3. 宿命の乙女

 予言の子がロンドンで産声をあげた頃、北ウェッセックスの荒野では、旅芸人の一座が立ち往生をしていた。ウェールズで興行を終えて、次の都市へ向かう途中。宿場町までそう遠くないのに、彼らがここで歩を止めたのには理由があった。


 荒野は危険極まりない。強盗の類はもちろんのこと、野生の動物の餌食になることもある。しかし、それよりも畏れられたのは、神秘と称されるものの存在だった。


 荒涼とした森には恐ろしい魔女が棲む。キリスト教に反する悪魔信仰を持ったものは、教会に葬ることはできない。辻の真ん中に置かれた石棺を目にするたびに、人々の足は自然と速まる。

 また、近くに岩場がない平原に、巨石がニョキニョキと生えるように置かれていることもある。遠くに見える丘陵には巨大な白馬の地上絵。巨人の道標だと言い伝えられていた。


 しかし、一番厄介なのが悪戯好きな妖精や意地悪な小人たちだった。彼らに目をつけられると、森から出られなくなるという。残酷な童話は人を危険な場所から守る教訓だった。


 昼でも薄暗い森の中にあって、旅芸人たちは先を急いでいた。日が暮れるまでには次の町に到着できるはずだったのに、なぜか森から抜けることができない。鬱蒼と茂った木々は夜のように日を遮る。太陽の傾きでしか日時を計れない時代、彼らはすでに時間の感覚を失っていた。


 だから、暗く長く続く森の一本道の先に小さな灯りを見たとき、彼らが飛びあがるように驚いたのはごく普通のことだった。


 森の出口ではなく蝋燭の光。よもや賊かもしれない。旅の用心棒として雇われた男が、一人でそちらに近づく。他のものたちは、道から外れた草むらの中で息を潜めて、その様子を見守っていた。


「おおい。来てくれ。怪我人だ!」


 男の声で、皆がわらわらと草むらから這い出す。座長を先頭にその場に到着すると、そこには確かに女が倒れていた。その横には燭台を持った老婆が付き添っている。


「ばあさん、一体どうしたんだ? 何があった」


「どうかお助けを。ご一行に産婆はおりませなんだか」


 よく見ると、夜着のような真っ白な服を着た女は、大きなお腹をかかえて唸っている。足を伝う羊水とドレスの裾を汚す血。ちょうどお産が始まったところだった。


 座長の女房が女の横にしゃがみこむ。すでに4人の子を産んだ経験は、産婆でなくても子を取り上げるのに十分だった。


「ここは、私ら女に任せておくれ。男たちは湯だよ。火をおこして湯を沸かすんだ!」


「だが、お前、こんなところに留まるのは……」


「あんた、この人らを見捨てる気かい?」


「いや、もっと安全な所に移動してから……」


「馬鹿を言うんじゃないよ。お産はもう始まってるんだ。動かせるもんかっ!」


 女房の叱咤に座長も腹を決めた。その場に野宿用のテントを張り、その中に女を運び入れる。焚き火の用意をして、水が汲める川を探す。先ほどまで静まり返っていたはずの森の中から、急にさらさらと水の流れる音が聞こえた。


「しっかり! 痛みに逆らうんじゃない。乗るんだよ。さあ、息を吸って」


 座長の女房の手を握り、女は額に汗を滴らせて痛みに耐える。相当の難産。その様子を見て、老婆がすぐ先の町に住む医者を連れてくると言いだす。


「すぐに戻りますから。お気を確かに」


 そう言って去った老婆は結局は戻らなかった。ただ、町からは馬車に乗った医者が到着した。母親だという妙齢の貴婦人が往診を願ったということだった。料金としては不相応なほどの大金を置いていったため、医者は急いで森に馬車を走らせた。


 貴族の依頼なら断ることはできない。しかし、それよりも重要なことがある。彼は患者を診ることを使命としていた。助けられる命を救うことが、彼が医者となった目的だった。


 しかし、人にも医学にも限界がある。彼が到着したとき、女はすでに絶命した後だった。無事に生まれた赤子を見て安心したのか、お産の後すぐに母親の青い目は濁り、永遠に閉じられてしまった。まるで眠っているように微笑む死顔は、異国の彫刻の女神のように美しい。


「なんてきれいな赤子だろうね。生まれたばかりなのに、こんなに顔立ちが整っているなんて。あんた、可愛い女の子だよ」


「ああ、こりゃ器量良しだ。こんな綺麗な色の瞳は見たことがない。母親にそっくりだな」


 お湯で血を濯がれた赤子の柔肌は雪のように白く、わずかに生えている髪は輝くような金髪だった。


「とにかく、私の家へ。町はすぐそこですから」


 医者が指差すほうには、いつの間にか森の入り口が見えていた。きらきらと光る木漏れ日が赤子の顔を照らす。まだ、日は落ちきっていなかったのだ。


 柔らかな日の光の中で眠るこの赤子こそ、祝福されし者。女神に選ばれし巫女。この国の未来を導くはずの宿命の乙女だった。


「どうやら、運命の輪がうまく回り始めたようじゃの」


「ようございました。おばば様、さっそく神殿で報告を」


 町へと向かう旅芸人の一行と、座長の女房の胸に抱かれた赤子。それを森の出口近くの崖の上から見守っていたのは、消えたはずの老婆と妙齢の貴婦人。二人は黒いフードのついた黒いマントに身を包んでいる。


 女に『おばば様』と呼ばれたのは、偉大な賢者にして王の予言者マーリン。そして、隣に控える女はマーリンの弟子。赤子の死んだ母親と同じケルト神殿の巫女だった。

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