『喰う女 -永遠の帰り道-』

ソコニ

第1話 選択された女



プロローグ:鏡の向こう

私たちは、いつも帰りたがっている。

どこへ帰るのか、誰のもとへ帰るのか。

それは、誰にもわからない。


ただ、全ては鏡から始まった。

あの女が、最初に微笑みかけた日から。


---



銀座の高級ブティックで、明美は大きな三面鏡に向かっていた。新作のシャネルのツイードジャケットが、彼女の白磁のような肌に完璧に馴染んでいる。生地の質感は、人の肌のようにしっとりと温かい。


明美は、自分の首筋に残る微かな傷跡に触れた。そこから始まったのだ。最初の「収集」は。


店内の照明が、ジャケットに施された金糸を優雅に輝かせ、まるで生きているかのような錯覚を起こしていた。明美は知っていた。これは錯覚ではない。


その日は、普段より妙に静かな店内だった。空調の音だけが、規則正しく響いている。まるで誰かの呼吸のように。明美の耳には、それが何百もの囁き声に聞こえていた。


「お似合いですわ」


後ろから声をかけられ、明美は赤い口紅の引かれた唇を優しく曲げた。声の主は、この店で気に入っている販売員の一人、山田という女性だった。その姿が、三面鏡にそれぞれ異なる形で映り込む。


左の鏡:血に染まった山田

中央の鏡:現在の山田

右の鏡:衣服と一体化した山田


明美は目を細めた。鏡は決して嘘をつかない。それは未来を映し出す窓だった。


「ありがとう。でも...」


明美は少し首を傾げた。その仕草は、かつて彼女を変えた女性のものと同じだった。明美の指が、無意識にジャケットの縫い目を撫でる。その感触は、まるで血管のよう。


「この色、もう少し深みがあってもいいかしら」


「深み、ですか?」


山田の声が、わずかに震えた。彼女の肌から恐怖の匂いが漂い始める。明美はその香りを深く吸い込んだ。完璧な素材の香り。


「ええ。もっと...」


明美は山田の耳元で囁いた。その声は、かつて彼女自身が聞いた声と同じ音色を持っていた。


「血のような色味が欲しいの」


鏡の中で、三つの山田が同時に震えた。左の像が恐怖に歪み、中央の像が取り繕い、右の像が諦めに満ちた表情を浮かべる。運命は、すでに決まっていた。

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