせるのもって思ったんだけど……」

 リビングに入って直ぐ目に入った、腕を捲ってキッチンに立つ彼女に目を奪われる。別にかわいいとかそういう理由ではなくて、

「食器、洗ってくれてるんだ」

「うん、早い方が良いかと思って……ダメだったかな? 一応水の無駄遣いにはならないようやり方も注意したつもりだけど……」

「すごく嬉しいよ、ありがとう……手冷えちゃったよね? 後はやっとくからお風呂入ってきてよ。食器、本当にありがとう」

「そんなに感謝されても困るよ、当然って顔で受け止められてもそれはそれでだけど。じゃあお風呂いただくね」

「うん、いってらっしゃい」

 彼女を見送ってから、少しぬるくなったお茶を飲んで一息吐く。

「はぁ……」

 忌避感はある。好きにだってなれそうにない。生活をどこまで知られていて、どこまで見られていたのかというのはすごく怖いし、先輩が何をどこまで話したのかも恐怖の種だ。けれども……彼女のことを無碍にしたくないと、丁重に扱いたいと、そういう気持ちが芽生えていたこともまた、事実だった。


「はっきり聞いちゃうんだけどさ」

「うん」

 収納から取り出した布団に入って、掛け布団の端を癖で握りながら声を掛ける。ベッドの方からも重たい布が擦れ合うような音が聞こえた。

「なんで僕のことを好きになったの?」

「うーん……思い出してほしいって言うのはめんどくさいよね。私からすれば一大イベントだったけれど、君にとっては特別でないことだったんだと思うし」

「というと?」

「私はただ、君が優しかったから好きになっただけなんだよ。思い出せないにしても、覚えてないかな? ほら九月の後半に、大雨が降った日あったよね」

「……あった気がする」

 記憶を手繰り寄せるように目を閉じると、少しずつ光景が浮かんでくる。普段よりも薄暗い店内で、先輩と全然お客さん来ないですねなんて話していてたら、店の前をびしょ濡れで歩く女の子が——

「——あの時の女の子?」

「あれだけ優しくして忘れてましたっていうのはすごく無責任だと思うよ」

「ごめん」

 ……反射で謝ってしまったけどごめんではないか。

「でも、だんだん思い出してきたよ。そっかあの時の……」

「君が淹れてくれたココア、おいしかったなあ……頼んでないですよって言ったら、キッチンの店員さんがって」

「……先輩」

 善意が裏目になることってやっぱりあるんだ。

「その前にタオルを渡してくれたのも嬉しかった。ちょうどその時……ちょっと気が滅入ってて……この人なら好きになってもいいのかなって、思ったの」

「そっか」

 惚れっぽいな、とかそこを僕が解釈するのは間違っているのかな……

「君からしたら当たり前の優しさだったのかもしれないけれど、その時の私には君の無償の優しさみたいなのがすごく嬉しくて好きになっちゃった」

 恥ずかしげもなく……というわけではないが躊躇いなく彼女にそんなことを言い切られて、流石に恥ずかしく思えて少し布団を深く被った。

 本当に恥ずかしいしむず痒い。その後ストーカーになりまして、なんて裏話さえなければエピソードだけで恋に落ちていたかもしれない。

「……おやすみ、かな」

「うん、おやすみ」

 そう言い合って目を閉じてそれでも彼女のことを想った。

 すぐそこの、一段上のベッドで眠る彼女を、悪い意味で意識せざるを得ない。やっぱり、今日は寛いで眠るなんてできなさそうだし、明日以降の生活を想像するのは怖い。

 それでも、あの日彼女に優しくしたことを後悔することはできなかった。



「ん……」

 カーテンの隙間から差す薄明かりに当てられ目が覚める。時計は見ていないが多分六時半くらい、普段より少し高い天井がなんとも言えない感情を覚えさせた。ベッドから気配を感じる。彼女はまだ寝ているみたいだ。

 音を立てないように起き上がって、洗面所に向かう。

「……」

 パシャパシャと顔を洗ってタオルで拭く。化粧水等が置いてある台を見ると歯ブラシが二つ並んでいて、それがなんだか無性におかしくて少し笑みが零れた。どうしようもなく、不格好に引きつった笑みではあったけれど。


 部屋に戻ると、少し寝癖のついた彼女がぼんやりとした目でベッドの上に座っていた。小さく欠伸をしたかと思うと、こちらに気づいて立ち上がって近づいてくる。

「おはよ」

「おはよう、よく眠れた?」

「うん、いつもよりぐっすりだったかも」

「それは……よかったの、かな」

 何か寝具とかが合ってないんじゃないか、とか邪推してしまう。まあでもぐっすりだったのなら家主としては何よりなのかな。

「朝ご飯作るね。ご飯とパン、どっちがいい?」

「基本ご飯派だけど、朝はパンの方が……って、流石に何か少しでも手伝わせてよ。昨日から君に頼りっきりで、君に甘えたいとは思うけれど君におんぶに抱っこで生きたいわけではないんだよ、私」

「そんなことは思ってないけど……そこまで言うのなら、冷蔵庫から——」

 材料を取ってもらって、切って、パンに挟む。そこにキッチンに一緒に立って、なんて条件が付け足されると随分と抵抗が生まれるけれど、でもそれは彼女を拒む理由になるほどの気持ちでもないような気がして、心は羽を怪我した鳥みたいに、着地の仕方も忘れて不安定に揺れ続けていた。


「ん……じゃあ色々と、ありがとうね」

 朝食を終えて歯を磨いてから、彼女はそう言って壁にかかったコートを手に取った。

「あれ……帰るんだ」

「うん、流石に着替えもないし、土日ならいざ知らず……今日は火曜日、平日だからね」

 彼女のその言葉を聞いて、心の中で安堵の息を漏らした。そうだよね、流石に彼女にも、彼女の生活というものがあるはずだ。土日ならどうなっていたのかは……やめておこう。どうせ僕は週末家に居ないし。

 玄関の扉を開けると、冬空の寂しげな朝日が部屋に差し込んだ。

「じゃあ、またね」

「うん……また」

 どういう気持ちで再会を願う言葉を口にしたのかはわからない。しかしそれが思った以上に簡単に発されたものだったのは確かだった。


「よし……」

 七時半ごろ、いつものように玄関の鏡の前で身だしなみの最終確認をしてから扉を開けた。

「いってきます」

 今まではこの瞬間も彼女に見られてたんだなあと思いながら鍵を閉める。アパートを出ていつも通りの道を歩き、時々気になってチラッと後ろを振り返るも、特に人影とかはなかった。

「まあ流石に居たら話しかけてきてくれるのかな……」

 神経質になりすぎても意味はないと思って、素直に前を向いて駅まで向かった。


「おはよう」

「おはよう……えへへ、二回目だね」

「……うん」

 駅のホーム、電車を待つ列の最後尾で今朝別れたばかりの彼女と朝の挨拶を交わす。

 髪を下ろして、服装も昨日とは違ったフェミニンな雰囲気で、ふんわりとベージュのカーディガンを纏って全体的に大人っぽく、けれども端々にふんわりと優しいかわいさも感じられて、モンブランみたいですごく好きなのだけれど、彼女がここに居ることそのものに対する恐怖がギリギリ勝ってしまっていた。もったいない。

「ここにも、毎日来てたの?」

「七号車、七時五十六分。いつもおんなじ時間だよね」

「そうだね」

 意識して同じ時間にしているというよりかは、意識していないからこそいつも同じ時間になっているのだけれど。

「それなら毎日一緒に行けるなと思って、今までは少し遠巻きから見つめるようにしてたけど、今日からはいいかなと思って」

「……まあ、いるかもしれないと思わされるよりは、一緒に居てくれた方が安心ではあるけれど……というか、最寄駅おんなじだったんだ」

「私の家から君の家まで、徒歩十分もかからないよ」

 嫌な偶然だ。将来的には引っ越しも考えておこう。

「それで……君の目的地はどこなの? 流石に僕についてくるために電車に乗ってるってわけじゃないよね?」

「あれ、言ってなかったっけ」

 電車の到着を知らせるアナウンスが流れ始めた。同時に強い風がホームに向かって吹き始める。

「私、君と同じ大学なんだよ」


 電車の連結部近くに二人押し込められて会話をする。電車の走る音がうるさくて、今の声量でしっかり会話できているのかイマイチ自信が持てなかった。

「知らなかったよ……元々僕たちって毎日会ってたんだね」

「うん、私も気づいたのは君を好きになった次の日に初めてだったよ。講義で見かけた時にびっくりしたし、ただの偶然じゃないなって思ったの」

「君がそれを運命とする自由だけど、それが運命と定められるのは束縛だと僕は思うよ」

「私だって、ラプラスの悪魔の存在を認めたいって言ってるわけじゃないんだよ」

「そんな話してたっけ?」

 とりあえず世界が非決定論的だとすればラプラスの悪魔は払われるということと、そんなのが主題の会話ではないと言うことくらいは僕も知っている。

「どちらかと言えばそこには奇跡って名前を付けてあげたいかな、私は」

「その心は?」

「私の人生、私の選択に意味があったんだって思えるから。運命や因果だけじゃない、私の意思で君と出会える愛しい今に辿り着いたのなら、その軌跡は奇跡と呼んで良いと思う……って、ちょっと詩的すぎたかな?」

「いや、わかるよ、ちょっとだけど」

「そっか、ちょっとでも伝わったのなら百点だね」

 電車が大きくガタンと揺れた。後数分もしたら目的の駅だ。



「……よしっ」

 カフェの制服に着替えて鏡で身だしなみをチェックしてからホールに顔を出す。

「先輩、お疲れ様です」

「お疲れ様〜今日大学どうだった?」

「彼女と気まずかったですね」

「あはは、ごめんごめん」

 なんせ五限中四限も同じ授業だったので、落ち着かないにもほどがあった。ちょっとの八つ当たりくたいは許してほしい。

「もう開店しちゃって大丈夫?」

「大丈夫です。キッチン入ります」

 軽く仕込みをしていると、入り口のドアベルが鳴る音が聞こえたのを皮切りに続々と注文が舞い込んでくる。

 注文を受けて珈琲を淹れたり軽食を作ったり。気は抜けない程度に忙しい時間が大体開店から二時間ほど続いた。カフェでこれなのだから、居酒屋バイトなどは考えたくもない。

「お疲れ〜ピークタイム終わったっぽいよ」

「了解です」

 いつもだったらキッチンで雑用を済ますのだけれど今日はそれらを後回しにしてホールの方まで出ることにした。お客さんは食事中の方が一人だけ。引いたまま戻されていない空っぽの椅子たちが随分と寂しげに見えた。

「珍しいね、ホールに来るなんて」

「彼女が来てるってことを知ってしまったので。先輩と話してるってことは多分いつもこのくらいの時間なんですよね?」

「だね」

 アナログ時計の針はピッタリ十時。来るのかななんて考える心の動きが期待からくるものなのか恐怖からくるものなのか、自分でもよくわからなかった。

「彼女さん居たなら教えてくれても良かったのに」

「彼女がいる人として扱われるのが恥ずかしかったので」

「なにそれ」

「なんなんですかね」

 ほんと、なんなんだろう。

 じーっと時計の秒針が進むのを眺めながら彼女を待つ。だんだんと頭がぼんやりしてきた頃にドアベルの大きな音が響いて瞬間目線が扉に向く。

「失礼します」

 先輩に断ってからカウンターを出てドアの前に立つ彼女の元まで歩き出す。彼女は少し驚いたような顔をしてから、小さく幸せそうな笑みを浮かべて歩み寄ってきた。近づくとふわっとホイップみたいな甘い匂いがした。

「来てくれたんだ」

「うん、昨日は君の家に行く準備に時間がかかって来られなかったけれど本当は毎日だって来たいんだよ」

 言い草的に本当に毎日来ているというわけではないのだろうか。

「えっと、そこの角の席でいいかな」

「うん。ちょっとだけでも、お話しできそう?」

「そのつもりの角の席だし、ずっとは流石に難しいけど」

「やった」

 愛おしむような笑みを浮かべる彼女はかわいらしくて、けれどもやっぱり恐怖やストレスは未だに拭いきれなかった。


「ごめんね、食べながらで。これ、凄くおいしいよ」

「普段自分が作った料理を食べてくれるところなんて見たことがなかったから嬉しいよ、ありがとう」

 サンドイッチを美味しそうに食べる彼女を見ながらそう返す。実際少し心が温まるのを感じていた。

「珍しいね、君がホールに出てくるなんて」

「君が来てくれてるって知ったからね」

 良くも悪くも、出てこないという選択肢はない。

「そっか……先輩と仲良さそうに話してる君が窓から見えてて、ちょっと嫌な気持ちになっちゃった」

「そう言われても……」

「別にどうしてほしいって話じゃないよ、君を束縛したいわけではないし」

 あんまり信頼はできない言葉だなあ……

「ああでも、浮気をしたら殺すよ?」

「しないよ」

「一緒に死んであげるから、そこは安心しても良いよ」

「何の安心を貰ったの? 僕は」

「もちろん私も君が浮気をするなんて思ってるわけじゃないよ」

「ただやっぱり君の魅力を知っているのは世界で私だけが良いなって思うし」

「君のことを世界で一番好きだなんて驕っている人が出てきたりしたら」

「私はすごく嫌だから」

「だから君にも気を付けてほしくて——」

「や、ちょっと待ってよ」

「ん? どうしたの?」

 捲し立てる彼女の言葉を遮って、恐る恐る言葉を紡ぐ。

「その……一旦認知とかの話は置いといてさ、僕はまだ……」

「……私を恋人だと認めてないって話?」

 呟かれた彼女の言葉は鉛のように重たくて、恐る恐る首を縦に振って肯定を示そうとするも頭は上がらず、俯いたままで固まった。

「はぁ……うん、君の淹れてくれたカフェオレ、やっぱり美味しいね」

 コトっというカップを置く音と共に、そんな言葉が聞こえた。

「大丈夫、どうしようもなくむしゃくしゃしちゃうけど、そこのところはちゃんとわかってるつもりだよ」

「そう……」

 大声なりカップが割れる音なり、そういう大きな音が鼓膜に響かないことが不思議なほどに怒気を帯びた気配を帯びた声色だった。いっそそうなってくれれば嫌いになれるのに、とすら思っていた。

「わかってるし、無理に好きって言ってと言うつもりもないよ。人を思いまで縛るなんてことはできないわけだし、それって本当の愛からは遠ざかる行為だと思うから」

「う、うん」

「それはそれとして、私の君に好きになって欲しいという気持ちにも変わりはないからね、仮に今君に『私のこと好き?』って聞いた返事が私の望まないものだったとして、それでも私は諦めないし、君から離れれるつもりは毛頭ないよ」

 彼女の言ったことは、そのまま僕も理解するところではある、けど……

「うん、嬉しいよ困った顔してくれて」

「いい性格してるね」

「別に君を困らせて喜んでいるわけじゃなくて、困ってるってことは君が真剣に私とのことを悩んでくれてるってことじゃない? 前にも言った通り、君が拒絶さえすればすぐに私はこうして君と話すなんてのはできなくなるわけだけど、そうなってないってのはそういうことだからでしょ?」

「そうなんだけど……」

 それはそれとして彼女を恐れて忌避する思いが強く心に根差しているのも事実で、

「一応言うと、例えば君が私を拒絶したとしても私が君に直接的な危害を加える、ということがないのは約束するよ」

「そこは僕もなんとなくわかってるよ」

 というか、そういう気配を感じていたら流石に悩むまでもなく警察とかに相談する。

「だよね。それだけわかった上で、君が悩んでくれてるのなら、私に取って今のところは十分だよ」

「そっか」

 怒りもすっかり収まった様子の彼女をぼんやり見つめる。そういった感情を溜め込まずにしっかり消化したりやはりすごく理性的だ。嫌いになれないボーダーラインを指先でなぞるような行動を一貫して取っているような気がする。

「じゃあ僕はそろそろキッチンに戻るよ」

「え……まあ仕方ないか。バイト後四十分くらいだよね? 一緒に帰れたりするかな?」

「待ってくれるなら、一緒に帰ろうか」

「やった、いくらでも待つよ」

 君のためじゃなく私のためと付け足してから、彼女はチーズケーキを注文した。


 二十三時過ぎの人通りの少ない道を彼女と二人で歩く。こんな静かで暗い夜を誰かと歩くのは初めてで、新鮮な気持ちにワクワクする思いもある反面、少し心が疲れるなという気持ちも僅かにあった。

「君も家同じ方なんだっけ?」

「うん、君の住んでるアパートから川沿いを五分くらい歩けば私の住んでるアパートだよ」

「本当に近い……」

 川沿いの寂しく枯れた桜並木を思い出しながら、ため息に似た息を漏らした。毎年雪が降るかはまちまちだが、あの木々にも六花が咲く日は来るのだろうか。

「君も気が向いたらいつでも遊びに来てくれていいよ。あ、そうだ、合鍵いる?」

「大丈夫、いくら何でも荷が重いから」

「そっか、残念」

 言葉の割に落胆の色が見えない返事はその色を見極めるよりも先に夜の闇に溶けて消えていった。


「じゃあ、今日はこれで」

「うん、またね」

 彼女のアパートに着いてそんな風に言葉を交わした。古臭い街灯が程よく光って、とても心地よく思えた。

「あ……そういえば会えたら聞きたいと思ってたんだけど、君土日はいつも何してるの?」

「あれ、知らないんだ」

「朝方に家を出て電車に乗るところまでは知っているけれど、それ以上は流石にプライベートかなと思って」

 相変わらず理解しがたい倫理観だけど……

「その後、鍵が回るのは日曜の二十二時くらい。ほとんど二日も、どこ行って何してるの?」

 知らない部分以外は全部知っているところにえも言われぬ恐怖心を覚えて、冬らしい冷たい汗が伝ったような気がした。

「……浮気?」

「しないって」

「じゃあ、何してるの?」

「実家に帰ってるよ」

「毎週?」

「毎週」

「近いんだ」

「近いよ、電車で一時間掛かるかな〜くらい」

「本当に近いね! 近いし、仲良いんだね」

「うん。いいよ」

「ふーん」

 少し納得できない、みたいな顔をして彼女はため息を吐く。

「週末、止めちゃダメかな?」

「困りはするかな」

「金曜に泊まるのは?」

「もっと困るよ」

「嫌だよ地元って、まさか元恋人とかいないよね?」

「いないよ」

「幼馴染とかは?」

「いるけど、中学以降は音沙汰なし」

「ふーん」

 彼女はそう呟きながらやっぱり納得したくない、とばかりに頬を膨らませて髪をくるくると弄び始めた。

「何しに帰ってるの?」

「別に理由はないよ、家に居てもどうせ課題を進めたりするだけだからせっかくだしで帰ってるだけ、ご飯作らなくていいしね」

「食費も馬鹿にならないもんね」

 そう相槌を打ってから彼女は少し思案したのち、大きなため息を吐いた。白い息は数秒の躊躇いを見せた後に霧散して消えた。

「信じるよ?」

「任せてよ」

 何を? と自分で思ってしまうような返事に彼女は満足したらしく、これで本当にまたねと言って彼女は小さく手を振って、アパートに入って行った。僕はそんな彼女をぼーっと眺めて……

「二階の一番奥の部屋か」

 少しくらい意趣返しをしたってバチは当たらないだろうなんて、我ながら子供っぽいなと呆れながら暗い帰り道を一人で歩いた。



 水曜日の二限、第二外国語の授業が終わって教室が少しざわめきだす。

「ふわぁ……」

 不意に出てきた欠伸を噛み殺して目を開けると、講義終わりの賑やかな教室入り口に見覚えのある姿を見つけて、教科書を鞄にしまいながら駆け足で彼女の元まで向かった。

「どうしたの?」

「一緒に食堂行きたいなって思って。大丈夫?」

「うん、行こうか」

 彼女と一緒に教室を出て足並みを揃えて食堂に向かう。傍から見たら随分と親しげに歩いているように見えるだろうし、認知が僕らを恋人にするというのは要するにこういうことなのだろうか。

「君はイタリア語なんだっけ?」

「うん、そうだよ」

「何かイタリア語を選んだ理由とかあるの?」

「特筆するような理由はないよ。昔ピアノを習ってたから、音楽用語って結構イタリア語だったなって思って」

「弾けるの?」

「手慰み程度には、かな」

「そうなんだ」

「君のフランス語は? やっぱりスイーツが好きだから?」

「合ってるけど、誰に聞いたの?」

「君がスイーツを好きって話なら、バイト先で君の先輩から」

「そっか……」

 まあ……いいか、それくらい。

「いいよね、かわいいし。作ったりもするの?」

「あんまり。作りたいとは思ってるんだけどね」

「そっか、毎日忙しそうだもんね……今もちょっと、疲れてる?」

「そう? まあ水曜日だし、水曜並みの疲れだと思うよ」

「ふーん……なら、良いんだけど」

 彼女がそう呟いて会話は終わり、ちょうど食堂に到着した。


「ピークタイム終わったっよ〜お客さんも居ないし、休も休も」

「了解です」

 先輩に呼びかけられて、目の前の食器を片付けてからフロアに顔を出す。

「お疲れ様」

「お疲れさ……ふわぁ」

「あはは、ほんとお疲れ様〜って感じだね。どしたの、寝不足?」

「昨日は普段と同じくらいに寝たはずなんですけど……すいません、お客さんには見られないようにします」

「いや、私はそんなところ求めないけどさ、君の方がしっかりやってるくらいだし……ちゃんと休んでね?」

「休んでますよ、週末は実家で家事スキップですし」

「そうだったね、いいね〜気軽に帰れると」

「ですね」

 カウンターに頬杖をつきながら呟く先輩に相槌を打って、ぼーっと扉の横の窓を眺める。

「……来ないな」

「あれ? 君結構そういう恋しがるタイプだったっけ?」

「それは肯定も否定もしませんが、今は別に寂しくはないですよ」

 むしろ恐怖心の方が強い。ジャンプスケア×人怖だ。

「ふーん……あんまりイジるのも趣味が悪いから、これくらいにしておくけどさ」

「助かります」

「告白はどっちからだったの?」

「先輩」

「あはは、ごめんごめん」


「結局彼女さん、来なかったね」

「ですね」

 仕切り越しに話しかけてくる返事をしながら制服を畳む。なんとなく着替え中に会話をするのは気まずさを覚えてしまうのだけれどどうやら先輩はそんなことないらしい。

「さっきは濁しましたけど、ぶっちゃけちょっと寂しいかもです」

 高校生の頃明日も当然会えるだろうと思っていた友人が病欠した時みたいな、そんな寂しさがある。

「この後連絡とか取る?」

「まあ、はい」

 不安ってほどでもないけどちょっと気になる。僕から連絡したことがないのにそんなことをしてもいいのかななんてわけのわからない疑問まで頭に湧き始めた。

「別に喧嘩したとかではないんだよね?」

「そういうのは、全然です」

「じゃ、彼女さんによろしく」

「了解です」

 靴を履き替えカーテンを開けて、少し抵抗のある肯定をしながらタイムカードを切った。先輩はまだ更衣室の中。

「先上がります。お疲れ様でした」

「お疲れ様、また明日ね」

「はい、また明日」

 また明日。

 もし明日先輩に会えなかったら。

 嫌だ。凄く嫌。考えれば考えるほど嫌になる。会いたいし、話したい。


 じゃあもし、彼女に明日会えなかったら?

 嫌な気はするけど……じゃあ、会いたいのかと聞かれたら……

「……うーん」

 唸りながら勝手口を開けると、

「あっ」

 馴染みのある甘い声が聞こえて、

「バイトお疲れ様」

 何かが心に染み込むのを感じた。


「ごめんね、バイト中行けなくて」

「どうしたの? 何か予定とか?」

「そういうわけじゃないし、ほんとは行こうと思ってたんだけど……ちょっと、これに時間が掛かっちゃって」

「察するに、これっていうのはその鞄のこと?」

「うん。あ、ありがとう」

 少し大きめの鞄に手を伸ばすと甘えるように持ち手が手の中に滑り込んできたのでぎゅっと掴む。少し重たい。大きさといい、普段使いしているものではなさそうだ。

「何が入ってるの?」

「色々だけど、時間が掛かったのはお弁当」

「お弁当って、作ってくれたの?」

「うん、君は料理が趣味っていうのは知ってるんだけど……バイトから帰って夜ご飯を作るのは大変だろうし、何より昼の君が疲れているように見えたから」

「そっか……ありがとう」

「感謝されるようなことじゃないよ。君のためのようで返報性の原理にかこつけた下心のような気もするし。それに、君の疲れの原因に私が関わってないなんてことはないだろうから、君と一緒にいるための折衷案みたいな」

「いや、感謝させてよ。僕が"ありがとう"って思ってる時点でそれは下心じゃなくて真心だし、実際すごく嬉しいんだからさ」

 疲れの原因に彼女が一役買っているということを否定はできないが。それとこれとは話が別だ。

「じゃあ……それでも、その言葉は食べてから言ってほしいな……だから……えっと、君の家、今日もお邪魔しちゃっても大丈夫?」

 もちろん……って、言うのはまだちょっと躊躇っちゃうけど……うん……

「いいよ、掃除できてなくて少し汚いかもだけれど、目を瞑ってね」

「えへへ……ありがとう」

 なんとも可愛らしく微笑む彼女と歩幅を合わせて人通りもほどほどの駅前を歩く。心が震えているような踊っているようなこの感情に名前を付けてしまうのは早計なような気がした。


 緊張した面持ちの彼女に見つめられているのを感じながら箸を手に取り、眼前の透明な保存容器に目を向ける。高校時代はずっと学食だったので初めて見るお弁当らしさに少しだけ胸が躍っていた。

 二つある玉子焼きの一つを掴んで静かに口に運ぶと、冷たいそれから出汁の旨味と仄かな甘味が口の中に溶け広がった。

「……美味しいよ、これ」

「よかった、お口に合った?」

「うん、味付けがちょうど好みの加減で……僕濃い味付けがちょっと苦手でさ、薄味ってわけじゃないんだけど、舌に馴染む塩梅で、すごく好きだよ」

 他のおかず——胡麻和えやマスタードで味つけられたチキンも、驚くほどに好みの味わいだった。

「ふぅ……ごちそうさま、凄く美味しかったよ」

「ほんと?」

「もちろん」

「じゃあ、毎日でも食べたい?」

「え……」

「食べたい?」

「……かもね」

「やった、ありがとう」

 別に毎日でも食べたいと思っていること自体は嘘ではないのだけれど、どの場合でもこのセリフって明らかに他意を含有しているのだから質が悪いと思う。

「じゃあ……よいしょ」

「え……?」

 彼女の鞄から次々と新しい保存容器が出てきて、最終的に三個まで増えた……

「今日のとは違う献立にはなっちゃうけれど、明日からはこれをレンジで温めてこれを食べてね。冷蔵庫に入れたら一週間は保つってレシピに書いてあったから——」

「待って! これを今日全部作ってきてくれたの?」

「うん、そうだよ」

 そりゃバイト先にも来られないわけだ。

「……迷惑だった?」

「いや、ありがたいけど……こんな沢山、大変だったでしょ」

「大変だったよ。でも、君に食べてもらいたくて頑張っちゃった」

「そっか……うれしいな、ありがとう」

「うん、後は……」

「? まだ何かあるの?」

 鞄から次々とお弁当では無いものが色々……って……

「シャンプー、リンス、化粧水、乳液、クレンジングシート……?」

 どんどんと巷で言うところのお泊まりセットに該当しそうな物が次々……

「……今日、泊まっていってもいいかな?」

 甘えるように言う彼女に改めてストーカーの面影が重なるのを感じた。



「おはよう」

「わっ……お、おはよう」

 目が覚めて徐に布団から上半身だけを起こすと、目と鼻の先にベッドに寝転がる彼女の顔があって、飛び跳ねるように立ち上がってから朝の挨拶が飛び出した。

「君は今日、一限?」

「二限から。君もだよね? 朝、ゆっくりできるね」

「うん、そうだね」

 生返事をしてカーテンを開けると薄明かりが差し込む。身体を包む冷たいそれを、今日だけは陽気と呼んでもいいような気がした。


 ごとっと音を立ててシンクに二つのマグカップを置く。二人で一時間近くかけて飲んだココアのマグカップ。底に残った模様から占いができるのは珈琲だったっけ。

「じゃ、帰るね」

 鍵を開けてから彼女が振り向く。マシュマロみたいにふわふわのカーディガンとビスケットみたいなベージュのブーツが手軽さの中に拘った愛らしさを纏っていて、畏敬の念を覚えそうなくらい綺麗だった。

「うん、また駅で」

 手を振って彼女を見送って、暫く扉を開けたままぼーっとする。料理を作ってくれて、偶に泊っていって、こういうのなんて言うんだっけ、通い——

「……縁起でもない」

 扉を閉めてすぐに鍵を回す。安っぽい音に急に防犯面が気になり始めて二、三回ドアノブを引くとドアが不安な音を立てた。



「金曜日だね」

「随分寂しそうに言うんだね?」

「君が週末居てくれないせいだよ?」

「あはは……」

 金曜日、月曜に出会った彼女とはこれで五日ということらしい。まあ長い期間ではないけれど、誰かとの関係を保留にしておくにはそれなりに不誠実な日数なような気もする。

「もしも帰省より私を優先したくなったらすぐに言ってね、昼でも夜でも大歓迎だよ……って、聞いてる?」

「ごめん、ちょっと別のこと考えてた」

「私のこと?」

「ではあったと思う」

 むしろ最近は彼女以外のことを考えている時間の方が少ない。心労と呼ぶには少し軽いそれは何をしていても付き纏ってくる。

「ちなみにどんなこと?」

「秘密じゃダメ?」

「私のことなのに秘密ってされたら流石に気になるよ」

「そっか……」

「そろそろ私との交際を認めてくれる気になったとか?」

「なんか不思議な言葉選びだね、僕父親だっけ?」

「私は娘婿かも。もちろん君とは結婚するつもりでいるけれど、ちゃんとお付き合いの確認からお願いしたいな」

「……保留じゃダメ?」

「そろそろダメって言いたいかも。早く色のいい返事が欲しいな」

「そうは言ってもなあ……」

 埋まっているようで埋まっていない外堀とか、彼女のことをどう処理するか決めかねているうちに複雑化してきた胸の内とか、意識すべきところが多すぎて……

「……まあ、一旦それはいいよ。結局何を秘密にしようとしたの?」

「実のところ、君との関係をそろそろ決めなきゃ不味いんじゃないかなって考えてた」

 気の利いた嘘も思いつかなくて、赤裸々に事実を連ねる。

「わ、じゃあ私の推測で当たってたんだ。えへへ、私たち相性ぴったりだね」

「かもしれない、とすら言いかねるよ」

「で、どうしようって思ってたの?」

「決めかねてるよ、未だに」

「本当、随分と人がいいよね……本当にあれよあれよと押し切られちゃうよ?」

「そんなに意志薄弱なつもりもないから大丈夫だよ」

「だよね、優しさって強さだし」

 あんまり、自分が強いだなんて思ったことはないけれど……

「私にだけ弱いところをみせてくれるようになるのを楽しみにしてるね」

「そんな日を待たなくても、君といるときはいつも弱ったなって思ってるよ」

 自然と口から溢れた軽口に思わず自分で笑ってしまう。次の駅、大学の最寄り駅まではもう数十秒も掛からなそうだ。


「じゃあ、ここで」

「うん、また……月曜日?」

「そうだね、また」

 彼女の部屋の扉が閉まるまでをぼーっと見守ってから、アパートに背を向けて自宅に向かう。カタン、と鍵が掛かる音が聞こえた気がした。

「はぁ……」

 いくらため息を吐いても身体の中に吐き出し切れない何かがある気がして、口を閉じようにも喉が苦しくてまた息が漏れた。

「土日か……」

 大学もバイトもなくて実家に帰れる二日間。実家とか両親とかに特別感は覚えないけれど、家事からも彼女からも解き放たれて、身体の疲れを取るにはうってつけ。

「雪は……降らないか。あっても雨だよね」

 広がる曇天を眺めながら、夜道を歩いていった。少し首が痛くて、ぐるっと一回りさせると小さく音が鳴った。


「……」

 一個だけの鍵を回して扉を開ける。鞄をベッドに投げて、脱いだコートも壁に掛けずに放り捨てた。

「あー……」

 理由もなく声を発してベッドに倒れ込むと、ちょうどポケットのスマホが震えた。

『おかえり』

「……」

『盗聴器とか仕掛けてないよね?』

『今度一緒に調べてみよっか? 私以外の誰かが君に固執してたらたまったものじゃないし』

 これはつまり、どっちなんだろうか。

『盗聴も盗撮もしてないよ。そろそろ君が家に着く頃かなと思ってスマホを手に取ってみただけ』

 ……まあ今更隠す理由もないし真実、か。

『そっか、ただいま』

『これからお風呂? ご飯が先かな?』

『ご飯からかな。君のくれたお弁当、ありがたく食べさせてもらうよ』

『ちゃんと食べてくれてるんだ』

『嬉しいな、どうぞ召し上がれ』

『うん、いただきます』

 暫く待っても返事が来なかったのでベッドから起き上がって、冷蔵庫の中の保存容器に手を伸ばしたところでもう一度スマホに連絡が届いた。

「なんだろ……」

 何か連絡しなきゃなことを忘れたとか……ないよね、そういう仲でもないし。

『あの』

『お風呂出たあと、寝る前……お話ししたいな、メッセージ上で』

 どうしようかな、明日朝、起きれなかったら……

「……まあ、いいか」

 他意はなく、ちょっと話したいし。

『いいよ』

『あとで僕から連絡するね』

『ほんと!?』

「わっ」

 既読が付いてコンマ数秒くらいで返信が帰ってきた。回線は随分と良好みたいだ。

『楽しみに待ってるね、ありがとう』

『感謝されることじゃないよ。それじゃ、またあとで』

『うん、また』


「寒い~」

 やるべき家事はあらかじめお風呂に入る前に終わらせていたので、後ろめたさもなしにベッドに飛び込む。冷たい。体温で温まるまでの暫くは我慢しないとダメそうだ。

「よいしょ……」

 スマホごと布団に潜り込んでメッセージアプリに指を動かす。

『準備できたよ、話せる?』

『ばっちり』

 返事と共にベッドの写真が送られてきた。彼女の部屋の中を見るのはこれが初めてか……所々置かれた小物はかわいらしいけれど、それを除くと以外に質素な部屋かも。

『僕も送った方がいい?』

『いいなら送ってほしいかな。あわよくば自撮りで』

「自撮りはちょっと……」

 彼女と同じようにベッドだけを映してすぐに彼女に写真を送る。

『わ』

『ほんとに私が寝てたあのベッドで君も毎日寝てるんだ』

『すっごくにやけてるよ、今』

『何それ』

『何かと聞かれたら、愛だよ』

「愛か……」

 彼女と出会った日、受け取り方のわからなかったそれはあの日の画面越しよりも少しだけ素直に受け止められているような気がした。

『君の家にはまだ私の歯ブラシがあって、私が口を付けたマグカップがあって、ぜんぶぜんぶ愛おしいなって思ってるんだよ』

「……」

 やっぱり受け止められるものではないような気がしてきた。

『こんなにも君のことが好きなんだし』

『正直報われて然るべきだと思ってる』

『傲慢だね』

『謙虚にはなれないからこんなことをしてるんだよ』

『納得』

『傲慢ついでに、やっぱり君と週末を一緒に過ごしたいって願ってもいい?』

『願うこと自体は自由だよ、応えられないけど』

『ほんと、すっごく家族と仲良いんだね』

「……」

 もちろん

『いいよ』

『ずっと?』

 そりゃもう、ずっとずっと

『うん、特に反抗期とかもなかったし』

『そっか』

 特に間もなく、再びポンと彼女からの連絡が届く。

『お父さんとお母さんのこと、好き?』



『当然、好きだよ』

 昨夜、彼女にした返事がふと頭に蘇る。

 実家まで向かう電車の中はほどほどに混んでいて、席に座れず連結部の近くで吊り革を掴んでぼーっと流れる景色を見つめていた。


 そう、好きだ。

 育ててくれたことだって感謝しているし、今だって授業料を払ってくれているのは両親だ。

 好きなのだ、両親のことが。

「……」

 ガタンと電車が揺れた。

「……」


 なら一体どうして、僕は大学生になるその時「一人暮らしがしたい」なんて、言い出したんだろう。


「……」

 お盆のことだっただろうか、帰省をした時に母が「一人暮らしは大変だろうから、もっといっぱい帰ってきても良いんだよ」と言ってくれた。

 特に帰らない理由もなくて、僕は毎週のように家に帰るようになった。毎週帰って来るものだと、両親共に思うようになっていたんだと思う。


「……寒っ」

 改札を出ると凍える空気が一気に肌を襲う。曇り空の下、日の光もほとんど差し込んで居なかった。手に息を吐いてみたが、そんなに温かくはなかった。

 見慣れ見飽きた街を歩くことに面白味を感じられなくて、鬱屈としたため息を吐いてゆっくりと歩みを進めた。


 大体五分歩くと皚雪川沿いに出る。あの街に流れてるのと名前は違うけど何処かで合流する同じ川のはず。確かあっちが下流でこっちが上流。この川に飛び込めば、あの街まで流れ着いたりできるのだろうか。

「……何それ」

 嘲笑も出ないくらいくだらない。

 手提げを握った右手のひらが少し痛くなってきた。ラップトップが入っているせいで、見た目の収まりに反して重苦しい。


 川を越えて公園の傍を通り抜け、住宅街を暫く歩くと実家前に着く。重たい金属製の冷たく重たい扉に手を掛けて一度息を吐いた。

「ただいま」

 扉を開けた途端副流煙の苦い香りが鼻の奥を虐める。幼少期から嗅ぎ続けたそれに嫌悪感はなく、かと言って毛程の安心感も覚えることはなかった。

 ドアが開く音を聞いてかすぐ母が玄関にやって来て、追うように父もやって来る。

「おかえり」

 母にそう言われても、

「おお、帰ってきたか、おかえり」

 父にそう微笑まれても、やっぱり心は緊張感を帯びたまま。けれども、それを隠して口を開いて

「ただいま」

 いつものように心にもない言葉を、ずっと昔から張り付いた笑みで投げ捨てた。


「お昼ご飯、どうする?」

「うーん……まだいいかな、大学のレポートを少し進めたいから……十三時くらいになったら、食べたいかも」

「わかった、あなたも一緒でいい?」

「俺は……いいかな、昼ご飯は」

「了解。じゃあ一人分準備しておくわね」

「うん、お願い」

 母に伝えて、手提げを引っ提げたまま二階にある自室に向かった。階段が軋む音が不快だった。


 机に着いてパソコンを開く。現状記されているのは骨組みだけざっくりと決めた五百字程度。課題を抱えている、という状況が嫌なのでできればこの土日、あわよくば今日中には終わらせたいけど……

「……まあ、僕次第か」

 下手にどれくらい掛かるかなんて考えても意味がない。そんなことをするよりさっさと手を動かすべきだと思い、キーボードに指を落とした。


「はぁ……」

 キーボードから指を離して背もたれに体重を預けた。芳しいようなそうでもないような、自分がどこまでできる人間なのかよくわかっていないのでその評価も下せない。

「……喉乾いたな」

 身体を鼓舞して立ち上がり、母に伝えた十三時よりは早いけど部屋を出た。

 相変わらずの階段を軋ませて一階に降りてリビングに——

「だから俺はそれがわからないって言ってんだよ!!」

「わからないって何!? 好きにしたらいいじゃないの!!」

「……」

「そうじゃなくて! 俺はやっていいのかどうかって聞いてて——」

「そんなの知らない! 好きなようにしたら——」

「……」

 ドアノブから手を離して抜き足差し足で、二階へと静かに戻っていった。


「……そろそろ終わったかな」

 十三時半ごろ、一階に聞き耳を立てながら進めた中途半端な課題を置いて、再び一階へと降りてみる。緊張しながら徐にリビングの扉を開けてみると、そこには既に父は居なかった。

「ご飯、もう出来てるわよ」

「うん、ありがとう……いただきます」


「……でね、お父さんが『俺はそれがわかんない~』の一点張りで、ずっと怒っててね……」

「あはは……それはそれは災難だったね、お父さんにも一理ないことはないけど」

「そう? でも——」

 一定のペースで昼食を口に運びながら、母の愚痴に言葉を返す。

 同意を並べて、どちらかに肩入れをしないように咎めつつ笑みを浮かべて……なんて昔は意識していたような気がするけど、今は特に何も考えずとも言葉が口から吐き出されていた。

「まあ、確かにお父さんも言い過ぎだとは思うけどね」

「でしょ? だから——」

 昼食の焼きそばは味が濃くて、実家を感じる味だった。


「……はぁ」

 食事を終え、母の愚痴を暫く聞いてから部屋に戻ってベッドに寝転がった。

 毎回この手の話の聞き手に回るたび何が楽しくてこんな話をだろうと思ってしまうのだけれど、母は楽しそうだからきっとそれでいいのだろう……こんな風に考えている、ということはやっぱり僕はこの現状が嫌なのだろうか。

「……」

 母と父のことが好きだ。

 今まで育ててくれた恩も、全部を覚えてるなんて言わないがそれでもしっかり恩返ししたいと思っている。

「……寝よ」

 なんか頭がぐちゃぐちゃしてきた。

 今課題に手をつけてもどうせ進まない……だったら一旦……



「ん……」

 目を覚ますと既に夕飯の時間で直ぐに一階に降りる。

「夜ご飯、すぐにできるからちょっと待っててね」

「うん、わかった」

 リビングのソファに座って夕飯を待つ。隣には父も座っていた。

「どうだ? 大学はそろそろ冬休みか」

「だね、来週から」

「そうか、せっかく行かせてやったんだからいいとこに就職して父さんを楽させてくれよ?」

「……うん、頑張るよ」

 目をテレビの方に逸らしながらそう返事をした。バラエティが流れていた。

「……」

 口から漏れ出そうになったため息を飲み込んだ瞬間、キッチンの方からけたたましくベルが揺れるような音が聞こえてきた。仮に火事でも起きていないのなら、まあ電話の音だろう。

「はい、もしもし」

 着信音が止まって母が通話を始めた、多分またママ友と。僕とは既に縁が途絶えた相手とも、親同士はずっと繋がっているのだから不思議なものだ。

「ええ、ねえ、うちの子も受験が終わったら全然勉強してる様子なんて見せなくて、ほんといつ勉強してるんだか」

「……」

 一人暮らしな上に部屋で勉強してるんだから、見せないというか見られなくて当然だと思うんだけど……そもそも、受験期にも同じようなこと言ってたし……

「……っ」

 不意に、口の中に気色の悪い鉄の味が広がって、少ししてそれが血の味であることに気付いた。知らず知らずのうちに下唇から血が垂れていたみたいで……

 ……なんで僕、こんなところに居るんだろう。僕が帰る場所って、もっと——

「——あれ」

 立ってる。ソファから、立ち上がってる。

「おい、どうしたんだ?」

「……ごめん、急用」

 ぶっきらぼうに言い放って、何かを考える前に身体を突き動かし、二階から荷物を掻っ攫って早足で玄関まで向かう。

「……ごめんなさい」

 階段からどたどたと音が響いて、荒々しく動くことへの罪悪感できゅっと胸が苦しくなる。少し俯きながらも足を止めずに玄関の扉を開けて、鍵も閉めずに駅に向かって駆け出した。



「……思った以上にもどかしいな」

 自分以外に誰も居ない電車の中でポツリと呟いた。

 鞄をお腹に抱えて、電車の中で過ぎる時間を恨めしく思い続ける。何を思っても電車の進みは変わらず一定なのだけど、それでも何も考えずただ時間を見過ごすというのは難しいことだった。

「……あれ、雨か」

 電車の窓に雨粒が張り付き始めた。大雨とまではいかないけれど、小雨というには激し過ぎる程度の足音が聞こえてくる。

 傘、持ってないな。パソコンも持ってるし、急いで走らないとかもな。

「ふわぁ」

 やけに暖かい車両の空気に当てられて、少し眠気も感じ始めた。乗り過ごしとかしなければこの空気の中うつらうつらするのも悪くないけど、降りた途端厳しい寒さに襲われることを考えると少しだけ憂鬱になった。


「はぁ……寒い」

 ホームでも感じていたけど、改札を出るとより酷い空気に思わず息を洩らした。

 土曜の夜ということもあって駅前は人でごった返して居たけれど、この中の誰一人として僕のことを知らないんだと思うと少し面白かった。

 ……雨、結構強くなってるな。流石にコンビニとかで傘——

「おーい」

「……え?」

 パステルながら透明感のある服に、雨に濡れたビニールの傘にはカラコロとした無邪気さが、飴玉みたいないつも側に居てほしいと願ってしまう優しさのある甘い姿でこちらに駆け寄ってきて、

「えへへ、来ちゃった」

 すっかり聞き慣れてしまった声でそう言われて、けれど僕の心臓は今まで感じたことないくらいの高鳴りを覚えた。


「傘、入る?」

「入れてもらいたいけど……どうして僕がここに居るのがわかったの?」

「君、普段あんまりスマホ見ないんだね?」

「え……」

 鞄からスマホを引っ張り出して、指を当ててロックを開くとすぐホーム画面が視界に飛び込んでくる。あんまりしっかり眺めたことはなかったけど……

「……見覚えのないアプリがあるね」

「位置情報の共有ってこんな簡単にできちゃうんだね。君の方から私の場所も見られるようになってるんだよ」

「ははっ、ほんとだ……あははっ……」

 アプリを開くと点が二つ駅前に密接して表示されていた。彼女が泊まりに来たときだろうか、指紋認証だしロックも簡単に解除できたはずだ。そう理解した上でおかしい、正気じゃないと思うし……その上で不思議と怖くない。

「ねえ、ご飯もう食べた?」

「まだだよ。君もなの?」

「実家で食べ損ねちゃって、どうする? ファミレスとか……またうちに来たいなら、それもいいね」

「あ……」

 彼女は驚いたように気の抜けた声を出して、少しして破顔、という言葉がこれ以上ないくらい相応しく思えるような幸せに満ちた微笑みで、徐に口を開いた。

「じゃあ、私の家に来てよ。鍋でも囲みながら、いっぱいお話ししようね」


 

「そろそろいいかな?」

「豚肉だし慎重になったほうがいい気もするけど……うん、大丈夫そうかな」

「やった、じゃあいただきますだね」

「うん、いただきます」

 二人で準備した鍋から具材を装って箸で摘まむ。温かい具材が芯から身体を暖めていく。二人で鍋を囲っている状況自体が暖めてくれるところもあるような気がした。

「そういえば、さ」

「うん? どうしたの?」

「聞いてもいい? 君の実家のこと」

「……意外と踏み込んで来るんだね?」

「私はずっと君のプライベートに踏み込んでたと思うよ」

「……そっか、そうだね」

 思い出すまでもなくこの子はストーカーだし、出会いは深夜に突然鳴ったインターホンだ。

「流石にあの頃の恐怖心は忘れられないよ? 本当に怖かったんだから」

「君が私のことをただ君を追い続ける偏執者ストーカーって呼ぶのなら、私は君のことを一挙手一投足で私の心に燃料を焚べる給炭者ストーカーって呼びたくなるけどね」

「……上手いこと言った風だけど、流石にその先に納得は待ってないよ?」

「えへへ……だよね、頑張って反省してみる」

 頑張らないとダメなことなんだ……

「……というわけで話してみてよ、君の家のこと。別に愚痴を吐けって言いたいわけでも、悪く言えって促してるわけでもないの。世間話気分で、どう?」

 世間話気分、か……確かに重く考えすぎてたのかも。だって所詮、家族の話だし。

「……本当にいい両親だったんだよ。一緒に暮らしてて不満も不自由も感じたことなくて、それで……」

「うん」

「えっと……」

「……」

 なんて言ったらいいのかわからなくて、箸も言葉も止まってしまう。彼女が不思議そうに僕の顔を覗き込んでいた。

「……ごめん、ちょっと——」

「大丈夫だよ」

「っ……」

 彼女にそっと手を掴まれて、頭の靄が一気に晴れる。あったかくて柔らかい、優しさを感じる手のひらだった。

「……ありがとう」

「違うよ。私が君の話を聞いて、君を癒したくてしてることなんだから、感謝されるようなことじゃない」

「言わせてよ、ありがとうって。君のそれが優しさじゃないって言われるのなら、僕のなんてもっと酷いものだよ」

「そんなことない~なんて水を掛け合う時間ではないか、冬だし」

「夏ならいいのかもしれないけどね」

「私、海は苦手だな」

「僕も、夏祭りとか花火とかの方が好き」

「じゃあ来年は一緒に行こうね、鍋を囲みながら話すことじゃないかもだけど」

「だね……うん、手、もう大丈夫」

「ダメ、私が繋いでたいんだもん。ずっと離さないよ」

「……そっか」

 ……うん、そうだよね……

「じゃあ代わりに、僕が話すことにするよ」

「うん、聞かせて」

「……二人とも自分がしっかりしてる人だから、よく喧嘩してね——」


「……そっか、君はやっぱり決して両親のことを悪く言わないんだね」

 慈愛とか、そういう言葉が相応しいのだろうか、とにかく優しげに相好を崩しながら僕の話を聞き終えた彼女はそうぽつりと呟いた。

「うん……まあ、そうだね」

 あんまり悪く言う、みたいなのは性にあってなくて……とかが僕の本音というよりは、もっと正直に言うなら……

「……こんなこと言ってもらってすぐに悪いんだけど……母みたいになるのが嫌だったんだと思う」

「お母さんみたいに?」

「うん……悪口とか陰口とか、そういうのを溢す母が……そういう側面が、やっぱり僕はすごく嫌いみたいで……こうはなりたくないって思ったんだと思う……これ自体が陰口っぽくなっちゃってるのは、えっと……」

「全然違うよ、君のは愚痴とは違う。アインシュタインとモノリスくらい違うよ」

「ふふっ、アインシュタイン一つの石モノリス一つの石なら同じじゃないの?」

「上辺だけはね、実際の意味は全然違うでしょ? 確かに上辺は愚痴っぽいけど、君のそれは私に悪意の共犯を求めてるわけじゃない、君自身の人生の清算としての言葉なんだから」

「……ありがとう、ちょっと楽になったかも」

「楽になるべきなんだよ君は。部外者がこんなことを言うのは勝手だけど……おおよそ君と両親の関係も見えてきたし」

「僕と両親の?」

「うん。君は多分、親に悪態を吐けなかったタイプの子どもだよね? 大喧嘩なんてもってのほか、小さい反抗だってできなかったでしょ?」

 吐かなかった、じゃなくて吐けなかった、か……

「……そうかもね。言いたくなったことは、あった気がするよ」

 喉元まで出かかって……吐き出せずに飲み込むと胃酸みたいで気持ち悪い。でもこれを吐いたら、僕が我儘になったら家族が終わっちゃう、みたいなことを考えていた。

「だよね……もちろんバンバン親に歯向かうのがいい家庭! って言いたいわけじゃないけど、フラットに言える家庭の子と比べたら言えない関係は溜まっちゃうんだと思う。君みたいな性格だと特にね」

「僕みたいな性格?」

「君のその性格は生存戦略から導き出されたものなんじゃない? 愚痴や陰口を溢さずに、矛先が向きそうな要素は先に片付けて……だから、君の優しさも最初は自分を守るためのものだったんだと思う。そこから見ず知らずの女の子一人まで思いやれるようになったのは君本来の優しさだとは思うけどね」

「……なんかくすぐったいね。ここまで踏み込まれて、色々言われて、最終的に褒められて終わっちゃうと、落ち着かないな」

「うん、そういうところは素直に褒められるべきだし、君が両親を思う気持ちも本物だと思うんだけど……そろそろ、君は君のために生きて……親離れ、するべきだと思う」

「親離れ、か……確かにそういう言葉がしっくり来るのかも」

 どこか、家庭内での自分の立場というものを俯瞰的に見て……認知していたような、そんな自覚を得た気がする。

「結局この話も、親元という過去を離れて私との楽しい未来を夢想してみない? ってオチに落ち着いちゃうんだけどね」

「あははっ、そっか……」

「笑いごとじゃなくて、そこの返事はちゃんとしてほしいんだけど!」

「ははっ……そうだね、ごめん……あ、そうだ」

「どうしたの?」

「よければ君の話も聞かせてくれない? 君と僕が会った雨の日、何があったのかとか……君の家族の話も聞いてみたいな」

「え……私の?」

「うん……知りたくてさ、君のこと」

 気付くと左手に携えられた彼女の箸が急にぴたりと止まっていた。心なしか、頬も朱に染まっているような気がした。

 暫く静かになってから、徐に彼女は口を開く。

「えへへ……そっか、嬉しいな、君も私に興味持ってくれるんだ」

「当然だよ、だって……だって、君と僕のが何なのかはわかんないけど……わかるでしょ?」

「そっか……私だけ黙ってるってのも不平等だし……うん、私ね、私が保育園に入るくらいの頃にお母さんが他の男と出て行っちゃって……」

「お母さんが……」

「何も言わなくていいよ、お母さんなんて呼んでるけど血縁以外は他人だし、心象的にも他人にしたいような人だから」

「……そっか、話の腰折ってごめん」

「全然大丈夫。それでね、私はお父さん一人に育てられたんだけど……お父さんすっごく優しくて、ほしいものもしたいことも、なんでも望めば与えてくれる人だったんだけど……ちょっとこれ見てみて」

 ポケットから取り出したスマホをこちらに見せつけてくる。表示されていたのはメッセージアプリのトーク画面。

『明日、誕生日だから早く帰ってきてくれたら嬉しいな』

『受験勉強もあるからあんまり余裕はないかもだけど、ちょっとは祝いたいの』

『わかった』

『ケーキも買ってきて欲しいな、チョコケーキ、駅前のお店の、甘くて美味しいんだって』

『わかった』

 少し淡白だけど普通の親子の会話に見える、けど……

「帰って来る、受験……このメッセージって——」

「うん、去年の誕生日……私、こんな性格だから、上京してから誕生日を祝ってくれる友達なんて一人もいなくてね……まあ上京する前からいなかったんだけど、それでも毎年お父さんが『誕生日おめでとう』ってケーキを持って祝ってくれるのが嬉しくて……でも、今年はこの有様。零時を回って、朝になって、夜になってお父さんが帰宅する時間になっても……何も、何もなくてさ……すごく悲しくて、その気持ちの処理の仕方がわからなくて……雨の中知らない街に駆け出すくらい、その日はめちゃくちゃだったの」

「え……それって」

「うん、君がココアを出してくれた日の話」

「そう、なんだ……」

「……望むことはなんでもって言ったけど、それってむしろ『私が望むこと』でしか繋がってないことの証明なような気がしちゃってさ。私はお父さんと二人で支え合って暮らしてると思ってたんだけど……ずっとお父さんはひとりぼっちだったんだと思う。そのことに今年初めて気付いたの」

「ひとりぼっち?」

「うん、お母さんはさっき言った通りなんだけど……お父さん、そんなお母さんのことをずっと好きなままみたいでね。その感情自体は素敵だなって思うけど……結局、その一途な心の穴を埋めるのは私じゃ無理だったみたい。むしろお母さんが残した唯一で、もしかしたら自分の子どもかも怪しい私がずっといることでますます塞がらなくなっちゃったのかはわからないけどね」

 彼女は嘲笑半分懐かしさの笑み半分でそう言ってから、急に明るく子どもみたいにキラキラした表情に姿を変えて口を開く。

「だから、あの日の君のタオルとココアは私にとって初めてのサプライズの誕生祝だったんだよ。もちろん、君からすると全く与り知らぬことだったと思うけど……私からすると初めて知った優しさ、みたいで」

「そっか……それで、僕を?」

「うん……君には本当に感謝してて、好きって気持ちが溢れてて……抑えられなくなっちゃった」

 彼女の想いの理由もこんな一途な愛の示し方しかしらない理由も、なんとなく伝わってきた。あんまり受け入れられる行動ではなかったけれど、想い自体は抱きしめられた。

「……でも、君はそれでもお父さんのことも好きなんだよね?」

「うん……嫌いって思うところはどこもない。人間性も好きだし、恩もあるし。そこにどういう感情があったのだとしても、感謝と好意は切り離せないよ」

「だよね。君の一途な所も尽くすような所も、きっとお父さんの影響だろうし」

「あ、確かに! えへへ、実際指摘されると照れちゃうね」

「だったら君たち家族は、一度しっかり話し合うべきだよ。多分君も、何となく引け目があってあんまりしっかり話し合ったことはなかったんじゃないかな?」

「……確かに、ずっとちょっと怖がってたかも」

「言葉なんて脆くて伝わらないものだけど、想いなんてのはもっと弱いからね。察しようとする優しさはあってしかるべきだと思うけど、全部を掴もうとしたら疲れちゃうから、言葉はあるべきだと思う……自分ができてないことを君に指摘するのは、違うかもだけど」

「よそはよそ、うちはうちだよ。できてないとか妥協とかじゃなくて、君の場合はそうするのが最善ってだけ、下手に自分のことにして落ち込まないでよ」

「確かに、ごめん」

「うん」

 終始、微笑みながらの応酬だった。もっと重苦しくなってもおかしくないような会話なのに、

「……僕たち二人、案外似たもの同士だったのかもね。好きな理由があるとしたら親だからだし、嫌いな理由があるとしたら親なのに、って感じかな」

「うん、そうだね……お互い親と家庭にちゃんと向き合えてなかったし……」

 カセットコンロの火を止めて箸を机の上に置いて、二人で見合わせてから手を合わせて……

「「……ごちそうさまでした」」



「よいしょっと……ふぅ」

 二人で食器を流しに運んで、最後に僕が鍋をコンロに戻して食事が終了。残った鍋つゆは、そのうちうどんにでもなるのだろう。

「ありがとう、ココア淹れる?」

「あ、僕が——」

「ダメ、私が君に淹れたいの。それに今は私が家主なんだから、君が淹れるのは不自然じゃない?」

「一理あるね。じゃ、お願いします」

「うん、ゆっくり待ってて」

 言われるがままに机に戻って、キッチンに立つ彼女の後ろ姿をぼーっと眺める。

「うちと同じココアだね」

「うん、あの日君の家で見て、買い替えてみたの」

「普段からココアは飲んでたの?」

「あの日からだよ、好んで飲むようになったのは」

 はずむ声でそう言いながらマグカップにココア粉を入れて、牛乳を温めて……自分でやっていると気にならないけど、人がやってるのを見ると思ったより手間が掛かるんだな……

「お待たせ、どうぞ」

「ありがとう、いただきます」

 彼女がクッションに座ってから、マグカップを口元に運んでココアを口にする。

「ふぅ……おいしい」

「えへへ、よかった」

 おいしいし、優しいし、愛おしい。いくつものあたたかい感情が体に染み渡る。

「これは、ちょっと嬉しすぎるね。今初めて知ったかも、ココアの本当の実力みたいなの」

「うん、ココアってすごいんだよ。甘くまろやかな牛乳とビターで大人っぽいココア粉が、どんな想いとも溶け込んでくれる……だから君の優しさも、あの日のココアには染み渡ってたんだよ。すごく優しくてあったかくて、致死量だったかも、毒入りココア事件だ」

「そんな多重解決な想いを込めたつもりはなかったんだけど……でもそれだけ君に届いたってことは素直に嬉しいし……」

 もう一度ココアを飲んで、暫くその凪いだ液面を眺める。

「……うん、君の想いも、ちゃんと僕に届いてるよ」

「えへへ……えっと、どういうことかわかんないな、なんて」

「あははっ……うん、そうだね」

「……って、なんで正座?」

「いや、なんか、畏まった気分になっちゃって」

「えへへ……それもいいね、特に私たちはこういうことは一層、畏まったほうがいいのかも」

 そんな風に言いながら彼女も伸ばしていた足を畳んで、二人で正座で向き合った。

「えっと……じゃあ」

「うん」

 一度大きく息を吐いてから、意を決して頭を下げながら口を開く。

「好きです、どうか僕と……付き合ってください」

「えへへ……はい、末永くよろしくお願いします」



「ふぅ……」

「あったかいお茶もいいね……」

「だね……」

 一度家に帰ってお泊りセットを持ってきてから、お風呂に入ってパジャマに着替えて、寝る前に二人でお喋りの時間になっていた。特に相談するでもなく、僕は泊まるということでお互い納得していた。

「大学、水曜日までだっけ?」

「うん、水曜日の二十四日……あれ? クリスマスじゃん!」

「あ……ほんとだ、もうそんな時期か」

「年末だね……去年は受験で、全然祝うなんて言ってられなかったし、今年はしっかりお祝いしたいかも」

「だね、外食……は、今から予約は難しいか。僕がなんか作るでもいいかな?」

「いいかなって……むしろ私がいいの? って聞きたいくらいだけど……私にも手伝わせてね。初めての二人のクリスマスなんだし、家でゆっくりっていうのはすごくいいかも」

「うん、そうしよっか」

 今までぼんやりと眺めてきたレシピをぼんやり思い出す。うーんこういう時はフレンチなのかな、お酒は買えないから……

「……そういえば、君は年末年始どうするの?」

「あーどうしようかな、連絡ひとつ入れれば帰らなくても大丈夫だろうし……」

 両親はなんだかんだ僕を尊重してくれていて、結局あの家に僕を縛り付けているのは僕だけだし。

「なら、私と一緒に来てくれない?」

「え……それって君の実家にってこと?」

「うん、お義父さんって言いたくない?」

「いや、流石に敷居が高い気がするけど……」

「えへへ……ちょっと卑怯かもしれないけどね、君と一緒ならお父さんとお話しできる気がしたんだ。私は私で、ちゃんと自分の人生を歩けてるよ、って……一人の人として、向き合えると思って」

「そっか」

 お茶を一度啜って、目を瞑ってみる。

「……うん、行くよ」

「ほんと?」

「うん……それで、いつかは僕の実家にも挨拶に来てよ」

「……うん、そうだね」


「実家に帰るけど、初詣は二人で行こうね」

「何それ?」

 シングルベッドに二人で入って、結構狭いけどなんとかなるかもみたいなことを考えていたら彼女がそんな風に囁いてきて、呼応するように僕も囁き声で言葉を返した。

「こんなこと言わなくてもお父さんは元々来ないと思うけど……そういうイベントは二人がいいなって思って」

「確かに……僕らの日々にしていきたいもんね」

「うん……ふわぁ」

「……そろそろ寝よっか」

「えへへ……うん、そうだね」

 お互いの手をぎゅっと握って、少しだけ自分の中の何かを、目の前の君と一緒に受け取れられた想いを大切に撫でるように、口を開く。

「……じゃあ、おやすみ——結依」

「うん……優、おやすみ」

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ストーカーより、ココアいっぱいの毒を込めて 恵稀ヒロ @blessed

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