はつこいスイートデイズ ~幼児退行同級生に恋しちゃった女の子の末路~
沼米 さくら
第1話 はつこいスイートデイズ ~幼児退行同級生に恋しちゃった話~
わたしはいま、恋をしている。
*
彼女が少しだけ震えた。それが何のサインか、わたしには手に取るようにわかる。
「……出ちゃった?」
そう尋ねると、隣に座るこの教室には場違いに見えるほど幼い少女は、軽く首をかしげて、自分のスカートをさわさわとまさぐったのちに、こくりと緩慢に頷いた。
「せんせー、保健室行ってきます!」
わたしが手を挙げて告げた言葉に、教壇に立つ女性教師はチョークを持つ手を止めて、数秒。――彼女の事情は、もはや学年中のほとんどの人間が知っていることだろう。
「……井上さんね。行ってきなさい」
告げられた言葉。わたしは隣の少女――井上 まどかの手を取って、「行こ」「ん」一言の意思疎通の後に、席を立った。
「ゆかりちゃん、ありがとうね~」
保健室。養護教諭の女性は、わたしを――佐藤
「あはは……まどかが不快な思いしないなら、それに越したことはないので」
わずかに鼻につくにおいが漂う保健室。まどかの便は普通の人よりにおいが薄いと聞いたけど、それでもしないわけではない。
……おむつが外れない生活も、大変なんだろうな。
この瞬間だけは、親友にどこか憐憫にも似たような感情を抱かざるを得なかった。他人に自分の出したものを処理させることほど惨めなことは、そうあるものでもない。
もっとも、彼女にとってはこれが当たり前なのだ。ゆえに、疑問も抱かないのだろうが。
わたしはそんな彼女のにおいを鼻いっぱいに吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
胸にむずむずとした引っ掛かりを感じた。
*
保健室にはファブリーズの匂いが漂う。むろん、あのにおいをかき消すためである。
「少し保健室で休んでから行きなさいな、まどかちゃん。ゆかりちゃんも」
養護教諭の先生の厚意に甘えるように――いつものことだけれど、わたしたちはベッドに腰かける。
芳香剤の匂いはすぐに紅茶に塗り替えられた。
「はー。おいしいです」
「それはよかったわ」
わたしの言葉に、先生は笑った。まどかも、いつものように細めた目をさらに細めて、ほうっと息をつく。
ティーカップを片手に、しばしのブレイクタイム。
「授業中なのに、いいんですかね」
わたしの問いに、先生は「いいのよ~。ここは、生徒みんなの場所だから」と答えた。
そんなとき、まどかがわずかにわたしの袖を引いた。
「……ん」
「手、つなぎたいの?」
「んーん」
首を少し横に振って、彼女はいつもの微笑みで、小さな声で、甘い声でささやいた。
「あした、おかいもの、いかない?」
今日は金曜。つまり、明日は土曜で中学校は休みだ。
「明日、病院じゃなかった?」「ちがうよ」「体力とか大丈夫かな」「だいじょーぶ、だとおもう」
せっかくの誘いだったが、なんとなく怖くて、断る口実を探していた。
けど、いくつか言葉を掛け合った結果。
「近くのイオンモールならいいんじゃないの?」
先生の助言もありつつ。
「……わかった、行こ!」
折れたのはわたしだった。
確か、まどかの昼間のおむつが少なくなってたんだっけ。あと、服も……汚したことのない綺麗なの、もう少なくなってるってまどかママから聞いたし。うん。
言い訳をいくつか考えだして、自分で納得。
いつものように、しかしいつもより少し楽しそうな微笑みを浮かべて、彼女は足をぶらぶらしていた。
*
彼女は、患っている。
*
「ゆーちゃん。これ、かわいいよ」
彼女はとても甘い声でささやくように、わたしに微笑みかけた。
「ゆーちゃんににあいそう」
まどかが持っているのは、ふわふわな白いワンピース。パステルピンクの差し色が入っている。……わたしにはちょっと似合いそうにない。
「むしろ、まどかの方が似合うんじゃない?」
「えー?」
この会話だけ聞くと、ただの女子中学生の会話だと思うかもしれない。実際、わたしたちはただの女子中学生であることに変わりは無いのだから、合ってはいるのだろう。
けど、彼女の見かけは小学生、それも低学年以下の幼い子供のそれだ。
身体年齢が大体七歳くらい。精神年齢も大体そのくらい。実年齢の半分。
まどかのママ曰く「天使症候群」と呼ばれる、先天性の障害なのだという。医者による診断も受けていて、それ相応のいろいろな補助も受けながら生きているのだという。
実際、まどかはかわいい。いつもニコニコ、天使のように微笑んで、みんなの心を明るく照らす。まさに天使のような存在だ。
「じゃあ、ふたりでおそろいにしようよ」
うん。マジでかわいい。同性のわたしでさえ、魅了されてしまうほどに。
ワンピースの肩の部分を持って微笑む彼女が、不意に眉をひくつかせ、「ん……」声を漏らしながら震えた。
においが漂う前にわかる。
「試着の前に、トイレ行こ」
「…………ん」
まどかは少しだけ残念そうに、こくりと頷いた。
多目的トイレは使用中。二人で小さな個室に入る。
彼女のたくし上げたスカート。その中の紙の下着、中央に走った線は水分を検知して青緑色に変色している。
くしゅっとしたそのフォルムは、彼女の愛らしさを数割増しに見せているように感じる。
「はやくぅ」
見蕩れたわたしを、彼女は急かした。
脇に入ったステッチをそっとちぎると、鼻につくにおいがむわっと漂った。
ウェットティッシュでそっと大事な部分を拭き上げ、新しいおむつをはかせる。
白地に、ピンクを基調とした柄の入った、子供用の
ふわっとしたそれを腰まで引き上げてやると、彼女は嬉しそうに「えへへ」と笑った。
そして、トイレを出たところまでは覚えている。
「あっ」
トイレを出た彼女。握った手が離れ、瞬く間に人波に押し流されていく少女。
「あっ、あっあ、あー…………」
彼女を見失ったわたしは、一人立ち尽くしたのだった。
*
彼女は、恋をしている。
*
――あれから、どれくらい経っただろう。
「いない!」
どこ? どこ?
わたしは走っていた。
ショッピングモールの中、怪訝な目で見られながら駆けるわたし。
ヘンなのはわかってる。でも。
「まどかっ!」
あの子が心配だから。
――心配? どうして?
ふと、自分の中に現れた疑問に、わたしは怒鳴りつけるように、心の中で叫んだ。
――あの子がどっか、何かに巻き込まれているのが怖いの!
――――それが、なんだ?
わたしの中のナニカが、そんなことを告げる。
怖かった。そんなことを考えている自分が。
『自分の中に、そういうことを考えている自分がいる』という事実が、怖かった。
迷いを振り切るように、わたしは走った。探すふりをして、ただ、ただ――。
どこを探しても、居なかった。
洋服屋を見ても、楽器店を見ても、本屋を見ても。
どこにもいなくて。
――やがて、息を切らして立ち止まった。
焦燥。不安。そういった感情が募り募って。
「う、うぅ……」
泣き出しそうになった。
泣きそうだった。
涙が出た。
そのとき。
『迷子のお知らせを致します――』
チャイムが鳴った。
半分錯乱状態で聞き流していた音声。しかし。
『――井上 まどかちゃんがお待ちです』
はっとした。
わたしはすぐに駆けだした。
安堵と安心感。ああ、待っててくれたんだ。
本当に泣きながら、半狂乱で走った。
その中でついに、自覚した。
わたし、まどかのことが――。
*
ふたりは、患っている。
*
「あの、さ」
帰り道。バスから降りて、二人で川の土手を歩いていたときのことだ。
楽しかったねー、とかさっきは大変だったよねーなんて話をしていた。そして、話も尽きて少しの沈黙が漂った直後だった。
切り出し方がよくなかったのか、まどかは少しきょとんとして、それから少しだけ目を細めて。
「どーしたの? ゆーちゃん」
かすかに震えた声音で、しかし何事もないかを装うように尋ねる。
それに応えるように、わたしもなるべく平静に――
「あのさ……わたし」
――平静になんて、なってはいられなかった。けど、荒くなりそうな息をできるだけ抑えつつ。
「……わたしっ、まどかの、ことが――」
すき。
その一言が、どうしても言えなくて。
しゃくりを上げ、つい泣き出しそうになるわたし。
まどかを見ると、ちょっと微笑んでいるように見え。
彼女はゆっくりわたしのそばに寄ってきて、そっと抱き寄せた。
その本意はわたしにはわからない。けど、不思議な温かみを感じた。
彼女の小さな胸の中でわたしはただ泣いていた。
*
こくはく、できなかったな。
家に帰り着き、わたしはほうっと息を吐く。
かあっと赤くなった頬を冷ますように、洗面台に向かって顔を洗う。
あのあと、まどかを家に帰し、わたしも自分の家に帰った。
その間、わたし達は互いに目も合わせないまま、手だけ握っていた。
――わたし、まどかのことが好きなんだ。
そう自覚したあの瞬間から、すでにもう「彼女」のことしか考えられなくなっていた。
いや、幼い頃に彼女と出会ったあの頃にはすでに好きだったのかもしれない。
ずっと、あの子のことしか考えられなかった。考えていなかった。
いま恋したんじゃなくて、恋をいま自覚したに過ぎないんだ。本当は、ずっと、ずっと――。
――わたしは、恋をしていた。
自分の部屋にダッシュで向かい、ベッドに横たわり、足をバタバタさせる。
枕に顔を埋め、ふーっと息をした。
「……どうしてくれるの?」
もう、あの子なしでは生きられないようだった。
ゆっくり時間をかけて育まれすり込まれた恋は、もう今更止められやしない。彼女はもうすでにわたしの一部なのだ。
「セキニンとって――」
――なんて、言えるはずない。だってあの子は、まだ幼いから。
「あ――――っ、もうっ!」
暴走するわたしの心。
動き出したこの恋は、もう止まることを知らない。
*
家に帰りつき、自分の部屋に戻った「わたし」は、大きくため息をついた。
「遅いよ……ゆーちゃん」
親友――ゆかりの名前を呼んで。
――わたしはずっと、恋をしていた。
まず、わたし――井上 まどかは、至って普通の女の子だ。
身体の発達は遅いが、ギリギリ標準偏差内。精神の発達遅延は確かにあるが、それも成長によりカバーできる範囲にとどまっており、知的学習障害に至ってはほとんど無いに等しいそうだった。
曰く、幼い頃にはそういった発達障害とかの症状が強く出ていたらしくて、お医者さんもそう診断してしまったとのこと。いわゆる、誤診だ。
後年になって誤診がわかったが、周囲の認識は変えられない。だから、もうその名前だけの障害と付き合い続けることにした。
具体的には、そういった子を演じることにしたのだった。だからわたしは、七歳くらいの女の子の振りを続けている。
けれどその本性は、勉強も出来るし恋だってする、普通の女子中学生でしかないのだ。
服を脱ぐわたし。おむつはまだ濡らしてはいなかった。
「この下着もすっごく蒸れるのに……」
そう言いながら、わたしは股関節の筋肉に力を入れ、その下着を「使った」。
――これも、本当は使わなくていいのだ。
おねしょはどんなに願ってもすることはないし、失禁もめったにない。けど、使っている。わざと漏らしてまで、使っている。
何故か。
「ゆーちゃんが、わるいんだから……っ」
濡れた部分を少しだけ押さえる。好きな人のことを、考えて。
――好きな人にお世話されたいから。幸い、『障害者』という言い訳もできる。
わたしは悪い子だ。
荒く官能的な息を吐いて、「んっ……」あえぎ声をかみ殺し。
やがて、頭が真っ白になって、倦怠感が襲う。
もう一度、今度は力を抜くと、小さく水音がした。
「ゆーちゃん、だいすき……」
息を切らしながら告げた言葉が、彼女に伝わることはない。
けど、それでいい。わたしはほくそ笑んだ。
「ずっと、ずっとずっと、一緒にいようね」
友達でも恋人でもなんでもいい。
ずっと一緒にいればそれでいい。
好きって、そういうことだと思うから。
ずっと、ずっと――。
――わたしはいま、恋をしている。
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