約束の火曜日。

 私とハヤタは、兼ねてから気になっていた牧場に向かうことになった。

 開けた場所の方が胸襟も開きやすいだろうし、動物に癒しを求めた。


 駅の駐車場で待ち合わせをしていたので、指定された場所に向かうと、やっぱりコンタクトで茶髪のハヤタが車に寄りかかって携帯をいじっていた。

 なんだか大人に見える。私も大人だが、大学時代を知っている身としてはそう思ってしまった。


「おはよう。ごめん、ハヤタ。待たせた?」


「おはよう。そんなに待ってないから大丈夫。

 行こうか。牧場のイベント、間に合った方がいいよね」


 車の運転が苦手だった彼はいつしか普通に乗れるようになったのだろう、自然にお互いに車に乗り込み、シートベルトを着用する。

 助手席に座ったが、普段は運転席なので、なんだかむず痒い。


「芽依は昔から、可愛い服が好きだったね」


「そうだったっけ」


「ちょっと格好いいようなシャツ贈ったら、これは着ないわーって、いらなさそうな顔されたの覚えてる」


 決して私がいい彼女じゃないのは、もうお分かりだろう。よくもまあこんな女に会いたがったものだと、反省して謝った。


 別に今日の服も、こだわりがある訳じゃない。

 買い物にもほとんど行かないのを、会社帰りでも開いている上、衣料品も売っているスーパーに寄り、可愛いような服をなんとか見つけて買った。

 我が社は制服が支給される。社会人になってから一度も服を買いに行かないのだから、デートに着て行くような服がなくても仕方ない。今日も先輩に商品移動を待ってもらった上、棚替えを我慢して来たのだ。


 ハヤタの車に乗り、牧場へ向かったが、車の運転は上達していた。

 日が差し込むのに自然にサングラスをかけ始めたが、手慣れている。


「やっぱり三年も運転してると慣れる?」


 免許は持っていたが、レンタカーでも乗ろうものなら自分が運転するのに車酔いするような男だった。

 彼も思い出したらしく、口元を微笑ませた。


「もちろん。転勤も結構あって、東京と違って車社会だから、運転出来ないと生活出来ないって痛感した。毎日やってたら、慣れたよ」


 丁寧な運転に連れられて、牧場へ向かった。

 施設の駐車場に車を停めて、パンフレットをもらって、二人で動物を見て歩き回る。

 今は手も繋がないけれど、大学時代には観光地に行ったら、見よう見まねでお互いの手を握って、恥ずかしくて汗だくになったっけ、と思い出す。


 高原の空気は爽やかで、夏の暑い日差しの下ではあったけれど、割と涼しかった。

 のんびりと草を食む牛や羊が柵の向こうすぐにいて、一緒に餌やり体験なども楽しんだ。


「芽依って牛好きだったよね。牛柄のパジャマ着てなかった?」


「それお母さんが買って来たやつ。よく覚えてるね」


「着ぐるみじゃないけど可愛いな、って思ってたから」


 私たちが彼氏と彼女だったのは、たった一年とちょっとだ。

 それでも十分なくらい、大学時代の私たちには、思い出があったのかもしれない。


 牧場には、アヒルや鴨なども泳ぐような、広い池も用意されていた。

 桟橋に乗って見下ろすと、水の中には多数の鯉が自由気ままに泳ぎ回っていた。


「これも餌やり出来るって看板に書いてあるね。やる?」


「鯉の餌、手が臭くなりがちだけどやろうかな。販売機見当たらないね」


 売っている事実は看板にデカデカと示しているのに、木陰に隠れて販売機が見当たらなくて、笑ってしまった。売る気があるのか無いのか、どっちなんだ、なんて二人で言いながら、私の分だけ購入した。


「ハヤタはどうせ、私が撒くのが見たいんでしょ」


「うん。芽依見てた方が楽しい」


 ハヤタが最中に入った鯉の餌を手にし、外皮を割る私を見ている。鯉もこちらに気づいたように口をぱくぱくと開け閉めしている。


「よーし、この餌が欲しいか、とってこいっ」


 粒状の餌を投げると鯉が一斉に移動して水飛沫が派手に上がるのだから、それが楽しかった。

 ようやく気付いたような手前の鯉が、追いかけようか中途半端な動きをしているのにも、砕いた最中を撒いてやる。また一斉に向かってきた鯉たちで取り合いになって、必死になっているのが可愛い。


「ふっふっふ、まだまだあるぞー、今度はこっちだっ」


 また餌を遠くに投げて鯉のシャトルランを楽しむ。

 一斉に移動する訓練されたような奴、ぼうっとしているのか興味を持たない鯉、どちらも楽しみながら両方に満遍なく餌をやった。


「餌を投げながら取ってこいって言う人、あんまり見ないよね」


「そりゃあ、子供以外は普通言わないんじゃない?」


 餌やりについテンションが上がってしまうけれど、人がいると見られて割と恥ずかしい。子供たちに「あのお姉さん大人気ないね」なんて言われることもある。

 平日の午前中の牧場にはほとんど人がいないから、鯉たちを相手に、私も餌やりを満喫出来た。


 せっかく最中に臭いのある鯉の餌を包んでいるのに、掴んで投げるものだから、手はやっぱり臭くなっていた。ハヤタをトイレ前で待たせて、しっかり石鹸で洗い落とした。

 ハンカチで拭きながら、施設のトイレを振り返る。


「たまに中が見える男子トイレない? ほら、ここも見えてるよ、二番目くらいまで」


 気をつけないと掴んだものまで見えることがある。ハヤタも斜めの角度に気づいたらしく、困ったように苦笑いしていた。


「販売機もそうだけど、売りたいのか売りたくないのか、隠したいのか隠したくないのか、不思議な牧場だね。なーんてね」


 ハヤタはこんな私の下ネタにも嫌がらずに、笑ってくれた。

 この通り、ハヤタは優しい人なのだ。


 彼は今日、改めて恋人として手を繋いだり、腕を組んだりは要求してこなかった。

 私が果たして彼女なのか、それともただの同級生なのかも分からないからだろう、距離感を保って、触れもしなかった。


 けれど、きっとこれが最後のデートだと理解している。

 それくらい、時折、目を細めて切なそうに、遠くを見ていた。


 広い牧場にはまだまだ見どころがあって、豚レースなども白熱した。

 歩き回って疲れたので、休憩には牧場のアイスを買ってベンチに座った。

 小高い丘の上からは、歩き回って見てきた、放牧されている動物がのんびりと草を食んでいるのが見える。


「牛を見ながらミルクアイスを食べるのって、なんか不思議な気分にならない? どの牛の乳かなーとか、つい考えちゃうんだけど」


「俺はあんまり思わないかな。でもじゃあ、一応。牛さん、ありがたくいただきます」


 私に合わせてそう言いながら、ハヤタがカップのアイスを口にする。

 コーンじゃないと勿体無いと以前から言って憚らない私は、コーンを持って甘いアイスに口をつける。

 二人で牛を見ながらアイスを食べて、のんびりと過ごして、それが自然で。

 自然消滅させようと思っていた関係だけれど、なぜか不思議と悪くはない。


 顔を見なければ、私が好きだった、穏やかなハヤタ。

 でもちょっと横を盗み見ると、茶髪で、コンタクトで、なんだか違うハヤタ。

 彼はますます大人になって、もっと違うハヤタになっている。


「……芽依は、俺の何が嫌いになったのか、聞いてもいい?」


 一口アイスを齧ったけれど、うまく飲み込めず、口を閉じる。


 きた。

 ついに来てしまった。


 途端に先ほどまでの穏やかな感情は転がるように逃げ去り、心臓が痛いほど締め付けられてお腹が痛くなる。

 夏の気温は徐々に上がっているが、それ以上に冷汗が噴き出て、アイスを口の中からなんとか喉まで飲み込んだ。


 デートの約束をしてからも、正解が何なのか、は毎日考えた。

 結局、私には答えが出なかった。


 本音で語るべきか。

 それとも、優しい嘘で誤魔化すか。


 私は自然消滅を選び、彼も察しはしただろうに会うことを望んだ以上、この一発でケジメはつけた方がいいとだけは、思っていた。

 言葉を悩んでいるうちに、先にアイスを食べ終えた彼が、カップを捨てやすいように潰していた。


「きっと、何かしちゃったのかな、って。ずっと思ってたから。謝りたかった」


 違う、ハヤタ、何かしたのは私だ。

 茶髪になり、彼はコンタクトになり、親しい友人相手に揶揄われても平気なように、堂々としていた。

 春休みに実家に帰り、戻ってきた彼が激しく変わったことを受け入れられずに、私は結局何も言わずに離れた。

 今回偶然にも会わなければ、もはや二度と会うことすらないと思っていた。


 どう言おうかと考えていると、彼がこちらを振り返る。

 苦手だった顔の彼と目が合う。

 黒髪で眼鏡で、でもそれがなんだか似合っていて、地味だけど素敵だと思っていた彼ではない。


 口を開いて、でも閉じて。

 ちょっと見つめ合っていたら、ハヤタが笑った。


「アイス、溶けてきてるよ」


「え? わっ、待って、あー勿体無い」


 風に吹かれたアイスはひどく溶け始めていた。コーンは水気に弱い。慌てて齧り、口を冷たくしながらも一気に頂いた。はしたないかもしれないが、コーンの下からもアイスを吸って、全部ちゃんといただいた。


「はい、ウェットティッシュいる?」


「ごめん、もらう」


 昔から準備のいい男だった。部屋も清潔で、潔癖症ではないけれど、細かく片付けもしていた。

 手を拭き、口を拭き、ハヤタの分もゴミをもらって、指定の場所に捨てに行く。

 動き回るうちに、もはや誤魔化すことも出来ないと、何を言うかは決めた。

 改めて二人でベンチに座る。

 牧場の小高い丘に、風が吹いている。

 観光客はいるにはいるけれど平日だから少ないし、ベンチは広い空間に間隔が開けて置かれているから、離れている。今更誰か来ても遠くになるから、内密にしたい話は聞こえないだろう。


「辛いこと言ってもいい?」


「いいよ。覚悟はしてる。……してなかったら、芽依を誘えなかった」


 ハヤタが私に、久しぶりにあった日に送ったメッセージが頭に浮かぶ。


『芽依はもう終わったつもりでいる?』


 あの文字を打つのにも、彼も少しは、覚悟していたのだろうか。

 息を吸って、吐く。

 ずっと逃げ続けていたけれど。

 本人に謝るなら、もうこれが最後の機会だ。


「新学期に、実家から戻ってきたハヤタが髪を染めて、垢抜けててさ。

 私が知ってるハヤタじゃ無くなったから嫌になった、なんて、自分勝手な理由が距離置いちゃった本当の理由」


 そう口にして、誠心誠意、彼を見る。

 目を丸くして、口を少し開いて、息を呑むような彼に、頭を下げる。


「勝手な理由でごめん。……私が好きだったのは、なんだろう、黒髪で、眼鏡で、ちょっとオタクで、穏やかな、あのハヤタで。茶髪で、コンタクトで、イケメンっぽくて、揶揄われても平気そうなのは、違ってて。あれ、もう思ってたのと違うな、って。言うのもあれだし、って、距離置いて、自然にフェードアウトしようとした」


 どんどん尻すぼみになるが、伝え切った。

 勝手な女だ。そう嫌ってくれればいいし、事実そうしたのは自分でもどうかと思う。

 頭を上げると、ハヤタはちょっと考えて、口を開こうとして、俯いた。


「だから、ごめん。私はもう、終わったつもりでいた」


 ただ、謝る。

 彼がこの四年間、私に宙ぶらりんな気持ちのままでいたのなら、断ち切ってしまわないとと、告げる。


「……そっか。正直に言ってくれて、ありがとう」


 ハヤタはそう口にしたけれど。

 震える唇は溜め込んでいたものを少し漏らしてしまったかのように、嗚咽になり。

 やがて顔を覆って、必死に何かを押しとどめようとしたけれど。

 次第に手首を伝う涙が見えて、大慌てでハンカチを差し出した。


「ま、まった、何も泣かなくても」


 大人の男性を泣かせてしまった。

 いやむしろ、ハヤタが泣いたのを見たことがない。

 割と付き合ってるうちからひどい女だったが、それでもハヤタはやんわりと受け止めて、気にもしていなかった気がする。

 しかし、ハヤタは今日は、泣いている。


 ……そうか。

 その涙を見て、ようやく、もっと事態は重かったのだと気づいた。


 彼にとっては、四年間、まだ恋は終わっていなかった。

 今、初めて、本当に終わっていたのだと、告げられたのだ。


 大学四年になってから、連絡をしても、返事はない。

 仲の良かった彼女が突然疎遠になって、自分は何をしたのかと、ずっと悩んでいただろう。

 会えないまま卒業して、それでも連絡先は消さなかった。きっと、ハヤタは消せなかった。

 だから彼は、私に連絡を取れた。


「長い間、何も言わなくてごめん」


 髪色は違うけれど、泣いているハヤタは前屈みで、猫背だった。

 両手で顔を覆い、必死に嗚咽を耐えているけれど、ちょっと弱くて、出来なくて。早く大きくなれと願われたけれど、中肉中背の、ちょっと痩せ形だった。


「髪が、嫌だった?」


 なんとか振り絞った声に、答える言葉を探したが、結局素直に「うん」と頷く。

 しゃくり上げたハヤタが、なんとか唇を噛んで、息を吐いた。


「芽依が好きな、アイドルの髪型、してって、言ってたから。したつもりでいたけど、違ったなら、言って欲しかった」


「は?」


「クリスマス。実家に帰る前に、会って、遊んで。アイドルの、ライブ見て。俺にも、似合うと思うよ、って。コンタクトもたまにはいいんじゃないって、渡されたパンフレット、覚えてない?」


 …………………………。


「悩んだけど、思い切って、やってみたけど。芽依が好きならいいかって、思って」


 あ。

 言った気がする。

 ライブで興奮して、はしゃいで、ハヤタに抱きついて。


『推しめっちゃ格好いいー。ハヤタもウルフカットしてみたら? たまには眼鏡もやめてコンタクトにして。絶対に格好よくなるし、惚れ直すかも。ああー、こんな彼氏が一度は見てみたいなー』


 全身から血の気が引く。

 そう。

 そして。


 興奮が覚めた私は、クリスマスに言ったことを、四月には忘れたのだ。


 ゴミクズである。


 ハヤタは泣きながら、悔やんでいる。

 悔やむのは、私であるべきなのに。


「芽依も、変えたけど、どう、って聞いたら、いいんじゃないって、言ってたから。そのままに、してたけど。就活で戻しても、その頃には、全く、連絡ないし。俺、何かやったって、思って、怖くて。聞けなくて」


 四年間、ずっと思い詰めて、私との連絡を待っていた男の背中を撫でながら、心底、神様でも仏様でもいいから、罰を望んだ。


 原因は、私。

 完璧に、私。


 泣いているハヤタの背中を撫でた。

 どうしよう。

 途方もなく申し訳ない気持ちで、自然消滅なんてものをさせようとしていた自分を悔やんだ。


「ごめん、ハヤタ。あんまり好きじゃないって、素直に言えなかった」


「言って、欲しかった。芽依は、なんでもはっきり言うから、気に入ってるって、思って」


 いらないプレゼントには「これじゃない方がいい」と言う女だった。

 そんな私が、まさか自分が言い出した格好になったハヤタを苦手に思っていたなんて、夢にも思わなかっただろう。

 思い詰めて、男の子として気を張って、彼女なのか、それとももうただの同級生なのか、わからない女と会った。

 今、理由を聞いてようやく、彼は私の勝手を思い知ったのだ。


「ずっと、芽依のこと、好きで。忘れられなくて。もう四年にもなるし、駄目になってるのはわかってたけど、理由、聞きたくて、謝りたくて」


 背中を丸めて、情けないと分かっていても泣きじゃくるような彼を抱きしめてやれなくて、本当に申し訳なく思った。


 ……告白したお化け屋敷でも「付き合って」という言葉に「学祭に?」なんて自分に交際を申し込むなんて思わずに返してきたハヤタだった。

 私は突然、告白して、OKをもらって、彼の世界に入り込んだ。

 恋愛なんてしたこともないけれど、それでもなんとなく付き合って、なんとなく一緒に遊んで、楽しく過ごして、好きだな、と思った。


 最初はなんとも思っていなくても、ハヤタもきっと同じで、私を大切に思ってくれていた。

 むしろ私以上に、私を好きになってくれた。

 髪型も、コンタクトも、友達に揶揄われても堂々としていたのは、全部私のためだった。


 でも、また突然、私は彼から離れた。

 理由を聞きたくても怖くて聞けず、いつしか連絡は取れぬまま、何も聞けぬまま、月日が流れて。

 傷ついてもいいから謝りたいと思って、ようやく会えた時には、身勝手な理由を聞かされて、終わりを告げられてしまった。


「……髪色、今も茶色だし、眼鏡じゃないのは、どうして?」


「芽依が好きって言ってたから、続けてみようって、思って。

 それにきっと、芽依が最後に見た俺の姿、これだから。大学、たまに後輩に会いに行くし、どこかでお互いに見ても、わかるかな、とも、思って」


 なるほど。

 そうでなければ、あの大人しくて穏やかなハヤタが、茶髪にコンタクトを続けるわけもなさそうだ。


「さっきまで、なんか大人の余裕だしてたけど」


「緊張してた、だけ。四年ぶりに彼女? 元彼女、と、デートなのに。失敗しないように、必死に考えてた」


 微笑ましい。

 なんか違うとか思って申し訳ない。


 ハヤタも話しているうちにだんだん落ち着いてきたらしく、ハンカチで顔を拭っている。


「芽依は、忘れてたんだ」


「本当にごめん」


 怒られても仕方ない案件だ。むしろ怒ってほしい。

 しかし、ハヤタはやっぱり、穏やかに笑った。


「芽依らしい。……言ってもすぐに忘れて、そうだったっけ? って、よく言ってた。俺も、気付けなくてごめん」


 何も謝ることはない。多分一番最初にハヤタが変えた髪色やコンタクトを見て「あ、うん、いいんじゃない」くらいのことを言ったと思う。彼が私が言ったことを忘れているなんて思わずに、ちゃんと喜んでいると思っても仕方ない。


「……はあ。失恋って、こんな感じかあ。連絡待ってる間も辛かったけど、あれ以上に辛いことはないって思ってた。

 でも、思ってたより、辛いね」


 謝るしかない。

 勝手に恋心を捨てた私は、あっさりとしたもので、ますます申し訳なかった。


「教えてくれてありがとう。ごめん、泣いちゃって」


 首を横に振った。

 ハンカチで涙を拭いたけれど、彼のコンタクトの目は真っ赤になっていて、ますます申し訳なくなった。


「……今日は付き合ってくれてありがとう。泣き腫らしたような顔で一緒に行けないから、芽依は見たいところ、見てきて。折角きたんだし、俺はここで待ってるから」


 優しいハヤタは、私にいつも付き合ってくれた。

 趣味が合わなくても勉強してくれたし、ライブにも付き合ってくれた。

 今日も私が牛が好きだったんじゃないかなんて、小さなことまで覚えていたから、牛がメインの牧場を探してくれたのかもしれない。


「一人で行ってもつまらないんで、帰る?」


 遠慮なく言っても、柔らかく笑って、受け止めてくれる。

 今日も、また。


「うん。そうしたいなら、送っていくよ。

 駅がいい? 元彼氏になんて、家まで送られたくないでしょ」


 私に気を遣って、そうやって言うのだ。

 涙目では危ないし、ハヤタが落ち着くまでは私が運転すると伝えて、車に乗り込む。冷たい飲み物を目に当てさせた。座席を合わせて、ミラーを合わせて、シートベルトよし。手慣れた運転を披露した。


「昔から、上手だったね」


「実家ではよく乗ってたから」


 なんて言いながら、結局駅まで運転した。途中から変わると言われたけれど、私も何かやっていないことには、耐えられなかった。

 駐車場に入り、車を停める。

 エンジンを止めて、鍵を返す。

 見上げたが、ハヤタの目の腫れも、少しは引いていた。


「お疲れ様、運転ありがとう。

 ……今日は来てくれて、本当にありがと。吹っ切れそう」


 また逃げなくて良かった、と、その笑顔を見て思った。


「今年は俺が担当だから、またお伺いすると思いますが、今後は普通の同級生で。

 ……明石崎さん、またよろしくお願いします」


 芽依、と呼んでいた彼が、苗字に戻した。

 名前を呼び合うのも、なんとなく彼氏彼女っぽいよね、なんて、呼び合った。

 少しずつ近づく距離の象徴だったけれど、今はもはや、失われた。


「……はい、二条さん。今後ともお世話になります」


「いえいえ、こちらこそ。販売の際は、弊社の製品を特によろしくお願いいたします」


「営業してるなあ」


 今は工具店の店員と、工具メーカーの営業。

 お互いに就職先すら知らなかったし、遠い地で出会うとは思わなかったけれど。

 これでもう、ただ面識があるだけの、同級生に戻るのだ。


「じゃあ、帰るね。……本当にごめんね、ハヤタ」


 首を横に振る彼の車から出て、閉める。

 追いかけるようなこともしないし、優しいハヤタは全部飲み込んで、車の中で俯いているのだけ、振り返ったら見えた。

 震える肩に、また少しだけ申し訳なく思ったけれど、もはやどうにもしてあげられない。


 こうして、私たちの恋は、ちゃんと終わりを迎えたのだ

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