二、氷狼(ひょうろう)

 遠い遠い昔の話をしよう。


 これは人間がまだかろうじて自然の一部であったころのお話。


 山里にシンという子供が暮らしていた。


 シンは氷狼ひょうろうの父と、人間の母の間に生まれた半妖の子供だった。


 異種相姦は、この時代において最低最悪の禁忌であった。その禁忌を犯したシンの両親は、元々都暮らしであったのだけど、素性を隠すためにこんな山里でひっそりと命を繋ぎとめるはめとなっていた。


 シンはそこで人間の子供として育てられた。


 しかし、人の噂は矢よりも早く、やがて村人たちにも正体がばれ、家に火を付けられる事態となった。


 その時、たまたま小便をしに裏庭に出ていたシンは助かったが、両親は焼死してしまった。

 誰よりも強かった父親も、炎には勝てなかったのだ。


 炎に包まれる我が家を目の前に、まだ四つのシンであったが、父と母を助けに出ては自分も殺されると悟り、そのまま山の奥へと逃走した。

 背後でボウボウと燃え盛る炎の音が響いていた。


 恐怖と怒りに震えながらシンは山を駆けのぼった。

 振り返っては心がくじけてしまうと思い、彼はひたすら走った。

 そして、裏山の奥の奥へと向かい、身を隠した。


 シンは怒りに憑りつかれた。


 父母がいったい何をしたというのだ。平穏に暮らしたかっただけなのに。


 怒りに任せて遠吠えをすると、たちまちシンは氷狼の姿となり、人間の心の大部分を失ってしまった。

 心を失ったシンは、灰色の凍てついた狼となり、野生の本能のままに山で暮らしはじめた。


 そうしてシンは氷狼として約六年の月日を山で過ごした。

 狼の成人にあたる十歳になった春、シンは突然自分の両親がどのようにして死んだのかを思い出した。


 自分の中にある怒りの原因をまざまざと思い出したのだ。


 シンは氷狼の姿のまま人里へと降りていくと、そこら中の人間を方端から喰い殺した。

 十人ほどの人間を襲ったところで気分が悪くなり、山へ戻ろうとすると、人間たちが棒やクワを持って襲って来た。


 追い詰められたシンが咄嗟に吠えたてると、のどの奥から氷の息が吹き出し、息がかかった場所が真っ白に凍ってしまった。

 これを見た人々は恐れをなして逃げて行った。


 その隙にシン山奥へと逃げ帰り、安心できるねぐらへと潜り込んだ。

 シンのねぐらは大きな松の木の根元にできた穴の中にあった。


 シンは自分に氷の息を出す能力があることを初めて知った。

 自分の能力に驚きながらも喜びの気持ちが湧いてきた。


 これがあればどんな人間にも負ける気がしなかった。


 シンは人を喰った感触を思い出して、その夜は興奮してなかなか寝付けなかった。

 人は決して美味くはないが、噛みついた牙から伝わってくる恐怖心がシンにはたまらなかった。


 あれを味わうためならば、何度でも人間を喰いたいと思った。


 シンの心は人間への憎しみで満ちていた。


 この世の全ての人間を喰らいつくしてやる。


 翌日もシンは周辺の村を襲い人を喰った。

 人間たちが反撃してくれば氷の息を吐いた。


 こんな毎日をシンは何年も続けた。


 しばらく喰い続ければこの世から人間はいなくなるだろうと思っていたのに、人間たちは一向に減らなかった。

 それどころか、どんどん増えていた。


 氷狼の噂を聞いた者たちが集まって来ているのだった。


 こんなことをしても死人を増やすだけなのに。

 シンはバカな人間たちを蔑みながら眠るのだった。


 どのくらいこんなことを続けていただろうか。


 ある日突然、シンは氷狼の姿になれなくなってしまった。


 いつものように朝起きると、シンは人の姿になっていた。

 見下ろす自分の両手足が人間のものであることを確認すると、シンは狼狽え何度も変身を試みた。だがシンは狼に戻れなかった。


 ちょうど年のころは十五歳。人間で言う思春期の最盛期に突入した頃合いだった。


 人間の姿になると、狼の時よりは憎しみが和らぎ、村を襲おうという気持ちはなくなった。

 どちらにせよ、人間の姿で村を襲ってもたちまち返り討ちにあうだけである。


 シンはひ弱な人間の肉体にがっかりし、そして寒さに凍えた。


 着るものが必要となったシンは、こっそり人里に降り、一番近い民家の庭に干してあった着物をいくつかくすねて逃げた。


 自分のねぐらに戻り、盗んだ着物を着てみるも、どのように身に着けるものか解らず、適当に羽織る次第となった。


 着物からは人間の臭いがした。

 あまりいい臭いではないが、そのうちシンの臭いに置き換わるだろう。


 シンは残りの着物を寝床の奥へとしまった。


 着物を着るとますます人間になったような気持ちがした。

 もう一度里を覗いてみようと大胆な気持ちになり、シンは獣道を足早に下りて行った。


 慣れた道を走っていると、突然バチンと大きな音がして太ももに激痛が走った。


 シンは悲鳴を上げてその場に倒れた。


 見ると、先を鋭く尖らせた竹がシンの太ももに突き刺さっていた。どうやら獣用の罠を踏み込んでしまったようだった。


 シンはパニックに陥り、焦って竹を脚から力いっぱい抜き取った。


 これがまずかった。肉に食い込んだ竹が筋肉を引き裂き、傷口が大きく引き裂けてしまった。

 シンは悲鳴を上げてその場に倒れ込んだ。出血がひどい。


 …ここで死ぬのか。


 シンはそう思った。そう思うと、やけに頭がはっきりしてきた。もはや氷狼的な思考は彼にはほぼ残っておらず、人間の頭で彼は考えた。

 

 これは人間が仕掛けた罠だ。獲物を捕るためか…それとも。


 どちらにしてもここでグズグズしていては人間に見つかってしまうのは時間の問題だった。

 どうにかしてこの場から離れなくてはならなかった。


 踏ん張れば立てそうだった。

 しかし、これにもしも毒が塗ってあったら?


 いやそれはなさそうだ。痛いだけで他は何ともない。


 それではただの人間のふりをしたらどうか…。頭の悪いよそ者が山をふらついていて罠にかかったというのはどうだ?

 どうせ人間の言葉なんかろくに喋れないのだし、適当に誤魔化せば害のない不運な奴として助けてもらえるかもしれない。


 まさか氷狼がこんな小僧の姿になっているとは誰にも解るまい。


 こうしてシンがあれこれ考えていると、下の方から落ち葉を踏む足音が聞こえてきた。

 カチャカチャと木の枝が触れ合うような音もする。その音は聞いたことがあった。

 矢筒に入った矢の音だ。


 シンは謝って射抜かれてはたまらないと思い、できるだけ人間らしい声でそちらに向かって声を出した。


「お、おい、誰か、た、たすけて…」


 氷狼となってから人の言葉を発していなかった割にはうまく言葉を言うことができた。


「誰かいるのか?」


 向こうから声がした。子供の声のようだった。


 ガサガサと足音が近づいて来て、小柄な人影がこちらに近づいて来た。

 獣の毛をまとい、肩には弓矢を背負っていた。


 やってきたのはやはり子供のようだった。


 シンが倒れているのを見ると、子供はハッとした表情になり、弓矢を地面に置いてこちらへ近寄って来た。


「飛び出し竹にやられたのか?」


 子供は自分の着物の裾を破くと、手際よくシンの足を縛り傷口にも近くの葉をちぎって当ててギュッと縛ってくれた。


 てきぱきと動く子供をシンはまじまじと眺めた。

 子供と思っていた相手は、女だった。


 シンは人間には男と女がいることを両親と暮らしていたころの記憶から知っていたし、村で男も女も見境なく喰って来たので、それらの違いをよく知っていた。

 女の方が肉が柔らかで美味いのだ。


 シンはこんな間近でじっくり女を見るのは初めてだったので、その美しさにすっかり魅了されてしまった。

 女からは得も言われぬよい香りがした。その皮膚はなめらかで、まるで誰も踏んでいない降り積もったばかりフワフワの雪のようだった。


 女から目をそらすことができずに凝視していると、女がこちらに目を向けたのでシンは慌てて目を逸らした。


「お前、どこの者だ? ずいぶん薄汚れているけど。この辺の者じゃないな」


「お、俺、山に住んでる」


 覚えてる単語を必死に並べてみた。女に意味は伝わったようだった。


「立てるか?」


 シンは女に手伝ってもらって立ち上がった。脚の傷が痛んだが縛ってもらったおかげて我慢できるほどの痛みであった。

 あとでよく舐めれば勝手に治るだろう。


 シンが立ち上がると、女は急にギョッとしてシンの着物の前を掴んだ。

 攻撃されるのかと思ったシンは身構えたがそうではなかった。


 ぶははははと女が笑ったのだ。


「ごめん、ごめん。笑うなんてひどいよな。でもお前、股間が丸見えだぞ。着物の着方、知らないのか?」


 女はその辺から植物のツルを持ってくると腰のあたりで着物を縛って前が閉じるようにしてくれた。


 なるほど、着物とはこうやって着るものなのか…とシンは感心した。


「それ、お前の着物じゃないだろう。盗んだ奴に見つからないようにしろよ」


 シンは思わず、うん、と頷いてしまった。


「着物は今度わたしが持ってきてやろう。その傷はすぐには治らんだろうが…家には訳があって今すぐには連れて行けない。お前どこに住んでるんだ?」


 いや、それはダメだ…。シンは思った。ねぐらは誰にも知られたくなった。


「俺、大丈夫。おまえもう帰って大丈夫」


「大丈夫じゃないよ。その傷、放っておいたら悪くなるよ」


「ダメ。きちゃだめ。お前は帰れ」


 不本意だったがシンは女を強く押して突き飛ばした。


 女は尻餅をつくと、ショックを受けた表情でこちらを見た。

 シンはそのまま背を向けて歩き始めた。


「お前は嫌いだ。来ないで」


 ダメ押しで捨て台詞を言い放ち、シンはその場を立ち去った。


「何だよ、せっかく助けてやったのに」


 後ろで女の声が言った。

 これなら怒って帰ってくれるだろう。


 脚の傷は痛んだが何とか歩いて帰れそうだった。


 シンは歩きなれた獣道を辿ってねぐらへと戻った。


 ゆっくり休んで、これからどうするか考えないといけなかった。

 そう、脚を怪我したことよりも、氷狼の姿に戻れないことがシンにとっては一大事なのだった。


 住み慣れたねぐらでシンはあっとゆうまに深い眠りへと落ちて行った。


 翌朝目を覚ますと、シンは未だ人間の姿のままだった。


 腹が減っていた。脚の傷はだいぶよくなっていた。昨日の女がしてくれたことがよかったのだろう。


 それでも多く歩き回ることは無理だったので、そのへんにある木の根や虫などを食べた。

 腹は満たされなかったが、背に腹は代えられない。


 傷が治るのを待つしかなかった。


 だがしかし、脚の傷は三日もすれば完治するだろうと思っていたのだが、反対に三日目くらいになると再び悪化してしまった。


 人間の身体とはなんとひ弱なものだろうかとシンは大変不便に思った。


 その晩、シンは酷い熱を出して動けなくなってしまった。

 脚の傷から臭い汁がたくさん出てきた。


 高熱にうなされて、シンは気味の悪い夢を見続けた。

 現実なのか夢なのか区別がつかないままに、シンは悪夢の中を漂った。


 ようやく体が少し楽になり、眠りが浅くなったころに、シンは人の気配を感じて目を覚ました。


 ぼんやりと目を開けると、あの女が心配そうにシンの顔を覗き込んでいた。


(つづく)

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