短編集 コンセプトエッジズ 

時川雪絵

葬礼のカグラ

葬礼のカグラ 第一話

 暗闇の中で光を見た気がした。しかし何度目を擦っても、闇が晴れていくことはなかった。壁から染み出すように、波が砕け散る音と海鳥の声が聞こえてくる。金属製の冷たい壁に頬を押し当てて、耳を澄ます。目を静かにつぶると、海の風景が浮かんでくる。だが脳裏に浮かんだ、どこまでも広がる青空も、海のきらめきも、海鳥も、目を開ければ消えてしまう。そのことに気がつくと、涙が静かにこぼれ落ちた。


「ねぇ、ここはどこなの?」


 少女はそう暗闇に向かって言った。静けさだけがそれに答えた。海の音が微かに、その沈黙に混じっている。まばたいても、闇は闇のままだった。しかし、ため息をつくと、誰かの声が聞こえてくる。その声は息を吐くように発せられた。


「海の上だよ……。私たち、アメリカに向かっているの」

「アメリカ? 聞いたことがあるけど、架空の国だと思ってた。でもなんで、私たちはそこに行くの? あなたの名前は?」

「あなたと同じ……。私の名前はあなたと同じ……。サキ、それ以上でもそれ以下でもない」


 その時、フッ、と笑い声のようなものが聞こえてくる。闇の上に声の主の笑みが浮かび上がったような気がした。少女はサキという名前を何度もつぶやく。繰り返すごとに、その言葉が体に染み込んでいくのを感じた。サキと、少女はその声に呼ばれた。そして、これからもそう呼ばれ続けるだろう。そう、サキはどこかで直感していた。声は続ける。


「私たち、移民なの。アメリカは自由の国だから、受け入れてくれるはず。そうでしょ?」


 サキは、その人が何を意図しているのか分からなかった。彼女の声には感情が宿っていなかったのだ。だが心象の響きがそぎ落とされていることによって、その声は神秘的な美しさを帯びていた。彼女はまるで歌うように言葉を紡いでいた。


「あなたは歌が好きなの?」


 サキはそう言って、首を傾げる。だが暗闇に遮られて、相手はその仕草を捉えることはできなかっただろう。応答はなく、底なしの闇に言葉は吸い込まれていった。しかし、繰り返される波音に混じって、囁きが何処からともなくこだましてくる。それが歌であることには後から気がついた。その人は歌っていた。気がつくと、美しく繊細なその声が辺りを満たしていた。

 

      もしも夢で出会えたら 私は消える 

      死が二人を 別つまで 

      時を見失って 路地に迷った 

      そんな私は あなたのこと思って 

      いる。いる。いるんだよ。いるよね 

      きっと きっと 

         

      私は孤独で とり残された 

      海はそんな 私を見つめる 

      だから だからね その手を掴んで 

      波は つまらなそうに過ぎ去って

      誰もそこには 残らないんだよ 

      ああ ああ ああ 

      最後のときまで  


 いつしか、静けさが辺りを包み込んでいた。あの透明な歌声は耳を澄ませても、もう聞こえてこない。歌は終わってしまったのか、それとも単に途切れただけなのか、分からなかった。


「好きだよ。歌うのは」 

 

 彼女の声が消えたとき、クラシックギターの旋律が闇の奥から静かに漂い出てくる。メロディは熟し過ぎた果実のように甘く、その柔らかな肌は今にも崩れそうだった。緻密な指さばきが紡いだ音楽は、リズムの波に乗って、緩やかな曲線を描いていく。おそらく、彼女の指が弦に触れて、撫でるように滑り落ちていったのだろう。その残像が見えた気がした。重い低音と鋭い高音が交差し、空気を切るような音色ですら、淡い輪郭を帯び始めた。ギターが奏でる軽やかな音調は、どこか憂いを帯びていた。弦が織りなす音の流れに、歌が静かに波紋を立てる。


      その子は、どこか 時の流れに

      乗って いつも いなくなる

      手を伸ばしても

      それでも、それでも、いなくなる


      秋の雨 記憶の外には まぼろしが   

      子どもの頃は 知らなかった 

      愛の外を抱きしめて 消えていきたい

      夢見心地にゆりかごゆれて まどろんでいく


「音楽……。ミュージシャンなの?」


 そうサキが言うと、演奏は乱れて、乱雑にギターが弾き鳴らされた。先ほどまでの甘い音色は消えて、ギシギシとした不協和音が響き渡った。その時、海が叫び声を上げる。波が大きく膨れ上がり、そして散り飛んだのだろう。大波に飲み込まれたかのように、演奏は突然止まる。サキは何も言葉を発せなくなっていた。何か怒らせるような事をしただろうかと、自分の発言を思い返しても、理由を見つけることはできなかった。


「私ね。音楽、やりたかったの。歌でみんなに喜んで欲しかった。でも、それもコンテナの中でおしまい。歌いたかったなぁ、みんなの前で……」


 そう言って、その人は自分のことを嘲笑うかのように、笑い声を立てる。サキはその人に駆け寄ろうと、一歩踏み出した。しかし、足をとられて、そのまま転んでしまう。立ち上がろうとして床に触れると、悪臭が立ち上り、グシャと音を立てて何かが崩れ落ちる。傷がないか確かめようと体に触れると、全身が濡れていた。腕をさすると、肌はベタベタした液体で汚れていた。指を滑らせると肉片のようなものが手に当たる。気がつくと、あたりには腐敗臭が満ちていた。思わず抑えきれなくなって嘔吐してしまう。唾液と混ざり合った胃液が漏れ出た。サキは壁に張り付き、何度も握りしめた拳を叩きつける。サキは助けを求め続けた。


「助けて‼︎ 助けてください‼︎」


 しかし、もう一度、壁を叩くと全身が痙攣し始めて、充満した腐敗臭が意識をとらえた。咳が止まらなくなり、サキはゆっくりと崩れ落ちる。朦朧とした意識の中で、あのクラシックギターの音色が聞こえる。その人は楽しそうに歌い、弦は軽快に飛び跳ねていた。彼女の透き通った歌声が愉快に踊っている。


「助けて、助けて……」


 気がつくと声が出なくなっていた。壁を叩く力もなく、ギターの旋律がただ、強まっていく。


「私ね。音楽、やりたかったの。歌でみんなに喜んで欲しかった。でも、それも、コンテナの中でおしまい。歌いたかったなぁ、みんなの前で……」


 歌に混じって、その言葉は脳髄に直接、響き渡った。同時に、その人の感情や思いがどこからともなく立ち現れる。強い悲しみがサキの心をとらえる。冷たい不快感が彼女の全身に満ちていった。サキは思った。なぜ、自分がこんな思いをしなければならないのだろうと。そして他人の悲しみを押し付けられなければならないことに激しい怒りを覚えた。


「静かにしてよ‼︎ 私、訳わからないよ‼︎」


 その叫び声が自分から出たものであることに後から気がついた。言葉が発せられると、全身から力が抜けていく。その時、光が辺りを包み込んだ。


「私もだよ」

と誰かがそう言った。もう、その声は聞こえなくなってしまったけれど。


 

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