9. 友情の始まり

 アンに初めて会ったとき、デヴァルーは不思議な既視感を味わった。貴族である彼には、旅芸人の寡婦に知り合いなどいない。それなのに、どこかで彼女に会っていた気がしてならなかった。


 一つに束ねた亜麻色の髪には艶もなく、日に焼けた肌はくすんでいる。粗末な服を着て、汚れて擦り切れた靴を履いた少女。それでも、彼女の美徳は少しも損なわれていなかった。伏せたまつ毛の下にある潤む瞳も、控えめな態度に滲み出る健気さも男の庇護欲を誘う。


 彼女を一目見て、デヴァルーは息子の乳母に決めた。ウィルがあれほど彼女を推薦した理由を、瞬時に理解したからだった。アンには手折れば萎れ、放っておけば踏み散らされそうな危うさがある。彼女を人目に触れない場所に置きたいと思うのは、男なら当然の願いだ。


「気が合うな」


 デヴァルーは自嘲気味にそう呟く。正にそれが、ウィルを伝言役メッセンジャーに取り立てた理由だった。


 新しい使用人を求めてデヴァルーが訪ねたグラマー・スクールは、近隣の秀才を集めた学び舎と評判だった。実際は、地元の裕福な家の子弟が通っているだけ。授業料を取らない学校としては、父兄からの寄付は抗えない魅力なのだろう。


「今はちょうど、ラテン語の集中講義中なのです。みながそれぞれが選んだ本について、自由に議論を戦わせているんですよ」


 中庭のベンチや芝生で話し込んでいる生徒たちを指して、校長が自慢げにそう言った。デヴァルーが立ち止まって耳を傾けると、確かに本の内容についての議論が聞こえる。


「キケロにシーザーか。さすが優秀な生徒たちですね」


 どちらも英訳が出ている著者。裕福な家ならば、翻訳本を買い与えることは可能だろう。そう思ったが、デヴァルーは感心したフリをする。ここは彼が以前に学んでいた大学とは違う。英語で政治学を論じられるだけでも、校長の努力を労うのに十分な成果だった。


「あそこの彼は、なぜ議論に加わらないのですか?」


 グループから離れた木の下で、一人で本を読んでいる青年がいた。他の者たちより身なりは落ちるが、整った顔立ちと品のある立ち姿は、デヴァルーにオックスフォードの学友を思い出させた。


「彼は変わり者でしてね。素行も良くない。家の方にも問題があって、退学も時間の問題でしょう。卿が気に止めるような者ではございません」


 校長はそう言ったが、その青年が読んでいる本には覚えがあった。翻訳のないラテンの原書。その場に校長を待たせて、デヴァルーは彼に近づく。


「君はラテン語が得意なのか?」


 青年はデヴァルーを目にすると、すぐに姿勢を正して頭を下げた。身分を問わないとされる教育機関で、このような大人の機転は好ましく映る。


「いいえ。語学は苦手です」


「では、なぜその本を?」


「せめて内容が面白くないと、ラテン語なんて読む気になれません」


「翻訳本はいらないのか?」


『Non sanz droict』


 青年はフランス語で『権利なからざるべし』と呟く。外国語は不得意と言いながら、その完璧なフランス語の発音はデヴァルーを驚かせた。


 彼がフランス語で答えたのには、それなりの理由があった。翻訳本を買えないのではなく買わないのだと言えば、誰かが聞きつけてまた己が話題の的となる。青年は闇市に関わった父親の罪状について、これ以上吹聴される機会を作りたくなかった。


「オウィディウスの『恋愛詩』だろう。恋人を思って読んでいるのか」


「いえ、恋人との橋渡しをしてくれる少女のことを」


 デヴァルーが問うと、青年は率直な答えを返した。


『婢女の中に置かれるべきでないナペーよ。隠れた逢引の夜の付き添いに便利で、合図を送るのが上手く……』


 デヴァルーが詩を口ずさむと、青年がその後を続ける。


『……苦労している僕に忠実であるナペーよ。早朝に綴った文を女主人に渡しておくれ』


『お前もまた、愛の矢に貫かれたことがあるのだろう。僕のために、愛の戦の旗印を守ってほしい』


『もし彼女に尋ねられたら、僕は夜の営みのために生きていると伝えてくれ』


 第一巻の第十一歌。オウィディウスが恋人コリンナに夜這う許可を求めて、婢女ナペーに伝言を託す場面だった。交互に詩を暗誦したことで、デヴァルーは青年に同志を見つけたような気持ちを抱いた。


「これを読んで、つれない恋人ではなく従順な下女を思い出すのか?」


「僕を恋の淵に落そうと、駆け引きに必死になっている年上の恋人は可愛い。ですが、僕のために逢瀬を手引きしてくれる素直で優しい少女にも心が惹かれます」


「罪な男だ。恋人も気の毒に」


「お互い様です。僕にも恋人にも、それぞれに邪な欲がある。それが情愛というものでしょう。今も昔も同じです」


「その通りだな。愛に欲はつきものだ」


 他の生徒がもっともらしい受け売りの政治論を交わす中で、ラテン文学と己の愛欲の共通点を指摘する。こういう手ごたえのある談義は、デヴァルーが好みとするところだった。


「君の名前は?」


「ウィル。ウィリアム・シェークスピアです」


「私はエセックス伯ロバート・デヴァルー。ウィル、私の忠実な下僕にならないか。愛する人との伝言係メッセンジャーを引き受けてほしい」


 デヴァルーの身分を知って青年は一瞬たじろいだ。なんとか動揺を隠して返答する。


「失礼をいたしました。私はしがない皮職人の息子。とてもお役には立たないかと」


「生まれは関係ない。君と私は気が合う」


「しかし……」


「Non sanz droict。君にはこの依頼を請ける権利がある。もちろん断ることにもだ」


 青年はその言葉を聞いて、お願いいたしますと頭を下げた。これがデヴァルーが処刑されるまで続くことになる、シェークスピアとの長い友情の始まりとなる。


 劇作家としての功績も手伝って、後にシェークスピア家は紋章を取得する。それには『Non sanz droict(権利なからざるべし)』と銘が刻まれていた。

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