崩壊した街で全てを捨てたはずだった俺の前に碧眼の少女が現れる〜少女の精神セラピーでメンタルが回復が止まらない〜

菊池はるか

第1話

コンビニで会計を済ませたあと、俺は徐に足を止めた。軒下から空を見あげると見えたのは酷く濁った空だった

 ドブの底のような、鈍い色の雲が所狭しに敷き詰められた光景は正しく曇天だと言える。

 一縷の光も漏れ出ることも無く、ただ雲の淡い部分から発せられる光だけが朧気に地上を照らしていた。

 だがこの光は酷く頼りなく、心もとない。

 どんよりとした空気の中、ビルとビルの間にできた小さな谷間に冷たい風が吹く。

 頬に風を感じながらため息を吐き、

 ぼんやりと先に広がる景色に耽った。

 行き交う人々の声は掻き乱されて聞き取れい。多種多様な音を奏でる靴音。コンビニや電気店、福屋、あらゆる電子音がスピーカーから流れて止まない。

 全ての音が汚れた筆洗器の中のように渦を巻きながら混ざりあっているように感じられた。

 東京港区、ひしめき合うように無数に立ち並ぶ高層ビル群。

 ドブの底のような空の下、乱雑な音色が鳴り止まないビルの谷間。

 それはひしめき合うように立ち並ぶ高層ビルの群れに、亀裂が入ったようにできた狭い遊歩道。

 そこから見えてくるのは、ビルの谷間と人々が行き交う雑踏に遮られた向こう側、崩れ落ちた東京タワーがある。

 メインデッキから先はひしゃげた鉄骨が風をうけた草木のようにひんまがっている。先のアンテナ部分は伐採された丸太のように、周りのビルや公園、様々な建物をなぎ倒し、下敷きにして倒れている。

 被害を受けたビル群は、どれもこれも窓ガラスが割れ、時には建物自体がなく、瓦礫の山や跡地だけのもの、一部がかけたり、穿たれたもの、崩れたビルとビルがお互いに寄り添い何とか倒れずにいるものもあった。

 その中にぽつりとひとりでに立ち尽くし、弱々しくもたしかに異彩を放つ東京タワー。

 雲間に差し込む朧気で頼りない光は彼の嘆かわしい姿を照らし出すには十分だった。

 かつて塗られた赤い塗料は剥がれ落ちて、代わりに侵食していった赤い鉄錆が彼を赤く染めあげている。

 蓄積された黒い汚れは追い打ちをかけるように、東京タワーをより物悲しい様相を醸し出させた。

 東京タワーが崩落してから10年以上は経つと思う。当時は事件を思い出させるからと、解体を計画されていたが頓挫、今では特別気にとめられなくなった。

 今にでも雨が降り出しそうな空の下。雑踏を行き交う人々を見れば、予め用意した傘や折り畳み傘、すぐ近くのコンビニで買ったであろうビニール傘を携えた人々の姿がある。

 俺は片手に持ったビニール袋を一瞥して、買っておけば良かったと後悔した。

 今更買いに戻るのも負けた気がする、濡れても仕方ないと覚悟を決めて足を動かした。

 自分も買っておけば良かったと思いながら、

 た俺は、濡れるのも承知で足を動かした。

 モッズコートの大きいポケットに両手を突っ込んで背中を丸める。

 天気のせいか、それとも今の気分のせいか、肩に鉛がついているように重い。

 景色に目を傾けず、自分の靴先を目で追う。

 うつらうつらと流れていく歩道のタイル模様。視界の端で流れる人々の足元。

 人々に踏みならされた地面だけが続いている。

 

 東京タワー周辺にある、被害を受けなかった街にたどり着いた。

 変わらず大都会の高層ビルや、商業施設の街並みがそこにはあった。しかし根幹的に違う街の姿。ここは半ば廃墟と化している。遊歩道やアスファルトはひび割れ、亀裂からは草木が生い茂っている。建築物は酷く汚れていて、透き通っていたはずのショーウィンドウは曇ってしまって中の様子を伺うには目を凝らさなければならない。

 周囲を書こう摩天楼、高層ビルのほとんどが利用されなくなり、空き高層ビルと化していた。

 無数に貼り尽くされた窓ガラスを見れば、曇り空なのにどこもかしこも真っ暗で内部からの光はない。

 大都会東京港区の街だと言うのに、今ではさながらに寂れたシャッター街と呼ぶにふさわしい景色。

 閑散としていて、薄暗くて、ここにいるだけで気分が落ち込んでくるようだ。

 人気はなく、聞こえてくるのは風の音と靡かれたゴミが転がる音だけ。

 そして気がつけば静寂を終わらせるように、ぽつぽつと雨が降り出して、次第に雨音が増していった。

 ひび割れたアスファルトに水溜まりが出来上がって、降り注いだ雫が水たまりに跳ね返り水柱を何度も作り出している。

 

 摩天楼の中、埋もれるように経つ小さな雑居ビル。その裏手にある非常階段を登る。

 カツン、カツンと雨の中鳴り響く鉄の音。

 自動ドアは電気が通っていないため開くことはなく、こうして非常階段を登るしかなかった。地上から屋上まで5階はある。

 長い階段を1歩、1歩と踏みしめる度に記憶が思い起こされていく。

 

 

 東京タワーが崩落したのは12年前の6月21日まだ梅雨が続く時期のこと。それの崩落は一種の災害とでもいうべきか、瞬く間に周囲の建物が崩れ去り、その衝撃波は半径10キロメートルにも及んだ。都市機能の一部が崩壊、大企業の主要ビルが崩壊。日本のエリートの大多数が死んだ。詰まるところ、日本の経済は大打撃を受けたわけだ。

 経済不況が起きた日本では自殺者が相次いだ。職を失った人々が次々と高層ビルから飛び降りていった。あるものは自分の首がわかると、その足で躊躇いなく飛び降り、やけを起こした家族が一斉に。雨の代わりに人間が降り注ぐ自殺の都が完成したのである。

 時がたった今でも、日本の経済は回復することもなく、急激な自殺者の加速はなくとも、自殺率は平均値を高水準を維持。

 ビルやアパートメント等、人間が必要とする建物のオーナーたちは、自殺による資産価値の低下に歯止めをかけるために、ついには屋上の扉を破壊し、そこをコンクリートの壁にした。

 全てには例外がある。例えばそういった管理をしていない建物。人々が離れてから誰もその建物を感知せず果てには侵入し放題な建物だ。

 屋上へと出る扉を開けた。2週間前にも来たが相変わらず管理がされていない。

 通常ならばせめて施錠くらいはされていてもおかしくはないが、誰もここで自殺をしていないからか、簡単に屋上までたどり着いてしまった。

 屋上を歩き、転落防止のためにある手すりへと向かう。そして手すりを握りしめたあと鼻で息を深く吸って、ゆっくりと吐き尽くした。

 俺がなぜここにいるのか、単刀直入に言えば、今から自殺をするからだ。

 

 俺はビニール袋から取り出した缶コーヒーを開けると、手に伝わるのは冷たい感覚。少しだけ飲み込んでみたけれど、味は感じられずまるでただの液体のように感じられた。

 苦味はなく、酸味もない。奥深くに潜むコクなど分かるはずもなかった。

 ただ缶コーヒーから漂ってくる香りが、俺に残る人間性を思い起こさせる。

 未だに空虚な毎日に救いを求めしがみついているようだ。

 

 

「もう限界かもな」

 まだ中身が残っている缶コーヒーを横に投げ捨る。からんっと音を立てながら転がる缶コーヒー、飲み口から液体が流れて行くのを見送り俺は手すりを握り直した。

 屋上から底に広がる地面を見れば、雨で濡れて真っ黒になったアスファルトが見える。

 ぼんやりと霞んで見えるが、確かにある地面。飛び込めばこの体がどうなるのか想像に難くない。身体中に強い衝撃を受けて、体のどこかが裂けて肉片が飛び散り、遅れるように血が雨と一緒に流れていくだろう。

 どくん、どくん、心臓が力強く鼓動をし、耳元のすぐそばで鳴り響いているように聞こえてくる。身体が竦んで動けない。カタカタと手が震えて、共鳴するように手すりがふるえている。

 

 東京タワーが崩落した日、俺は災禍の中にいた。瓦礫の山の中、人影は何も見えず、ただただ悲痛な声だけが木霊している。ぽつん、

 ぽつん、どこを歩いても血溜まりで、天井にべったりとついた血の雫が垂れる光景。

 

 どこからでも聞こえてくる啜り哭く声、嘆く声。それらがゆっくりと時間が立つたびに途絶えて言った。最終的には、死体で埋め尽くされた静謐な空間だけがそこにはあった。

 生き残った者たちは死体と肉片に埋もれながら、救助を待つことを余儀なくされた。そんな中では体は生きていても、心は蝕まれ、殺されていく。生き残っても心は死に、死んだも同然の状態に突き落とされた。

 俺はそんな生で生き残ってしまった。あのメインデッキの中で、死体の中に埋もれながら、人の体温が無くなっていくのを感じながら。

 どうして俺は生き延びてしまったんだろうか。生き延びるだけの、この命にそれだけの価値があるとは思えない。あの時あの場所で、同じように赤黒い血を流す骸として名を記せば良かった。そうすれば誰にも責められず、むしろ愛ある同情を享受できただろう。

 俺の背中にはあの場所で死んだ無数の屍が張り付いて、待っている。どうしてお前だけが、お前があんなことをしなければ。

 怨念は何度も耳元で囁き続ける。

 誰も俺の所業を知らない。知らないまま死んで、この世界は破綻した。

 メインデッキの中で生き残った少女の言葉が何度も思い起こされる。

 その命を持って永遠に苦しみ続けろと。俺には死ぬ資格など無い。でもこの世界から逃げるためにあの言葉を無下にする。

 もう罪悪感で眠れない夜を過ごすのは嫌だ。何度でもフラッシュバックするぐしゃぐしゃの死体。

 強烈な赤 赤赤赤、赤い血とそこから放たれる強烈な鉄の匂い。

 赤色に染まった手、赤色に染まった東京タワー。

 俺の頭の中はあれ以来めちゃくちゃだ。

 頭の中は罪悪感で埋め尽くされて、何もかもが歪んで見える。全てが灰色で埋め尽くされて、唯一赤色だけが鮮明に、色濃く、鮮やかに見えている。

 目の前に見えるのは、赤い東京タワーだけ。一瞥したあと俺は手すりに足をかけた。ぐっと足に力を込めて、踏み込む。

 どくん、どくん、何度も心臓の鼓動が諦め悪くなっている。

 もしも救いがあるなら教えて欲しい、自分の罪にどう向き合えばいいのか、彼女の言葉を成就できるのか、この世界から逃げずに済むのか。

 

 その刹那、眼前に人の目が見えた。おかしい、こんなところに目があるはずがない。続けざまに、青い瞳の少女の顔があった。瞬く間にその顔は落下して視界から消えた。

 それは何かにぶつかって、雨音をつんざくように周辺に音を響かせた。さらに主張するように鳴る水が跳ねる音。

 「は?」 

 思わず声が出た。

 手すりから足を離し、手すりを握りしめたまま屋上の底へと覗き見る。

 遠くてよく見えないが、ぼんやりと漂う霧の向こう側に、白い服を纏った少女の姿があった。彼女の姿は詳細には見えない。見えるのは少し経った後にじわじわと広がっていく血溜まり。じわり、じわりと広がり雨で溶かされて流れて行った。

 汲みたての水が入った筆洗器に、赤い絵の具だけを纏った筆が浸っているように。

「なんなんだよ、俺を早く死なせてくれよ」

 俺は駆け出した。屋上の扉を音を立てながら開け飛び出して、急ぎ足で非常階段を下っていく。

 息を切らしながらビルの外へと出れば眼前にあったのはやはり少女の骸だった。

 彼女が身にまとった白いワンピースは流血で染まり、血は彼女の周辺に留まらずに、一帯のアスファルトを血で染め上げている。

 降り注ぐ雨水が血を溶かしながら流れ続けていた。

 足元をつたいながら流れる血、彼女の周りには花びらが散ったように肉片が散乱している。

 彼女の短い髪が顔を覆うように張り付いて隠しているが唯一片方だけ遮られておらず、

 その隙間からぼんやりと青い瞳が空を見ていた。

 瞳孔すっかり開ききっていて、そこには生気は感じられい。非常に降り注ぐ雫が瞳に何度も弾けるがピクリとも動かなかった。

 血みどろの歩道と屍、強烈な血の匂いが鼻にこびり付く。

 立ち尽くす俺はぽつりと呟いた。

「同族かよ」

 非情だと思うが、酷く面倒だなと思った。それどころか悶々とした行き場のない怒りすらある。

 せっかく決心したというのに台無しだ。

 一体どこから落ちてきたのだろうか。周囲のビルを仰ぎ見て見るが検討も付かない。

 この辺りのことは知り尽くしている、だからこそあのビルで死のうとしたのだ、それなのに同族がいるなんて予想しなかった。変だなとは思いつつもため息を吐いた。

 

 心の奥底で、誰も見ていないことを願った。もしこれを見られて通報されでもしたら、俺が彼女を突き落とした犯人にされかねないからだ。それは避けたい。どうしたものかと俺は彼女の元に近づき腰を下ろした。

 彼女の肌は現実味が無いほど白かった。温もりは感じられず、無機質なプラスチックのようで生気を感じられない。

 

 これは元来の白さのものか、血の気が引いた死体だからそう感じられるのか。そして俺はひとつ彼女の骸に違和感を覚えた。

 彼女には右肩ごと腕がなかったこと。

 細く血が流れ続ける右肩、白い素肌と、そも内側にある露出した赤い肉。肉の繊維が引き伸ばされ、花束のようにパックリと広がっている。そして突き出た白い骨。へし折られ砕けた骨が槍のように鋭利に尖っている。割るのを失敗した割り箸のようだった。

 この状態をどう表せばいいのかわからない。浮かんだのは食いちぎられてしまったという言葉。

 そんなことあるわけがない。俺は自分の言葉を疑った。ぶるぶると頭を振って払拭しようとしたが、どうにもこびりついて離れない。

 異様な光景。突然降ってきた少女、そして食いちぎられたような肩。

 色んな疑問が次々と浮かび上がっては、ありえないと自分に言い聞かせる。

 落ち着こうと思い唾を飲み込んだその時、ぎょろり、青い瞳が突然動き出して俺を確実に捉えていた。

 俺は驚きのあまり仰け反り尻もちをついた。血溜まりが跳ね返り、ズボンを濡らす。

 ありえない、少女の目が俺を捉えている。俺の目を疑った。何かの幻覚かと思った。何かの錯覚だと思った。

 しかしアレは現実だと俺に突きつけるように身体を動き出した。片腕だけで身体を起こし、倒れそうになりながらも立ち上がったのだ。

 当惑した。どこのビルから飛び降りたのかは分からない、俺が知っている限り生き延びれるような高さのビルは知らない。

 周囲が血まみれになるほどの出血を彼女はしている。生き残れるとは思えない。彼女は腕を欠損し、体のあちこちは砕け散りあちこちに散っている。

 俺は逃げ出すように尻もちをつきながら引き下がった。本当なら立ち上がって逃げ出したかったけれど足に力が入らずままならなかった。

 俺が恐れている? 死のうとしているのに

 今更生にしがみついて何になる。

 少女の動きはぎこちなく動いている。血溜まりの中、一歩だけ踏みしめると、空を仰ぐように伸びをした。身体を美しく仰け反らせると、突然片手を胸にあてがいながら苦しみ出す。

 か細いながらも発せられる嗚咽。

 白い何かが背中を貫きながら生えてくる。やがて生え尽くしたそれは、少女の小柄な身体の中にあったとは思えないほど大きく、拡がっている。

 薄暗闇の中を照らすように光を帯びたそれは、大きな翼だった。たった一翼しか無かったが、翼の先が空に向かって力強く生えていた。

 俺はそれのあまりの美しさに恐怖を忘れ、息を飲んだ。

 目に見える全ては時が止まったように静止して、雨粒が空中を留まり雨音は聞こえない。

 優しく吹き頬をなぞる風はなく、全てが凪いでいる。今この瞬間だけは永遠のように感じた。

 水気を帯びた翼は、雫を払う様にバタバタと激しくはためいている。鳥が必死に抗うような、それとも路傍で死にそうになっている虫の最後と姿を重ねてしまう。

 ふと彼女と目が合ったような気がした。

 美しい青い瞳は、ビー玉のようで、わずか光でもダイヤモンドのように乱反射して煌めいている。見つめているだけで吸い込まれそうで、思わず手をさし伸ばしてしまうような魅力がそこにあった。

 でも気がついてしまった。その瞳は俺を見据えているのではなかったということに。

 酷く悲しくなった。彼女の姿が荒んでしまった俺を救いに来た天使のように見えたからだ。

 俺を助けてくれる訳じゃない。じゃあ彼女はその青い瞳で何を見つめているのだろう。

 俺は振り返った。

 彼女は俺を見つめている? 違う、彼女の視線の先は俺の背後にある。

 俺は恐る恐る振り返ると、視界の先に、縦並びにふたつの球体があるのが見えた。

 薄暗闇の中揺蕩う何か。目をこらすとぼんやりと輪郭が浮かび上がってくる。

 何かが蜘蛛のように壁に張り付いている。球体が2回明滅を繰り返したことで、それがギラギラと輝く目だということに気がついた。

 ぺたり、ぺたりと壁を這う何かは人型で、近づいてくるたびに全容か見えてくる。

 まず見えたのは、指先と爪が一体化した鋭利な手。壁に爪を突き立てて器用に壁を這う。

 壁を這う腕は薄いピンク色で、血管の赤い筋が浮かび上がっているのが見える。

 不気味に浮かび上がる瞳は、うっすらと光っていて、闇の中をかいくぐり奴の顔が現れた。

 化け物いる。

 顔のほとんどを占めるふたつの眼球の下に、その何倍も大きい裂けた口がある。

 唇や、歯茎はなく、顔面から直に生えた歯並びの悪い無数の牙。剣山のような口がヤマアラシの背中を思い起こさた。

 降りしきる雨の中、吐き出される白い息と同時に獣が喉を鳴らすような音を化け物が発する。

 何かが起こる、そう思った時には、化け物が壁を蹴り上げて、大きく飛びかかってくる姿があった。

 一瞬の出来事だ、空を飛ぶ奴の腹を視線で追うと、俺にではなく少女に向かうのが見える。

 たった1回の跳躍で俺を飛び越え、彼女を地面になぎ倒し、怪物は上乗りになった。

 バシャンと血溜まりが弾けて水しぶきがあがる。

 狼のように頬はなく、あるのは大きく裂けた口。がっと大きく開けて、飲み込もうと迫る。

 彼女は細く、弱々しい白い腕を突き出すように伸ばして、化け物の顎をぐっと抑えて抵抗をした。少しだけ仰け反らせることができたが、それは虚しい結果で終わることとなる。

 化け物は彼女の腕を押し返す。ゆっくりと確実に距離が縮まり、彼女の腕は限界を示すようぷるぷると小刻みに震えたあと、バッキリと、嫌な音がこだました。

 もはや彼女には何も出来ない。両腕は使い物にならなくなった。

 そもそもあんな異形の化け物に何ができるのだろうか。

 彼女は声を震わせ、動揺をする。顔は酷く引き攣り、おどおどとした様子だった。そこにあるのは冷静さを無くした幼い子供の顔。

 彼女は背を向け、芋虫のように地べたを這い、血溜まり顔を赤く染める。

 この行動があだとなった。

 白い翼を化け物に掴まれ、ぐいっと引き戻される。そしてもう片方の手で頭部を握るり締められると少女は再び、顔面ごと地面に叩きつけられた。

 化け物は大きな口を広げて彼女の翼へ近ずく。少女は自分が何をされるのか悟った。

 愛しく、尊厳のあるものを陵辱されて奪われるのを。

 とても耐え難いもので、何にも変えられない。もはや今の少女には抵抗することも抗うことは出来ない。ただ受け入れることしか出来なかった。声を荒らげてやめろと乞うことしか出来ない。

 青い瞳に涙が滲み出てくる。水気を帯びた瞳は、より一層宝石のように輝いていて美しい。

 化け物は翼の生えた背中の根元にかぶりつく。鋭く尖った牙が深くくい込み、そして怪物は食いちぎった。

 背中の皮膚ごとちぎれ、肉や筋肉繊維が張り詰めたゴムのように引き伸ばされて、次々とブチブチと音を鳴らしながらちぎれて行った。

 少女から吐き出される慟哭はもはや声にもならない代物だった。吐き出される息が声帯を掠めて、出てきたような噛み締めるような声。

 辺りには白い羽根が雪のようにひらりひらとと舞っている。ビルの谷間から吹く風を受けた羽はキラキラと輝いていて幻想的に見えた。だが羽が血溜まりの中へとひらりと落ちていき、みるみると赤く染まっていった。

 もう化け物は彼女を襲うことは無くなった。ただひたすらに、食いちぎった翼を貪りくい、その度に羽が舞うだけ。

 降りしきる雨と羽の中、彼女は小さく泣いていた。

 ビクビクと身体を痙攣させ強ばらせ、喘ぎ声をあげる。

 その弱々しい慟哭は響き渡るだけでどこにも伝わることはない。

 広大な崩れ落ちた街の中、人と呼べるものはここにしかいなかった。

 ただただ虚しく響いている。たとえば廃墟の中で怪我した人間に気づくものはいるだろうか。どこまでも砂と青い空しか続かない砂漠の中で水を求めても届くだろうか。

 全ての声は水疱に気する虚しい物だ。

 びくびくと体を痙攣させ、地面に横たわる少女の声は冷酷なまでにちっぽけだ。

 ビルの谷間、逆光で先は見えない。冷たい風が吹いてる。

 僅かに振り絞った声でさえ風でかき消されてしまう。

 でも俺は見ていた。聞いていた。このわけのわからない光景を全てこの身体で感じていた。俺にはなにも理解ができなかった。でもこれだけはわかる。俺は今ここで生きながらえていて、目の前には弱々しく転がる少女の姿があるのを。

 俺は化け物が翼を喰らっているのを見計らって、彼女の元に近づいた。

 嘆き終わり、浅い呼吸を繰り返す少女。彼女は俺に一瞥もくれず、その折れた腕で立ちあがろうとする。

 もうその瞳には黒い影はない。あるのは立ちあがろうとする燃えるような輝き。

 彼女は何度も転ぶ。その度に水溜まりの汚れた水を浴びる。何度も何度も繰り返す。

 たとえ腕を折られても、翼を喰われても、なにがあろうとも。

 どうして諦めない。どうしてそこで諦めて死なない。どうして、どうしてだ。俺には理解ができない。

 ただただその痛ましいまでに生きることに執着するその姿が、俺の全てを強烈に否定する。

 俺はどうやって生きていけばいいんだ。

 ばちゃり、彼女は顔ごと水溜りに突っ伏した。ぶくぶくと、水溜りから泡が弾ける。

 俺は満身創痍になった彼女を見つめた後、彼女の身体を起こした。身体はあまりにも軽すぎた。拍子抜けしてしまうほどの細い身体と重量。こんなので抗っていたのか。尊敬の念を抱かずにはいられなかった。

 彼女を背中に乗せ、この雨の中を走る。

 彼女を助けるつもりなんてない。ましてや助けられるだとかそんなことなんて思っていない。誰かを助けてやろうなんてのか傲慢な考えだ。

 ただ俺はもう一度後悔をしたくなかった。それだけのこと。

 一人取り残される恐怖からの逃避に過ぎない。

 走るたびに水溜りが弾けていく。どこまでも立ち並ぶ高層ビルの壁が俺を見下ろしている。

 耳元で彼女の声が聞こえる。

 風鈴のように透き通った声。なにをいっているのかはわからない。

 その声を聞くたびに東京タワーの記憶が思い起こされた。

 わかっている。

 あの時の後悔を今ここでやり直すような行い。

 今更なににもならない。でもそうすることでしか満たされなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2025年1月7日 17:00

崩壊した街で全てを捨てたはずだった俺の前に碧眼の少女が現れる〜少女の精神セラピーでメンタルが回復が止まらない〜 菊池はるか @kikutiharuka_0

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画