睡狼(すいろう) [改訂版]

大橋 知誉

一、アヤメ

千年の根雪も溶かすキスをして


囚われて予め失われし六花


新しい年新しい肉体が欲しいと思い叶わない朝


言葉には、時の魔物が 口を占む 教えてほしい あなたの言葉


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 何をしてもやる気が出ない。

 上司にみっちり叱られて何もかもが嫌になってしまった十二月の帰り道。


 満員電車に揺られながら、最寄り駅に到着しても降りることをせずに、ただぼーっと虚無の心で窓の外に流れる景色を見ていた。


 街にはすかり夜の帳が下りて商店には煌々と眩しいほどの照明がぎらついている。


 はぁと彼女はためいきをつく。


 彼女の名前は拍森かしわもりアヤメ。ごく普通の人生を送ってきた社会人四年目。平均的で突出した特徴もない、どこにでいるようなただの普通の女の子である。


 何をしても、誰に何を言われても、彼女の心に響くものはなかった。

 くどくどと上司に小言を言われても、ただやる気を失うだけだった。


 一時は年上の男性と激しい恋に落ちたこともあったけれど、子供扱いされるのに嫌気がさしてすぐに別れてしまった。

 付き合い始めると、自分を所有物のように扱う男たちにうんざりだった。


 そんなアヤメは友達も満足に作れたこともなかった。

 どの年代の者とも話が合うことがなかった。みんながとても幼く大人気なく見えた。


 何よりも、みんな退屈な奴ばかりだった。


 独りで自由にしているのがよっぽど気楽であったが、アヤメの心にはぽっかりと穴が開いていた。

 ずっと昔に何かを失ったような気がしていたが、何を失ったのかは思い出せなかった。


 人肌恋しさが常にあったが、誰に抱かれても寂しさは消えなかった。


 アヤメはもっと静かな場所に行きたかった。

 こんな現実からさよならをしてどこかに行きたかった。


 あのクソ上司。思い出してしまうことにうんざりだった。


 あのクソ野郎…。


 これまで出会った人たちがみんなどうでもよい存在ながらアヤメを苛立出せるのだった。


 この電車にずっと乗って行ったらいったいどこに着くのだろうか? ふとアヤメは考えた。

 通勤で毎日乗っているのに、自宅の最寄り駅の向こう側のことなんか考えたこともなかった。


 ポケットからスマートホンを取り出して路線を確認すると、終点はずっと山の方だった。


 このまま遠くに行ってしまおう…。

 後のことは知らん。


 アヤメは後先も考えずにそう決心した。


 電車が都心から離れると、徐々に乗客は減って行き、やがて車両にはアヤメ一人が残された。


 外にはもう商店街の灯りはなく、ただ真っ黒な夜が広がっていた。


 ずいぶんと田舎に来てしまった。


 アヤメは七人掛けのシートの真ん中に座りどこに向かっているのかわからない電車の響きを心地よく感じていた。


 なんだかこんな映画のシーンがあったような気がしたが思い出せなかった。


 やがて、電車は終着駅へと到着した。


 全く知らない駅名だった。


 電車を降りると、数名の乗客が別の車両から降りるのが見えた。

 他に人間がいたのでアヤメは少しほっとした。


 改札口に向かうと、ここが無人駅であることがわかった。

 自動改札もついていなかったのでアヤメはそのまま駅から出た。


 都心よりも空気が冷たく感じられた。


 ここがどこなのか全くわからなかったが、スマホで位置を確認するのは野暮な気がしてしなかった。


 ちょっと行き当たりばったりで行ってみよう。


 駅前には小さな商店が一軒建っていたが閉まっていた。


 道に沿って適当に歩いて行くと、『大犬神社』と書かれた看板があった。

 ここより500メートルと書いてある。


 何か惹かれるものを感じてアヤメはそちらの方へと向かった。


 大犬神社はすぐにみつかり、長い階段の上の方にあるようだった。


 運動不足のアヤメは息を切らせながら長い階段を登った。


 最上部に到着すると大きな鳥居があり、大犬神社の拝殿が正面にどんと構えていた。

 想像よりも大きく立派な神社だった。


 お参りしていると、拝殿横の建物から人が出てきた。

 年配の女性だった。


「おやまあ、こんな時間に珍しいね」


 アヤメは振り返ってお辞儀をした。


「ふらっと来てしまいました。夜分にすみません」


「それはそれは。寒かったでしょう。中でお茶でもどう?」


 人懐っこいおばさんだった。

 アヤメは言われるがままにおばさんについて拝殿横の建物へと入った。


 そこは住居のようだった。

 客間に通されておばさんは奥に引っ込んだ。


 出された座布団に正座で座り、アヤメは部屋の中をぐるりと見渡した。

 正面に床の間があり立派な掛け軸がかけてあった。


 狼が遠吠えをしている墨絵だった。


 アヤメはその絵になぜか引き込まれてしまって目が離せなくなった。


「その絵、いいでしょう?」


 急に声がして驚いて振り向くと、さきほどのおばさんがお茶を持って入って来た。


「あ、はい。迫力があるのに、なんだか寂しい絵だなと思って」


「それはね、この神社でお祀りしている犬神さま」


 おばさんはお茶をアヤメの前に出しながら言った。


「犬神さま…?」


 言いながらアヤメは小さくお辞儀をしてお茶をすすった。


「この神社の拝殿の奥には裏山に通じる階段があって、そこを登っていくと犬神さまをお祀りしている祠があるんですよ。お参りしたければご案内しますよ」


「今からですか?」


 アヤメは柱の時計をチラリと見た。時計は夜の十時を指していた。


「お参り、したいでしょう? あ、あなたのお名前聞いていい?」


 おばさんがにっこりと微笑みながら言った。彼女のそう言われると、お参りしたい、そんな気がしてきた。


「あ、はい。じゃあ…。拍森アヤメです」


 それを聞くと、おばさんは何とも複雑な表情をした。だがそれは一瞬で、すぐに元の笑顔に戻った。


「アヤメさん、では、準備しますんで、ちょっとまってて」


 そう言っておばさんはまた奥に引っ込んでしまった。

 再び独りになったアヤメは犬神さまの絵を近くで見るために立ち上がった。


 見れば見るほどすばらしい絵だった。


「お待たせいたしました、参りましょう」


 戻って来たおばさんを見ると、巫女のような衣装に着替えていた。

 手には提灯を持っている。


 この人は巫女だったのか。ずいぶんと気さくな巫女さんだ。


 アヤメは慌ててジャケットを着るとおばさんの後について建物から出た。


 おばさんについて行くと先ほど話に聞いたとおり、拝殿の裏に山へと続く階段があった。


 それは真っ暗な森の中をどこまでも登っていく階段だった。


 体力のないアヤメは必死におばさんのあと追って上った。

 おばさんは慣れた歩調でどんどん登って行った。提灯の灯りがゆらゆら揺れて距離感がわからなくなった。


 もうこれで限界…と思われるころ、ようやく山の天辺についたようだった。


 少し先でおばさんがこちらを振り向いて待っていた。


「なかなかきつい階段でしょ?」


「あ、はい…」


 はあはあと肩で息をしながらアヤメは応えた。おばさんは一糸乱れぬ呼吸でアヤメを驚かせた。


「毎日登れば慣れますよ」


 おばさんはアヤメの心を読んだかのように言いながら先に進んだ。


 おばさんについていくと、正面に巨大な松の木が現れた。

 大きな大きな松の木の根元には洞窟のような祠があった。


 そこには鉄製の柵がしてあり、人や獣が入れないようになっていた。

 おばさんは鍵を取り出すと柵をあけ中に入って行った。


「この奥に犬神さまの祭壇があります」


 アヤメはこんなところに入っていいのか少し恐ろしく思ったが、神社の人がいいと言っているのだから大丈夫だろうと思いついて行った。


 祠は大人がかがんで進めるほどの高さで、中は外よりもずっとひんやりしていた。

 階段を登って温まった体でもずいぶん寒いと思えるほどだった。


「この中は夏でも寒くて氷が解けないんです。冬の間はこのように冷凍庫並みです」


 またまたおばさんがアヤメの心を読んだかのように言った。


 おばさんが提灯を掲げると、奥の方に何かがあるのが見えた。


 そこまで進んでいくと、この祠の行き止まりがガチガチに凍っているのがわかった。


「これが犬神さまです」


 おばさんは言いながら提灯で氷の塊を照らした。氷の塊にはしめ縄がしてあった。

 アヤメは一歩進んで雪の塊に近寄った。吐く息が白い。


「さあ、お参りしてください」


 おばさんがアヤメの手を引きながら言った。


 そして地面に提灯を置くと、代わりにそこに置いてあったものを手に取った。


 それは小さな藁人形だった。


「何ですかそれ?」


 アヤメは少し怖くなって手を引っ込めようとしたが、おばさんが強く握って放してくれなかった。


「悪しき邪道の神に告ぐ。ここに代行の儀を行わんとすれば、拍森アヤメの延命を懇願する」


 おばさんが低く小さな声で言った。それと同時に手に持っていた藁人形に自然と火が付き、ボッと音を立てて燃え上がりたちまち人形は燃え落ちてしまった。


 アヤメが驚いて見ていると、おばさんが急に苦しみ始めた。

 先ほどまでの親しみやすい雰囲気は失われ、おばさんはまるで野獣のような声で唸り始めた。


 心臓発作でも起こしたのかと思い、アヤメがあたふたしていると、おばさんは喉をかきむしり鬼の形相となった。

 すると、メリメリと音がして、アヤメの目の前でおばさんの顔が真ん中から裂け始めた。


 アヤメは悲鳴を上げて後ずさった。


 たちまちおばさんの顔は半分に破れて、中からもう一つの顔が現れた。


 その顔を見てアヤメはますます悲鳴を上げた。


 おばさんの顔が割れて出てきた顔は、なんとアヤメの顔だったのだ。

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