第2話 魔人ヴィネ
意識を取り戻した瞬間、俺は息を呑んだ。
じめじめとした空気と、鼻をつく硫黄の匂い。そして、部屋の中央に鎮座する、異様な存在。
赤黒い、というよりも、黒曜石に血を混ぜたような、禍々しい光沢を放つ肌。
天井に届くのではないかというほどの巨躯。
隆々とした筋肉は、まるで岩の塊が組み合わさっているかのようだった。
「なんで、魔人ヴィネがいるボス部屋にオレたちがいるんだよっ! こんな深層階、来たことねえぞ!」
部屋の中央にいる魔人ヴィネを見て、隣にいたリーダーの岩田が喚き散らす。
魔人ヴィネ。この所沢ダンジョンの主とも言われているボスモンスターだった。
「……っ!」
「嘘だろ……」
「魔人ヴィネの部屋に飛ばされるとかありえねぇ……」
他のメンバーも、青い顔でヴィネを見つめている。誰もが、この異様な威圧感に呑まれていた。
部屋の中央にいる魔人ヴィネは、こちらに気づいているのかいないのか、微動だにしない。
まるで巨大な彫像のようだ。だが、その静けさが、逆に俺たちの緊張を煽る。
「ちっくしょう! なんでこんな場所に飛ばされるんだよ! ついてねぇ! とりあえず、警戒しろ!」
リーダーである岩田の甲高い声が響いた。全員が武器を構え、魔人ヴィネに注意を払う。
俺は、身を守る唯一の防具である盾の持ち手を握りしめた。
こんな貧弱な盾が、あの化け物の攻撃を防げるとは思えないが、他に身を守れるものは何も持っていない。
俺たちは息を潜め、魔人ヴィネの様子を窺った。
ギロリと目が動いたと思った瞬間、彫像が崩れ落ちるかのような轟音と共に、ヴィネが顔を上げた。
その顔は、鋭い牙がむき出しになった口、燃えるように赤い瞳。人間とは思えない、獣のような顔をしており、想像を絶するほど凶悪なものだった。
「グルァアアアア!」
腹に響く咆哮が部屋を満たした。鼓膜が破れるかと思うほどの轟音に、俺は思わず耳を塞いだ。
同時に、ヴィネが動き出した。
「ニンゲンども、我を起こして生きて帰れると思うな」
人の何倍もある巨体が、信じられないほどの速度でこちらに向かってくる。
地響きが起こり、床が震える。まるで巨大な戦車が突進してくるようだ。
「散れ! 散れ! 固まってるとやられるぞ!」
喚き散らす岩田の叫びが、かろうじて聞こえた。その声に応え、俺たちは我先にと四方八方に散った。
だが、魔人ヴィネの速度は、俺たちの想像を遥かに超えていた。
魔人ヴィネは、一番近くにいた小柄な酒田に向かって手を伸ばした。巨大な手が、小柄な酒田を掴み上げようとする。
「来るな! 来るな! なんで、オレを狙うんだよっ! 壁ミワ! 早く、役目を果たせよっ! ちっくしょうがよっ!」
「分かってますよっ! 今行きます!」
間一髪、俺が酒田を突き飛ばしたことで、魔人ヴィネの手をかわした。
だが、その代わりに、魔人ヴィネの手に触れた盾が弾け飛んだ。
「盾が……クソ」
「おい! 壁ミワ――」
誰かの叫び声が聞こえた。だが、盾を失った俺には、声に応える余裕はなかった。
巨大な手を赤く染めた魔人ヴィネの標的が、こっちに変わった。
「起きたのが久しぶりすぎて、まだ身体がしっくりこないな。こんな雑魚どもを一捻りできぬとはな……」
俺は、必死に走り出した。後ろを振り返る余裕はない。ただ、ひたすら逃げる。
魔人ヴィネの足音が、すぐ後ろに迫っている。
くそっ、くそっ! なんなんだよっ! なんで、いつもこんなことになるんだよっ! クソがよぉおおっ!
こんなところで死ぬのか? こんな化け物に、何もできずに殺されるのか? カスみたいな人生を歩んできた俺にはこんなみじめな死に方がお似合いだとでも言うのかよっ!
魔人ヴィネの足音が、さらに近づいてくる。もう、すぐ後ろだ。
絶望的な気分になった時、ふと、壁際に置いてある木箱が目に入った。
咄嗟に、俺はその木箱を蹴り上げた。木箱は、ヴィネに向かって飛んでいく。
魔人ヴィネは、鬱陶しそうに木箱を払い飛ばした。だが、その一瞬の隙が、俺にわずかな時間を与えてくれた。
俺は、壁際にあった扉を開け、中に入る。振り返ると、魔人ヴィネが扉に手をかけているのが見えた。
「閉めろ! 早く閉めろ!」
「早く! 壁ミワ! 仕事しろって!」
後ろから、メンバーたちの声が聞こえた。
「やってますよっ!」
俺は、必死に扉を閉めようとするが、魔人ヴィネの力は、想像を絶するものだった。
巨大な手が、扉を押し開けようとしている。俺一人の力では、到底敵わない。扉が、ゆっくりと開いていく。
「諦めて、我の糧となれ。ニンゲンども」
「うああああ! 来るな! 来るな! 来るなぁあああっ!」
俺は、力の限り扉を押さえた。だが、徐々に、徐々に、扉は開いていく。
魔人ヴィネの、赤い目が、扉の隙間からこちらを睨んでいる。
絶体絶命。そう思った時、背後から、何かが飛んできた。
それは、メンバーで唯一の魔法が使える酒田の放った魔法だった。氷の塊が、魔人ヴィネの手を直撃し、一瞬動きを止めた。その隙に、俺はなんとか扉を閉め、閂をかけた。
ドンドン! ドンドン!
扉を叩く大きな音がするたびに、金属の扉が変形していく。
「岩田さん! どうするんっすか! このままだとオレたち――」
「うるせぇ! 酒田! 黙ってろ! 今考えてる! 壁ミワは閂が外れないよう押さえてろ!」
「は、はい」
ドンドン! ドンドン!
衝撃音とともに、金属の扉の変形がドンドンと進む。
ヤバい、そろそろ扉がもたない。
「もう、もちませんよっ! ぐぁああああっ!」
扉が限界を超え、ひしゃげると外れた閂が俺に当たり一緒に吹き飛ばされた。
視界が赤く染まる。耳に響くのは、自分の心臓の鼓動と魔人ヴィネの嘲笑だ。
全身に激痛が走る。もう、動けない。
「雑魚が、我を止めようなど笑止。こうしてくれるわ」
魔人ヴィネが、倒れている俺の左足を踏みつけた。骨が粉々に砕け、肉が裂け、血が飛び出し、激痛が脳みそを焼く。
「ぐあああああああああああああああっ!」
「叫ぶな。雑魚。不愉快だ」
魔人ヴィネの巨大な足が今度は腹に向かってきた。俺は必死に痛む身体をよじらせる。
腹こそ免れたが、代わりに右腕の感覚が消失し、激痛がさらに増した。
「がぁあああああっ!」
ちくしょう……なんで、なんでだよ。なんで、こんな……。俺はこのまま死ぬのか……。
愛菜、すまない。俺みたいなカス探索者じゃ、お前を迎えに行けそうにない。ごめん。ごめんな。
痛みと出血で意識が朦朧し始めた。
「ひっ! やべえ、やべえよっ! オレらもここで――」
「岩田さん! 通路の奥に明かりだ! 誰か来る!」
「誰かって誰だよ! 酒田! ちゃんと報告しろ!」
「あの青白い光を放つ剣を持ってる女剣士……蒼き光の剣聖だ! Sランク探索者の瀧野愛菜のパーティーだ!」
「マジか! 助かったぞ!」
「また、雑魚が増え――」
魔人ヴィネに向かって飛んできた矢が身体に触れた瞬間、凍り付いて動きを止めた。
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