マンドラゴラ農家

三宅 蘭二朗

前編

 江戸時代、徳川幕府第五代将軍徳川綱吉によって制定された「生類憐みの令」。大雑把に言えば、人間に限らず生きとし生けるものはすべて尊いので殺さずに大切にしようよ、という法令だ。無論、厳密に言えばもっと説明の必要なものなのかもしれないが、少なくとも博巳ひろみは、大体そういう内容で記憶していた。


 博巳が生類憐みの令を始めて知ったのは、小学校の社会の授業だった。先生は大真面目にその内容を語っていたが、博巳はなんて馬鹿馬鹿しい法令なんだと思った。なにせ人間に身近な動物にとどまらず、魚や虫に至るまで、その保護対象になったというのだ。おまけに違反すれば極刑に処されるというのだから酷い話である。倫理の整理された現代に生まれて本当によかったと思ったものだった。


 しかし、そんな馬鹿げた世界観が今まさに現実のものになろうとしている。それも世界規模でだ。いわゆるヴィーガンと呼ばれる際立った菜食主義者や動物愛護団体、あるいは環境保護団体は、年々過激になりつつあった。人間の身勝手な食や生活のために犠牲となる動物たちを排斥すべきという考え方には一定の理解もできた。しかし、これまで人間はそんな動物たちの命を糧にして生きてきたわけだし、そういうものなのだ。大抵の人間はそうすぐに潔癖の博愛主義者にはなれない。非道な人間に玩具のように虐待される野良猫を可哀想と思いながら、一方でビール片手に綺麗にサシの入った焼肉に舌鼓を打つ。そう深く考えないのが人間というものだ。命を糧にしているが、決してその犠牲になった命を軽んじているわけじゃない。大体の人がそんな思いを抱いているだろう。


 しかし、過激派動物愛護団体にとってはそんなぬるい考え方は許されない。とにかく、生き物の命は尊く掛け値なしに大切にされるべきものなのである。欧米を中心に存在感を増してきた彼等はときに過激な手段に打って出た。フランスでは白昼堂々、精肉業者がショットガンで商品よろしくミンチになり、アメリカでは大規模農場が爆破されて、数百頭の牛が逃げ出した。


 そんな過激派団体に戦々恐々としているのは、畜産業関係者だけではなかった。


「どうだ、次男坊」


 自然薯掘り界隈ではゴッドハンドとして知られる名人、土竜もぐら長七ちょうしちこと、堀大和ほりやまと長七郎ちょうしちろうが酒焼けしたしゃがれ声で博巳を呼んだ。


「だいぶ、見えてきました、大将。これは大物ですよ」


 緩やかな山の傾斜に両脚を踏ん張りながら、博巳は軍手をまとった手で土を掘っていた。掘り出された土が足元で小さな山となり、掘られた地面からは黄味がかった薄茶色が露出している。自然薯である。博巳は自然薯を掴んで揺らしてみた。大きく揺れる。


「大将、どうですか? もう頃合いかと」


 長七郎はその様子を博巳の後ろから眺め、しかとうなずいた。


「よし、そろそろいいだろ。気を付けて取り出せ」


 博巳はうなずき、両手で自然薯を掴むと、ゆっくりと力を加えながら土の中から引き離した。まだ少し土中に張り付いた個所がある。そこに指を差し込み、土を掻き出しながら徐々に引き抜いていく。博巳の繊細な力加減でようやく自然薯が土中から引き抜かれた。


「おっほう! こら、今年一の大物だ! でかしたぞ、次男坊!」


 長七郎の土だらけの手が博巳の背中を激しく叩く。思わずせっかくの自然薯を取り落としそうになり、慌てて持ち直す。そしてそんなコメディのような一幕を、ふたりで顔を合わせて笑い合った。


 博巳はマンドラゴラ農家を営む那須川なすかわ家の次男だった。那須川家は界隈では質のいいマンドラゴラを収穫する豪農として知られていた。しかし、それも今は昔、昨今の動物愛護団体からの圧力によって、マンドラゴラ農家は窮地に追いやられていたのである。

 マンドラゴラと言えば、魔術師や錬金術師が薬の調合や呪いのために愛用する植物である。その特徴は、土に埋まった部分が人間のような形をしていることと、引き抜くときに断末魔の悲鳴のような音を立てることだった。この悲鳴を聞くと人間は狂い死にしてしまうため、マンドラゴラを引き抜くときには伝統的に犬を使った。すなわち、犬とマンドラゴラを紐で繋いで、犬に引き抜かせるのである。当然、犬は死ぬわけだが、これが昨今の動物愛護団体から非難の対象になっており、ヨーロッパでは大型犬と首を紐で繋がれた農家が、マンドラゴラよろしく犬に脊髄を引き抜かれるという残忍な事件も起きている。

 欧米ではすでにマンドラゴラ農業は壊滅的であり、遅れて日本にもその影響が波及した。世界的なマンドラゴラ不足に陥り、市場では価格が急騰、ここ五年でその値段は十倍にまで跳ね上がり、ドイツでは魔女の廃業が社会問題となっていた。業界も混乱を極めており、大胆にも青森県産のセクシー大根をマンドラゴラと偽り、東南アジアを中心に売り捌いていた日韓の違法グループが摘発された事件は、まだ人々の記憶に新しい。

 いまや、悲鳴を上げているのは引き抜く方なのだ。


 那須川家も、博巳の父、辰臣がなんとか事業を守ってきたが、マンドラゴラ採取用の犬の調達が困難を極めるため、もはや限界であった。


「たっつぁんのところに戻るのかい?」


 今日の仕事を終え、お茶で休憩を取りながら、長七郎は博巳に問いかけた。


「はい。この自然薯掘りの技術は必ずマンドラゴラ掘りに活かせるはずだと思っています」


 博巳はすっくと立ちあがり、深く深く、長七郎に頭を下げた。


「今までありがとうございます。本当にお世話になりました」

「なに、いいってことよ。おとっつぁんに楽させてやりなよ」


 長七郎が孫を見るような目を博巳に向けて、皺だらけの笑顔を浮かべた。


 博巳は実家の窮地を救うため、長七郎に弟子入りしていた。自然薯は土に埋まっている部分が長く、また繊細なため、折らずに収穫するためには、全体が土から露出するほど深く掘って収穫する。この、引き抜くのではなく掘り出すという自然薯掘りならではのタスクを応用すれば、悲鳴を上げさせることなくマンドラゴラを収穫できるのではないか。すなわち、博巳が考えているのは、犬なしで人間自らマンドラゴラを収穫するという一歩間違えば死と隣り合わせの大胆な発想だった。


 長七郎の技術を手に、博巳は父、辰臣たつおみの待つ那須川家に戻る。


「死ぬなよ」


 長七郎はその成長した背中に呟いた。

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