「法螺貝の音」


前を行き、振り返るのは恐ろしく───


ハワイ島の北部、今はもう人の寄りつかない岬がある。かつて日系移民が住みつき、小さな神社と石碑が立っていたという。


その岬では、夜になると不思議な音が聞こえることがあった。


ぼぉぉ…ぉぉ……


それは法螺貝のような低い音だった。波の音とも、風のうなりとも違う、胸の奥を揺らすような響き。島に残る年寄りたちは、何も言わずにただ首を振る。


──あれは、戻れなかったものの音だよ。


そう呟いた者もいた。


1970年代の終わり、本土で育った青年が母の遺灰を携え、この岬を訪れた。母はかつて、あの場所の出だった。終戦の混乱とともに島を離れ、そのまま二度と戻ることはなかった。


祭壇に花を手向けた帰り道、彼はあの音を聞いた。


ぼぉぉ…ぉぉ……


潮風に混ざって、確かに人の息が吹き込まれたような音。導かれるように崖下の岩場へと降りていくと、そこにひとりの男が立っていた。


古びた軍帽のようなものを被り、白い布を纏ったその男は、海に背を向け、法螺貝を抱えていた。音は止み、空気がひときわ重くなる。


彼が何かを言おうとしたとき、男はこちらを見た──顔は、影になってよく見えなかった。ただ、湿った瞳のようなものが、深く、深くこちらを覗いていた。


青年が気づいたときには、もう誰もいなかった。


足元に残っていたのは、崩れかけた古い名札の破片と、湿った足跡だけだったという。


昭和怪談集 ともしび

──呼ぶ声は、届かなかった。けれど想いは、今も音になって、潮に乗ってここへ還る。耳を澄ませば、誰かの帰り道が、すぐ傍を通り過ぎていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る