傍観者の、恋。
蒼埜かげえ
傍観者の、恋。
七月二十日の朝刊に、見知った名前を典子は見つけた。
と言ってもそれ自体は珍しい事では無かった。
その名前の主、乃木宮麻衣は、中学の頃こそ平凡な級友だったが、今ではそれなりに名の知れた芸能人だったのだから。
教室の片隅で息を潜めるように授業を受けていた彼女は、しかし、高校二年の時に某アイドルグループのオーディションに合格したという。
高校三年の時、その話を中学の頃からの友達に聞いた時は、まさかと思ったものだが、典子の戸惑いを他所に、彼女を雑誌やテレビで見るようになった。
アイドルと言っても何十人もいるグループの一人でしょう。そんな風に思ったのは最初の頃だけで、年末の国民的歌謡祭で歌って踊る彼女を見てしまっては、彼女と級友だったことの方が夢幻のように思える。
あんな風に踊る少女を典子は知らない。けれど、グループのセンターでは無かったものの、曲の合間にファンから「マイマイ!」「マイマイ!」と掛け声があがる様は圧巻だった。五年前に「麻衣さん」と呼んでいた少女はもう何処にもいないのだと、少々感傷的になったほどである。
だから乃木宮麻衣の名前が新聞に載ること自体は変な事では無い。
ただ、載った場所が問題だった。
芸能欄やテレビ欄ではなく、一面のど真ん中、堂々と本名とかっこで括られた19の文字。加え行方不明と書かれたソレに、嫌でも典子の目は釘付けとなった。
『昨夜未明、A県Y市にある合宿所にて、○○○○○さん(20)が血を流して倒れているところを発見された。一緒にいた、●●●●●さん(18)と、乃木宮麻衣さん(19)は姿がなく、現在も行方不明である。警察は何らかの事件に巻き込まれたのではないかと捜査を進めている。』
続き、血を流した女性が現在も意識不明であることや、現場が山奥にあること、昨日の大雨で痕跡らしいものを追うのが困難なことなどが書かれていた。最後に『彼女達はアイドルグループ△△に所属しており、ネットにはファン達の安否を憂う投稿が相次いでいる』と締めている。
出来るだけ事実のみを伝えようとする文章を、典子は二度、三度、読み直し、そして、入れたばかりの珈琲を口に含んだ。濃い目の珈琲に僅かに牛乳を入れたそれは、明け方にぴったりの味がした。
窓からは明るい日差しが差し込んでいて、昨晩の大雨は過ぎ去ったのだと気づく。見れば、雲ひとつない青空が広がっていた。
A県Y市といえば、ここB県G市と隣接している。車で行けば一時間ほどの距離だ。
きっとここと同じように、今は晴天なのだろう。
そんなにも近い距離で、かつての級友に何かがあったらしい。
新聞記事が仰々しく語る内容が、身近な日常の延長にあることが、奇妙に思えた。ただ。
ああ、麻衣さんはついに手に入れてしまったのだな。
そう、典子は確信していた。
麻衣さんは、すべてを捨てても良いと思える恋を、ついに手にしてしまったのだ。
典子と乃木宮麻衣は、特別に親しいというわけではなかった。
同じ中学校の同じクラスに所属していたが、同じグループに所属はしていなかったからだ。部活も典子はバスケ部で、乃木宮麻衣は書道部と、まるで全てが違っていた。
そんな典子と乃木宮麻衣とが、けれど一度だけ、二人きりで会話をしたことがある。突然の豪雨に、帰宅できなくなってしまった時のことだ。
部活の自主練で夜六時半まで残っていた典子は、その日、傘を持っていなかった。だから雨足が収まるのを待とうと思い、自らの教室へと向かった。そこに、同じ理由でやってきた乃木宮麻衣と遭遇したのである。
「図書室で本を読んでたら集中しすぎて」
そう言った彼女は、一冊の本を抱えていた。それが芥川龍之介の羅生門だったことを、何故か今でもよく憶えている。確か文庫で、本の合間からよれた茶色のスピンが垂れ下がっている様もありありと思い出せた。
その時の典子は、こんな時間まで読書に集中できるなんて、やっぱり彼女は自分とは違うなと思った。身体を動かすことが好きな典子にとって、大人しく教室という箱のなかに収まる乃木宮麻衣は、まったく異なる存在のように見えたのである。
どこか孤高で、静かで、埋没してしまいそうな少女。クラスで浮いているというわけではなく、無視されているのでもない。ただ、存在が薄く、この場所に馴染んでいない。そういう少女だった。
「雨、止まないね」
何を話せば良いのか迷って、当たり障りのないことを口にした。
乃木宮麻衣は「そうね」と頷いて、そしてそれ以上、会話は続かなかった。典子にとって沈黙は苦手で、じっと雨を見ているのも得意ではなかった。
「こんな土砂降りなら、なにか悪いことをしても、証拠は消えちゃいそう」
そう、典子が声をあげたのは、だから沈黙が嫌だったからだ。
「え?」
訝しむ乃木宮麻衣に、畳み掛けるように続けた。
「この間、ドラマで見たの。山奥の別荘で殺人事件が起きるの。犯人は逃亡するのだけれど、雨が痕跡を隠してしまうの」
純朴な青年が既婚者の女性と恋に落ち、苦悩する。最後に女性の旦那を殺し、彼女と共に逃走するという筋書きだ。母の好きな俳優が出ていたから家族で見ていたのだが、典子にはいまいち面白さの分からないドラマだった。大人しい主人公が人殺しへと豹変していく様が怖く、それを、ままならない社会で真実の愛を貫くという良い感じに描いていたのも気味が悪かった。
ただ、ドラマの終り、雨に、主人公たちの後姿が消えていくのはよかった。殺された旦那は土砂崩れのなかに消え、主人公たちの足あとも消えていく。彼の犯した罪が隠されたようで、後味の悪さが薄れたからだ。
だから、口にした。
今の雨は、まさにそのドラマの終盤のようだ、と。けれど。
「……素敵」
典子がドラマのあらすじを話すと、途端、乃木宮麻衣はほうっと溜息をもらした。
「何もかも全てを投げ売ってもいい、そう望むような恋をしたのね」
典子に向けてというよりも、独り言が漏れたというような声色で、乃木宮麻衣は呟く。その頬は僅かに高揚しているようで、瞳も輝いている。
夢見心地。
そんな言葉が似合う、表情。
「憧れるわ。私もそんな恋がしてみたい」
取り立てた個性もなく、人々の中に埋没してしまいそうな少女の、情熱的な溜息。あけすけに語る、恋という言葉。
見てはいけないもの、触れてはいけないものを見たようで、典子は思わず息を飲む。
飲まれてはいけない。この表情に、惹かれてはいけない。
身体の奥で、警戒するような感覚が生まれる。
これ以上、乃木宮麻衣を見てはいけない。そう思っているのに、けれど、その表情から視線をそらせない。
「そ……んなに、良いものかしら。恋って」
それでも抗うように、紡げば。
「私は憧れるわ」
僅かに笑みを浮かべては、乃木宮麻衣は呟いた。
そして彼女は窓の外、土砂降りの雨を見つめる。
「憧れるわ。いつかそんな恋がしてみたい」
その目で、雨を見つめているのだろう、けれど。本当は、その先に何を見出しているのだろう。
うっとりと、蕩けるような笑みを深めて、乃木宮麻衣は窓ガラスに手を当てる。
典子には、その気持ちがよくわからなかった。
恋というものに、興味はあっても、けれど、自分ごとのようには感じられなかった。どちらかといえば、苦手に感じていた。ドラマも歌も漫画もゲームも。恋は素晴らしいものだと押し付けてくるようで、それが苦手だった。まるで、早く大人になれ、大人になれと言われているようで、まだ、子どもでいたいと感じていた。けれど。
乃木宮麻衣のその表情から目をすらすことができなくて。そして、いつまでも見ていたいと思った。
当たり前に教室にいたその少女が、こんなにも美しいだなんて知らなかった。
もっと見ていたいと思った。いや、願うような気持ちだった。けれど。
その表情は、自分に向けられるものではないともわかっていた。
今、自分をみつめる乃木宮麻衣の瞳は、完全に部外者を見る瞳だった。
貴方にはわからないのね。
そんな風に、同情されているような瞳だった。彼女の恋の相手に、自分は含まれないのだ、と。なぜかそんなことを思っては、そして静かに失望もしていた。
こんなにも心震わせる貴方は、私のことを恋の相手には選ばないのね。
不意にそんな言葉が浮かんでは、けれど。それは口にしなかった。
典子は恋というものを好んでいなかったはずなのに、気づけば恋して、一瞬で失恋したような感覚。この気持ちはよくわからないけれど、確かに失恋した。そんな気分だった。
「私には、恋なんてもの、わからないわ」
だから最後に、もう一度。抗うように紡いで、そして。けれど。
きっと自分はこの光景を、ずっと忘れないのだろうとも思った。
恋に憧れるこの少女の姿を、きっと忘れないのだろう、と。
だから。
乃木宮麻衣の名前を新聞で見た時、典子は確信した。
ついに麻衣さんはその相手を見つけてしまったのかと。
そして同時に思ってしまった。
現実はドラマほど上手くはいかない、それを貴方も分かっていただろうに、とも。
一昨日から昨日にかけて、台風のことばかりを書いていた新聞は、けれど今朝はちっともそれを語らず、乃木宮麻衣の名前を連ねる。事件といえば事件だが、昨日だったらこんなに大々的に一面には載せなかったであろう、記事。せめてあと一日、行動を早く起こしていれば、台風の情報の合間に載せる程度だったろうに。
確かに一昨日の夜までは、昨日から今日の昼過ぎにかけて台風はここを通過すると予想されていた。けれど、現実はそう上手くも行かず、速度をあげた台風は昨日の夕方には通過し、今明るい青空が広がるばかりだ。
彼女の罪の痕跡は、どこまで消えたのだろう。逃げ切ることはできたのだろうか。
多少は警察の操作を難航させるかもしれないが、きっとそう上手くはいかない。昔見たドラマのように、都合良くは進まない。
きっと。
早ければ今日の夕刊、もしくは明日の朝刊にも、麻衣さんの名前は載る。けれどそれはアイドルとしてではなく、被害者としてでもなく。あのドラマで語られなかった現実的で正しい結末が描かれるのだ。
典子はもう一度、珈琲を口に含んで空を見る。すでに日差しは眩しく、今日は暑くなるのだと予感させる青空。
その透き通る青を見ながら思った。
「今から雨でも降れば良いのに」
土砂降りであればあるほど良い。
雨でも降れば良いのに。
犯した罪をすべて洗い流してしまえばよいのに。 それは、願うべきことではないと分かってはいた。願うような立場ではないとも。ただ。
清々しい青空を見上げながら、雨が降ればよいのに、と。
すがるように、願った。
傍観者の、恋。 蒼埜かげえ @mothimothi7
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