第5話

 吸血鬼はピクリとも動かない少女を静かに見下ろしていた。

 男を殴り飛ばしたことも、少女の頬を平手で打ったことも、『たまたま近くにいたから』それだけの理由だった。ゆっくりと少女に近づく吸血鬼は滴り落ちる血の匂いを嗅ぎ不敵な笑みをこぼす。その歪んだ口元からは血を欲した鋭い牙が少女の首元へと睨みをきかせていた。

 白く透き通った首筋へと牙をつき立てようかとしたその時、吸血鬼は突然力を失い倒れ込んだ。




「……あ、れ……?」

 ルナが目覚めたのは病院のベッドの上だった。その後目を覚ました月に気づいた看護師が医師を呼びに行ったり、後日あの男について警察が事情聴取に訪れたりした。警察もまさか目の前の少女が大柄な男の腕を折り意識を失わせるなど思いもしなかったのであろう、あの男に何をされたかだけ聞いてきた。月は聞かれたことだけに答え、明日華あすかにした事などは言えずにいた。

 

 しばらくして退院出来ることになり学校へ行くことになった。教室に着いても周りは特に何も変わった様子はなかった。ただ、そこに明日華はいなかった。どうやら少しばかり傷が深いようで復学まで時間がかかるようだった。

 月は内心不安と罪悪感でいっぱいだった。あの時の行動に自分の意思など無かった。だが記憶はしっかりと残っている。自分に対し敵意を一切向けていない少女へ放った平手打ち。きっと明日華は怖かったことだろう。助けてくれたと思ったクラスの女の子が突然自分を殴りつける。そんなこと普通はありえない。トラウマになっていてもおかしくない。今まで一言も話したことは無かったとはいえ、これからいったいどう顔を合わしていけばいいのか。

 ついにその時は来た。怪我が治った明日華は元気そうに教室へ入ってきた。クラスのみんなが心配そうに明日華の元へと駆け寄る。

「大丈夫だよ、もう元気だから」

 そんなことを言いながら自分の席に荷物を置く。

 そして明日華は月の前までしっかりとした足取りで進み、

幸守こうもりさん、話があるの」

 月は何を言われるのか、不安でいっぱいだった。


 校舎裏には他に誰もおらず、月は明日華とふたりきりの状況だ。何を言われても覚悟は出来ていた。だが怖いものは怖い。明日華が教室に入ってから一度も顔を見れていない。いったいどんな顔をしているのか、怒っているのか、悲しんでいるのか、それとも自分の事など興味も無いか。

幸守こうもりさん、この前の事なんだけど……」

「ご、ごめんなさい! アタシ心配してくれたアナタに酷いことをした……」

 月が謝罪をすると明日華は面を食らったような顔をして、

「あぁ、これ? 気にしてないよ。そんなことよりあの時私を助けてくれてありがとう。それと巻き込んじゃってごめんね」

 月は驚いた。謝罪で顔を伏せたままに、聞き間違いなのではと自分の耳を疑った。

「知らない人だったけど道を聞かれて教えてあげようと思ったら急に手を掴まれて、怖くてただついてくことしか出来なくて……だからホントに私のためにありがとう」

 月はようやく顔を上げることが出来た。

 そこには本当に心の底からの感謝だと伝わる、そんな優しい笑顔を向けた明日華がいた。

「なんで……アタシ、べんあしさんに大怪我させちゃったのに……アタシもっと怒られるかと思ってた」

 「んー、まぁちょっと痛かったけどね。でも幸守こうもりさんがいて助けられたから!……ねぇ、これからは月って呼んでもいい……?」

 そして、友達になろう! と明日華は付け加える。吸血鬼だからという理由で人から避けられていた月にとって、初めて心に寄り添ってくれる友ができた。その時、少し心が軽くなったような気がした。自分は明日華に許されたのだと。

 

 だがそれでも、月は自分の中の吸血鬼の本能を許せないでいた。こんなにも優しい人に怪我を負わせたこと、それは他人が許しても自分は許してはいけないと。

 それ以降血を飲んだ姿は人を守るためにあるのではなく傷つけるためにあるのだと月は考え、間違っても血を飲まないように生きていくことにした。




「――これがアタシの過去。もう罪のない人を傷つけるのはイヤなの」

 月の話を聞いていた麗子れいこが口を開く。

「そう、それなら問題ないわね」

「ッ、なんで!!――」

「私に罪は無いかしら?」

 そう答えた麗子の顔は真剣そのもので、少し冷たさのようなものをまとっているように思えた。

「私はあなたたちを騙したわ。助けるなんて言っておいて本当はひかりちゃんの血が欲しかっただけ。挙句銃まで向けているのよ。そんな私が善だと言えるのかしら」

 静かに淡々と話す麗子に月は圧倒されていた。

「……ごめんなさいね、事態は急を要するの。酷だけどそれしか方法はないのよ」

 だが月は気づいた。本当に麗子は心の優しい人だと。

「それに光ちゃんの時は自我を失わなかったのでしょ、それも二度も」

 自分が悪だと訴える事で血を飲むことへの抵抗を減らしていること。

「それはもしかしたら体が成長したことで力に耐えられるようになったからなのかもしれないわ」

 相手は強く、そのうえ月まで暴走してしまったら、何の戦闘能力も持たない麗子にとってそれがどれほど危険か。それでも、麗子は自分に託そうとしてくれている。

「大丈夫よ、あなたなら。私もすぐに邪魔にならないようにするから」

 月はその思いに応えたいと思った。


 * * *


 月たちが春鳥製薬についてから五時間ほど経過していた。小窓の外から見える空色は次第に黒に染まりつつあった。

「なんだかおじさん、休憩するのに疲れちゃったなぁ。お嬢さん方また少し遊んでよ、退屈なんだ」

 ルーポは立ち上がり工場内を歩き出した。

「あーあー、もう夜になっちゃうじゃない。夜遊びは良くないよぉ?」

 一見フラフラと歩いているだけのように見えるが、物陰から隠れて見ている月にはまったく隙が伺えないでいた。

 ――――やっぱり、アイツめちゃくちゃ強い……!

 だが月にはもう覚悟ができていた。麗子は大丈夫だと言ってくれたが自分には分かっていた。恐らく麗子の血を飲めば暴走してしまうであろうことを。

「月ちゃん、これを」麗子は血の入った注射器を渡し「あなたの邪魔にならないように離れた場所で隠れてるからね」

 そう言って麗子はルーポに見つからないようこっそりとふたりから離れていく。

 月はそれを見送り意を決してルーポの前へと姿を現した。

「おっさん、アタシたち流石にそろそろ行かなくちゃだからさ。大人しくしててよ」

「えぇ〜、もう行っちゃうのぉ? まだ飯綱いずな君から連絡来てないんだけどなぁ……」

「じゃあアンタひとりで待ってれば!」

 月は血の入った注射器の先端部分を壊して中身を飲み干した。

「うわぁ、なにそれ。真っ赤……トマトジュースじゃないよねぇ?」

 最近の子は変なの食べたり飲んだりしてるよねぇ、とルーポが軽口をたたいていると次第に月の影が赤黒く染まり始めた。

「う……ぐッ……ヤバ、やっぱ……ダメだ……ッ」

 月は必死に自我を保とうとするが意識は薄れていくばかりで、ついには視界が赤一色に染まった。

 項垂れるように立ち尽くす月は指先ひとつ動かさず、まるで月を中心に時が止まったかのようだった。

「あら、死んじゃった? 生きてるよねぇ?」

 一歩踏み出そうとした時、突然月の赤黒い影がルーポへ襲いかかる。周りの機械を切り裂きながら影のやいばが何本も伸びていく。

 ルーポは首を狙った影を躱し、腕へと進む影を避け、胴を貫こうとする影を跳ね除ける。だがそれらは全て囮だったとでもいうように、足元に現れた影がルーポのバランスを崩すように足を払う。

 床に倒れたルーポにさらに追い打ちをかけるように影が伸びる。ゴロゴロと床を転がりながら逃げるルーポを影は何度も地面を突き刺しながら追いかけ続ける。

 流れるような動きで体を起こし体制を整えると、今度はお返しと言わんばかりに月に向かい走り出した。

 ルーポの目にはまるで獣が獲物を狙うかのような鋭さがあり、今までとはまるで別人のようだった。足さばきも先程とは打って代わり、雨のように降り注ぐ影の刃を軽く避けていく。

 一方月は未だに俯いたままで表情も伺うことは出来ず、本人に一体何が起きているのかルーポには理解出来ないでいた。

 先程までは影を纏っての近接格闘で戦闘を仕掛けていた月は影を伸ばして戦うようなことは一度もなかった。だが今では月までもがルーポ同様まるで別人のような戦いぶりだ。

 最後の影を躱し懐へと飛び込んだルーポは低い姿勢から月の顎へと拳を打ち上げる。しかし月は攻撃の当たる瞬間、後方へギュンと勢いよく下がり拳を避けた。その時、ルーポはチラリと月の顔を見た。赤い瞳、尖った牙、そして今も体に纏わり付く赤黒い影。

「あー、月ちゃんやっぱり吸血鬼なんだねぇ。その影の攻撃、それにさっき飲んだのは薬なんかじゃなく血かぁ」

 ルーポは小窓から覗く夜空に浮かぶ満月を見て「今日はとてもいい“月”が見えるねぇ」と呟く。

 

「月ちゃん、もう意識無いんでしょ。おじさん寂しいなぁ、おしゃべり出来なくて」

 夜より暗くそれでいて鮮やかにも見える赤黒い影が不気味に揺らめく中、ピクリとも動かない人形の様な少女にルーポは話し続ける。

「でもわかるよ、おじさんも血を見るとたぎってきちゃうんだ。つい、食べたくなっちゃうんだよ。そうすると自分がどんどん薄くなって、心のずっと奥深くにいるが目を覚ますんだよねぇ」

 反応のない吸血鬼へと尚も喋り続けるルーポのその目にはまた満月が映されていた。

「偶然にも被検体を連れ回してる少女が吸血鬼で、それを追ってきたのがだなんて、乙だと思わないかい?」

 ルーポの髪が僅かに逆立ち、それに反応したかのようにユラユラと揺れていた影が動きを止める。

「おじさんも獣になっちゃおうかな? これやると明日に響くんだけどねぇ……このままだとやられちゃうからさ」

 瞳に映る月が次第に赤色に染っていくと同時に、ルーポの体は大きく厚みをましていく。ライダースジャケットは破け上半身はまるで針を思わせる硬い毛で覆われていく。爪は鋭く伸び腕は丸太のよう、鼻先は徐々に前へ伸びていき口は大きく裂けていく。

 相対する二対の赤い瞳は目の前の強者のみを見据えていた。一瞬互いを照らす月明かりが雲で隠れ化け物たちは闇に包まれる。

 次に建物内を照らした時には獣は鬼へと飛びかかっていた。だが互いに闇に住むもの、完全な暗闇の中でも視界が潰れることはない。月の左側から飛びかかっていたルーポを影を操り撃ち落とす。だが流石は獣、強靭な手足の筋肉で落下の衝撃を受け止めつつ月へと飛び出す姿勢をとる。そのままの勢いでルーポはまた月へと向かっていく。

 幾つもの影が床から飛び出しルーポを串刺しにしようとするがそのどれもが空を切る。

 

 速さの狼男と手数の吸血鬼、互いに致命傷は与えられず強さは互角といったところだ。月は飲んだ血が無くなれば、ルーポは夜が終わり月が無くなれば今の力は失われ戦況は一気に変わるだろう。

 だがそれは月にとって、とても不利な状況であった。飲んだ血の量では夜明けまで持たない上、そもそも光は何者かに連れ去られ今こうしている間にもどんどんと春鳥製薬から離れているだろう。月には時間が無い以上短期決着が必須だった。

 

 二体の化け物同士一進一退の攻防が続く中、遠くでそれを見ていた麗子はひとりどうすべきかを考えていた。

「あのふたりの戦い、私なんかじゃ足でまといにすらなれない。かといってひとりで小鳥ことりたちを追う訳にも行かないし……」

 注射銃シリンジガンの弾はまだある。だが素早く動く人狼相手に当たるとも思えず、麗子は何もすることが出来ずただ月の戦う姿を見守ることしか出来ないでいた。


 吸血鬼と狼男、双方が睨みをきかせる中、工場外では風が強く吹いて木々が激しく音を立てていた。音は止まることなく次第に激しさを増し工場の壁さえ叩き始めた。ガタガタと音を鳴らし今にも壊れそうなシャッターはついに強風に耐えられず、工場内へと飛ばされたことで外への道が開かれた。

「きゃぁ!……やっぱり今のうちにふたりを追うべき――え?」

 吹いていた強風は止み、ぽっかりと空いた出入口には何か人影のようなものが見える。麗子はすぐ銃を構え、そのへと近づいた。

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