8. 貴族の館

 深い森の中には、蜂蜜色の石作りの屋敷があった。長い緑のアーチを抜けると、突如目の前に現われた美しい別世界に、アンも同行した座長の女房も息を飲む。


 どう考えても、こんな場所に自分たちが呼ばれるはずはない。何かの間違いか、よもや犯罪に巻き込まれたのか。怯えながらドアを叩くと、中から錠を外す音がした。その大きな木の扉が開いたとき、二人は思わず後ずさる。


 しかし、二人の予想に反して、中から出てきたのは顔見知りの青年だった。その後ろには、幼い紳士という風貌の少年と数名の召使いたちが控えている。


 騙されたのではないと知って安心したものの、アンはどうすればいいのか全く分からなかった。


「乳母をお探しなのは、こちらでしょうか? うちの嫁を住み込みで雇いたいと聞いたんですがね」


 一番に声をかけたのは、座長の女房だった。各地で上流の客を相手に芸を売る一座。その長の女房だけあって、この屋敷の人間が上等のカモであることを一目で見抜いたのだった。アンはたちまち、この女房の義娘むすめとなる。


 都合のいいことに、赤子が拾い子であったことも、彼女が雇われた乳母であることも、一座以外にはほとんど知られていなかった。


「その通り。信頼できる娘が見つからず、困っていたんだ」


 この屋敷の主の息子と思われる少年が、歳に似合わない大人びた口を聞いた。


「そうは言ってもね、旦那様。うちの大事な嫁と孫ですからねえ。乳母奉公なんかをさせちゃ、亡くなった息子に申し訳が立たないんですわ」


 実際には、彼女の息子四人は健在で、各地で所帯を持っている。


「乳母として、十分な待遇を用意している」


「そりゃ、ありがたいことですが、この義娘むすめがいないと困るんですわ。若いのに働き者でねえ。死んだ息子のかわりに、親孝行をしてくれてますんですよ」


「日当をお渡ししよう。それで別に誰かを雇えばいい」


「期間は? こちらは根無し草の旅芸人。稼ぎがなけりゃ、旅に出なきゃなりませんからね」


「では、しばらく街で興行できるよう取り計らおう」


「まあ、それは願ってもないこと。ほら、アン。しっかり奉公するんだよ!」


 数時間前、旅芸人の一座が野営しているハサウェイの農場へ、アンを迎えに馬車が到着した。彼女にご執心とされる青年が最近仕えることになった屋敷で、乳母を求めているという。主が気難しい人間でなかなか採用が決まらないので、アンを推薦したいという話だった。


 もちろんそれは表向きで、実際は若く健康で口の堅い者を探していたのだった。主人の事情を詮索せず、知ってしまっても口外しない。使用人として当然のことだったが、人間関係が密な田舎にあってはそういう者を探すのは難しい。


「アンがここにいることは、内密にしていただきたい」


「一座をご贔屓くださる旦那様のお願い、聞かないわけがありませんよ」


 噂話を生きる糧にする女たちには、どんなに伝わる情報を操作したところで、いずれは真実に行き着く危険性がある。こんな田舎にはそういう家族や親戚、友人のしがらみの無いもので、母乳が出る娘は希少だった。


「毎日、ウィルに金を届けさせよう。この者を知っているだろう」


「ええ、ええ。このアンと懇意にしている方ですよ。日当受け渡しは、いつものように納屋の前で。ここから毎日来るとなれば、馬にも納屋で休憩が必要でしょうからねえ」


 アンに通ってくる青年。いつの頃からか、女房にはそのお楽しみの相手がアンではなく、農場の娘アグネスだと気が付いていた。幼いアンならば、あれほど大袈裟に善がるはずがない。芝居がかった喘ぎ声は、男を喜ばせる技を知った女が使う手管だった。


「それは気が利くことだ。ウィル、ストラットフォード・アポン・エイボンに戻る途中に、ショッタリーの農場に寄ってくれるか」


「もちろんです」


 座長の女房が、すかさず媚びるような声を出す。


「農場のお嬢様にも、毎日ウィル様が来ることお伝えしておきますよ。ご安心を。今まで通りに人払いもいたしますんで」


 ウィルと呼ばれた16歳の青年には、8歳年上の恋人がいる。頻繁にその女と逢瀬を重ねているが、その事実は誰にも知られていない。その秘密の片棒を担いでいるのは、この少女と女房。口の堅さは証明済みだった。


 しかも、先程の賃金や興行に関する駆引きと秘密保持の交渉。さりげない機転で青年に恩を売った手腕。これならば、アンの奉公先について、あれこれと自慢話を触れ回ることはないだろうと予測できた。


 己の得にならないことをするほど馬鹿ではない。少年がそう納得する程度には、座長の女房は平民には珍しく地頭が良かった。


「これは今日の分だ。ウィル、このご婦人を農場まで送っていってくれ」


「まあ、こんなに! 旦那様、ぜひ一度うちの芝居を観に来てくださいませね」


 金貨を1枚手渡すと、座長の女房はホクホク顔でそう言った。少年の義父レスター伯ロバート・ダドリー卿は演劇に造詣が深く、彼も少なからずその影響を受けていた。


「近いうちに」


 少年はそういい残すと、アンを連れて屋敷の中へと消えていった。


 この日から、アン・ウェイトリーはテンプル・グラフトンにあるこの屋敷に住み込むことになる。彼女の名が正式に記録されるのは、これから二年後のこと。18歳となった青年ウィルとの結婚許可証の上だった。


 その証書が発行された翌日、本名をウィリアム・シェークスピアというその青年と、妊娠3ヶ月の・ハサウェイの結婚保証金40ポンドの証書に署名がなされた。新婚翌日に新婦の名が、ウェイトリーからハサウェイに差し替えられた経緯は、後世には伝えられていない。

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