「日常の檻」


前を行き、振り返るのは恐ろしく───


朝が来る。

白い湯気が立ち、味噌汁の香りが漂う。


昼が来る。

土埃の舞う工場で、手は機械の一部になる。


夜が来る。

乾いた夕飯を噛みながら、ラジオをぼんやりと聞く。


それが日常だった。

戦後十年、昭和三十年代の町。

誰もが働き、誰もが生きることに追われていた。


だからこそ──

誰も口にしなかった。


「なぜ、こんなにも苦しいのか」と。


小さな長屋に住む男は、きちんと毎日をこなしていた。

目覚ましが鳴れば起き、始発に乗り、油と汗にまみれて働き、帰る。

隣の部屋の子どもたちの笑い声が、遠い国の祭りの音みたいに聞こえた。


最初に異変を感じたのは、ある朝だった。


起きた瞬間、何かが胸に張りついていた。

重いわけではない。痛みもない。ただ、何かが確かにそこにある。


それでも男は、湯を沸かし、味噌汁をすすり、列に並び、機械の音に身を委ねた。

誰にも、何も言わずに。


次の日も、その次の日も、同じだった。

朝が来て、昼が来て、夜が来る。


そして、ある晩、気づいた。


──昨日と今日の区別が、もうつかない。


机の上の新聞も、壁にかかるカレンダーも、

すべてが「昨日」か「明日」か、わからなくなっていた。


ふと見た手は、誰のものだろう。

ふと通りかかった道は、どこへ向かっているのだろう。


ただひとつ確かなのは、

明日も、同じ朝が来るということだった。


──毎日、毎日、毎日、毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日。


男は、いつしか笑わなくなった。

そして、町からも、職場からも、いつの間にか姿を消した。


だが今も、朝の雑踏の中、

時折、同じ顔の誰かが同じ歩幅で列に並んでいることがある。


気づいてはいけない。

気づいた瞬間、あなたも──その檻の中に、閉じ込められるから。


昭和怪談集 ともしび

──生きるための日常が、知らぬ間にあなたを削り取る。

気づいた時にはもう、逃げ道などどこにもない。

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