帰るための言葉

ソコニ

第1話 帰るための言葉



祖父が亡くなって三年目の冬、私は古書店を始めた。


「変わった店名ですね」と言われることが多い。『帰るための言葉』。確かに、本屋の名前としては珍しいかもしれない。でも、私にはこの名前しかありえなかった。


店は古い長屋を改装したもので、天井が低く、梁が見える。棚には古書が並び、奥には読書スペースとして小さなテーブルを二つ置いた。窓から差し込む光が、本の背表紙を優しく照らしている。


私が古書店を始めたのは、ある約束を果たすためだった。


祖父は元高校教師で、定年後は古書店を営んでいた。私が子供の頃から、本の魅力について熱心に語ってくれた人だ。


「言葉には不思議な力があるんだよ」

そう言って祖父は、いつも新しい本を私に手渡してくれた。


「人は言葉によって自分を見失い、また言葉によって自分を取り戻す。だから本屋は、人が自分に帰るための場所なんだ」


当時の私には、その言葉の意味が分からなかった。ただ、祖父の店の心地よさは覚えている。古い本の匂い、木の温もり、そして静かに流れる時間。


しかし、私は文学部に進学後、次第に本から遠ざかっていった。就職し、結婚し、離婚し。気がつけば、祖父の店にも足が遠のいていた。


最後に会った日、祖父は病床で私にこう言った。


「美咲、約束してほしいことがある」

「何?」

「いつか、君も人を言葉の場所に導いてほしい」


その時の私には、その意味が分からなかった。あるいは、分かろうとしなかったのかもしれない。


祖父の死後、私は長い間、空虚感に苛まれていた。仕事は順調だったが、何かが足りない。何かが、決定的に欠けている。


ある日、散歩の途中で立ち寄った古書店で、偶然、祖父の蔵書の一冊を見つけた。表紙を開くと、祖父の達筆な文字で日付が記されている。その本を手に取った瞬間、私は泣き崩れてしまった。


言葉の持つ力を、私は忘れていた。人を慰め、励まし、時には正しい方向へ導く力を。そして何より、人を本来の自分に帰らせる力を。


古書店を開いて半年が過ぎた。


今日も様々な人が訪れる。疲れた様子のサラリーマン、進路に悩む学生、育児に忙しい主婦。彼らは皆、何かを探している。


「この本、いいかもしれませんよ」


私は時々、お客さんにそっと本を勧める。まるで、かつての祖父のように。


先日、一人の女性が店を訪れた。手には一冊の古い詩集を持っていた。


「この本、私の母が好きだった本なんです」

彼女は目に涙を浮かべながら言った。

「でも、最近まで気づかなかった。母が何を感じていたのか、この詩を通じて、やっと分かった気がして」


その時、私は祖父の言葉を思い出していた。

「言葉には不思議な力がある」


本棚に並ぶ一冊一冊には、誰かの人生が詰まっている。そして、その言葉は新しい読者を待っている。自分を見失った誰かが、再び自分に出会うための道しるべとして。


冬の陽が傾きはじめ、店内が夕暮れの光に包まれる。

私は一冊の本を手に取り、表紙を開く。


古い本の匂いが、懐かしい記憶を運んでくる。

祖父との約束を果たせているだろうか。


今日も誰かが、言葉を求めてドアを開ける。

そして私は、その人が自分に帰るための本を、そっと手渡す準備をする。


窓の外では、冬の風が静かに吹いている。

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