人魚姫
珠洲泉帆
人魚姫
「わたし、夏が終わったら外国に行くの」
彼女は言った。二人で同じベッドに横になっているときだった。
彼女はだらしなく二の腕に垂れたブラジャーのストラップを引き上げ、気だるげにこちらを見た。
「そしたら、ここにはもう戻ってこない」
わたしは黙っていた。自分の気持ちの整理がまだついていなかった。
彼女の言う意味はわかっている。夕べの一夜が、本当にその一夜のまま終わるということだ。めくるめく時間は繰り返されることがない。わたしの心に波風が立った。
二人がいるのは海辺の別荘地のホテルだった。金持ちが多く訪れるこの場所に、わたしはなけなしの金をはたいてやって来た。彼女といえばまるでここにいることが当然だとでもいうように場慣れした態度で振舞っていた。実際ここには何度も来たことがあると言い、わたしとは違う世界の住人だった。そんな彼女と一夜をともにすることになったのは、酒の勢いだとしか言えない。
わたしは緊張を紛らわすために飲んでいた。彼女はもっとリラックスしていた。でも、どちらかというと積極的なのは彼女のほうだった。わたしの腕にさり気なく触れ、横顔を盗み見て、意味ありげに微笑みかける。最初から長く続く関係に持ち込む気などなかった。それはお互い様だ。でも、ならなぜこんな風に話を切り出すのか。きっぱりと、宣言するみたいに。
「どこの国に行くの?」
彼女が答えたその国は世界のビジネスの中心地だった。なるほど、もっと上を目指そうというわけだ。わたしは「飛行機で行くの?」と当たり前のことを言った。自分の気持ちを言葉にするのに時間稼ぎが必要だった。
「飛行機で行く。もう何回も乗ってる」
「なら慣れたもんだね」
「うん」
沈黙が落ちた。わたしは意味もなく枕を叩いた。
「まあ、最初からあなたとは住む世界が違うなと思ってたよ」
「そうなの?」
「ぜーんぜん違う。雰囲気からして違ってた」
「わたしは、共通点があると思ったから話しかけたの」
それが何なのか聞く勇気はなかった。聞いてしまったら、一夜で終わらせない希望が見えてしまう気がして。
わたしはここに気分転換とちょっとした冒険のために来た。海を見飽きた旅人が、初めての島に気紛れで上陸してみるかのように。そしたらその島には人魚が住み着いていて、わたしはまんまとその誘惑に負けたというわけだ。人魚はわたしをあっさりものにした。彼女はわたしより一枚も二枚も上手で、いわば人魚の中でも特別なお姫様だ。
彼女を追って外国へ行くことは、わたしにはできない。海の中へ戻っていく人魚を引き留める術は、わたしにはない。
それが最初から分かっていたら、彼女の誘惑にも勝てただろうか?
考えても意味のないことだ。
「ま、上手くやりなよ」
それがわたしに言える精いっぱいだった。
彼女は立ち上がると素早く服を着た。わたしが遅れてのろのろ服を身に着けていると、彼女は最後のハグをして来た。抱きしめ返す間もなく、彼女は離れて部屋を出ていった。
それでよかったと思っている。あまり長く抱き合っていたら、別れがたくなっていただろうから。
人魚姫は去った。わたしの心に、波とあぶくを残して。
わたしは平凡で穏やかな日常に戻るべく、チェックアウトの支度を進めた。
人魚姫 珠洲泉帆 @suzumizuho
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