第10話 香りに秘めた魔法
工房の扉に鍵をかけ、エトワール広場を歩いていたメリーは、ふと目を引かれる店先に立ち止まった。白壁に薄いピンクの看板、柔らかい陽光を受けて輝く「フルール・ヴィヴァン」の文字。その店から漂うほのかな花の香りが、彼女を優しく誘い込む。
「生花店……ずっと気になってたけど、入ったことなかったな」
小さな勇気を振り絞るように扉を押すと、店内はまるで別世界のようだった。壁一面に並ぶ色とりどりの花々、足元には小ぶりの鉢植えが可愛らしく並べられ、奥にはガラス瓶に詰められた花びらが光を浴びてきらめいている。
「いらっしゃいませ」
柔らかな声と共に現れたのは、店主のエリスだった。彼女は緩やかに巻かれた金髪を揺らしながら、メリーに微笑む。「素敵な香りでしょう?ここにいるだけで気分が晴れますよ」
メリーは頷きながら、エリスがすすめるままに店内を見て回った。その中で特に目を引いたのは、棚に並ぶ小瓶たちだった。透明なガラスの中には花の色素が溶け込んだ液体が詰まっており、ラベルには「ローズ」「ラベンダー」「ミモザ」といった名前が美しい書体で記されている。
「これ、何ですか?」と指をさしたメリーに、エリスは小瓶を手に取りながら説明した。「これは花のエッセンスです。香水やアロマオイルとして使ったり、お菓子作りに少し混ぜても素敵ですよ」
「お菓子に……?」その言葉に、メリーの瞳が輝いた。
エリスは小さな瓶のひとつを手渡し、「特に人気なのはこのローズエッセンスです。香りだけでなく、ほんのり甘みもあって、よくキャンディやケーキに使われるんですよ」と続けた。
メリーは瓶の蓋をそっと開けた。瞬間、ふわりと薔薇の香りが立ち上り、心がほぐれるような感覚が広がった。その香りに包まれながら、彼女の中に新しいアイデアが芽生える。「この香りを……飴の中に閉じ込めたらどうなるんだろう」
思わず呟いたその声に、エリスが微笑む。「きっと素敵なものができるでしょうね。試してみたくなったら、ぜひお手伝いさせてください」
エッセンスを手に入れたメリーは、胸の中でアイデアが膨らんでいくのを感じながら、工房へと急いだ。
その夜、工房の小さなランプの灯りの下で、彼女は飴の試作に取りかかった。砂糖と水を火にかけ、丁寧に煮詰めながら、最後の段階でほんの一滴、ローズエッセンスを加える。香りが熱で広がり、まるで薔薇の花そのものが部屋の中に咲いたようだった。
「これならきっと……」
出来上がった飴は、透明な中にほんのりとピンクの色合いを帯びていた。そっと口に運ぶと、甘さの中にふわりと広がる薔薇の香り。口の中で花が咲いたような感覚に、メリーは小さく歓声を上げた。
「成功だ……!」
だがその喜びと共に、彼女の胸にひとつの迷いが生まれる。この飴を商品として出すべきなのか、それとも――。
一つ目の飴を眺めながら、メリーは静かに考え込んだ。
ローズエッセンスの飴を作り上げた翌日も、メリーはその小さな試作品を眺めてはため息をついていた。工房の窓からはエトワール広場が見える。かつては人が途切れなかったアデルのドライフラワー店。今は客足も戻り、賑わいを取り戻したけれど、少し前まで生花店の新商品の人気に押されて苦境に立たされていた。
「……これを商品にしてもいいのかな」
ローズの香りを封じ込めた飴玉は、自分でも驚くほど満足のいく出来栄えだった。でも、その飴を店頭に並べたら、またアデルに申し訳ない気持ちになるかもしれない。
そんなとき、工房の扉が軽やかな音を立てて開いた。「お邪魔してもいいかしら?」と聞こえたのは、馴染みの声。
「あ、アデル!」
花柄のエプロンを身に着けたアデルが、ふわりとした笑顔で工房に入ってきた。「今日は少し時間ができたから、あなたの新作がどうなったか見に来たの」
メリーは慌ててテーブルの上に置いてあった飴を隠そうとしたが、アデルの鋭い目がそれを見逃すはずもなかった。「それ、隠す必要があるものなの?」
「えっと……これは……試作品で、まだその……」
「見せてくれる?」アデルはためらうメリーの前に進み出て、優しく声をかけた。
観念したメリーは、飴を手渡した。「ローズエッセンスを使って作った飴なんだけど……。あなたのことを考えると、これを売るのはどうなのかって思って」
アデルは飴をしばらく手のひらで転がし、それからそっと口に運んだ。
「……素敵ね。ほんのり香るバラの香りが上品だし、甘さも控えめで大人っぽい味」目を閉じて味わった後、彼女は笑みを浮かべた。「これ、ぜひ販売しなさいよ」
「でも、アデルのお店に影響が出るかもしれない……」
「気にしないで」アデルはきっぱりとした口調で言った。「確かに生花店に押されていた時期もあったけど、あなたのおかげで新しい商品を作ることができて、お店は以前よりも元気になったわ。それに、これは生花店の香りを活かした新しいアイデアなんでしょ?それなら堂々とやればいいの」
メリーはその言葉に目を見開いた。「……本当にそう思う?」
「もちろんよ。あなたの才能を信じてる。それに、こんなに素敵なものを隠しておくなんて、もったいないじゃない」
アデルの言葉に、メリーの心の中にあった迷いが少しずつ溶けていくのを感じた。
「ありがとう、アデル」
「いいえ。それより、もう一つ味見させてもらってもいいかしら?」アデルはおどけた調子でそう言い、二人は顔を見合わせて笑った。
その夜、メリーは試作の飴をもう一度見つめ直し、小さく頷いた。アデルの応援を背に、この飴を自分らしい新作として世に出してみようと決意した。
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