さようならの私
いちはじめ
さようならの私
初の地球ー木星間有人宇宙船が漆黒の宇宙空間を音もなく航行して行く。広大な宇宙と比較すればその移動速度は微々たるもので、ほぼ止まっているといっても過言ではない。
だがその航行は人類にとっては偉大なる一歩を記すものであった。
人類初の人工冬眠による宇宙航行。
片道一年半にも及ぶ航行中の酸素や食料の消費を抑え、肉体的、精神的ストレスを軽減するために、技術が確立されたばかりの人工冬眠システムが導入された。それはまた、宇宙空間での人工冬眠が身体に与える影響を調べる実験的な意味合いも兼ねていた。クルーは様々なパターンで人工冬眠を繰り返し、身体や精神に関するデータの収集・分析が行われていた。
クルーの一人、マリ・ヘルナンデス博士はこの人工冬眠実験の責任者で、自らも短期間の冬眠を繰り返しながらその責務を果たしていた。
そして今、短期冬眠から覚めたクルーの診断を行っていた。
「最初の覚醒だけどどんな感じ? 大丈夫?」
「いやだ、先生。二度目の覚醒ですよ。先生こそ大丈夫ですか」
そう言われて慌ててこのクルーの電子カルテを開くと、確かに二回目だった。
「あら、違う人のカルテを開いていたわ。ごめんなさい」
マリはそう言い訳すると、冷静さを装い一通りの診断を終えた。
診断を終えた後もマリは混乱していた。なぜなら先ほどのクルーに診断を行った記憶が全くなかったからだ。確かにカルテでは、前回の覚醒時にカウンセリングを行っており、カルテには自身のデジタルサインも記されている。なのにその覚えがない。
違和感を持ちながらもこの覚醒時のすべてのタスクを終えたマリは、自身の入眠パラメーターを入力する手を止め、船内活動の記録映像――船内活動は全て録画され、都度地球本部に送信されている――を開いてみた。
そこには今回のクルー相手の診断や船内活動をするマリ自身の姿が確かにあったのだが、やはり何も思い出せなかった。
――おかしい。全く覚えてないなんてことがあるのかしら。
急いで他の記録も開いてみた。すると記憶があるものとないものが存在していることが分かった。さらに調べるとそれは時系列的に交互に存在していた。つまり冬眠の隔回毎に記憶が飛んでいたのだ。
マリの脳裏に一つの恐ろしい仮説が浮かんできた。
――冬眠のたびに人格が入れ替わっている? ……まさか二重人格。人工冬眠の影響でそれが発症したというの?
この事態を本部に報告すべきかどうか、マリは迷った。客観的証拠がないので説明のしようがない。下手をすれば精神障害を疑われる可能性すらある。そうなればせっかく掴んだこのチャンスがふいになるどころか、これまでのキャリアさえ吹っ飛んでしまう。
マリは思案の末、次の冬眠に入ることを決断した。どのみちスケジュール通りに冬眠するしかない。だが次々回の覚醒で今の人格に戻れる保証はない。それは苦渋の選択だった。
マリは覚醒を迎えていた。血管に注入された特殊な薬品が体の各部をゆっくりと活性化させて行き、真っ暗だった意識の中心にほんのりと光がさしてくる。しかし体はまだ意識と切り離されたままだ。マリにとって今回の覚醒までの時間は永遠かと思えるほど長く感じられた。
ようやく意識と体が統合され、冬眠カプセルから這い出ることができた。マリはすぐさま冬眠ログを確認した。
やはり覚醒回数は一つ飛んでいた。そしてその覚醒期間のことは一切記憶に残っていなかった。
――最悪だ、やはり人格の入れ替わりが起きている。
もはや二重人格は否定できない事実となった。人工冬眠が何らかの影響を与えたに違いない。マリは恐怖を覚えた。もし今後も同じことが起きるなら、地球に降り立つのは私だろうか、それとももう一人の私だろうか。冬眠サイクルが計画通りに実行されたならそれは自分ではなかった。
――私の冬眠サイクルを何とかしなければ。
そう考えている最中にもう一つの懸念が浮かんできた。別人格の私はこの事に気付いているのだろうか。もし気付いていれば私と同じ考えに至るはずだ。そうであれば単なるサイクルの調整は無意味になる。お互いが先手を取り合う羽目になり、その決着は最後の最後まで予断を許さない。 別人格の私の性格がどうであれ、知性は同じはず。気付いているとして行動しないと危険だ。慎重に行動しなければ命取りになる。
その後も平静を装い、いらぬ疑念を持たれないように任務をこなしていった。幸いにも他のクルーたちには同じ症状は出ていないかった。自分自身の問題として対処して行けばよいのは幸いだった。
そして宇宙船は木星に到着した。
人類の英知をあざ笑うかの如く、圧倒的な姿を見せつける木星。
マリは、ミッション終了までクルーたちの健康管理に忙殺されながらも何とか生き延びる方策を思案していた。
――最後の冬眠をどう勝ち取るのかが勝負だ。
帰途では途中二度の覚醒が組み込まれている。このままでは最終覚醒での人格は相手に渡ってしまう。何とか一度の覚醒で済ませるか、あるいはもう一回の冬眠を追加しなければならない。しかも相手にさらに追加させない手段が必要となる。
マリは熟慮の末、最終定期覚醒前に冬眠導入剤タンクを汚染させることにした。導入剤は冬眠導入時に血液中に投与する薬剤で、これがなければ人工冬眠に入ることはできない。汚染させるといっても、最後の定期覚醒前に溶け出すように調整したビタミンC入りの難溶性カプセルを投入するだけで、溶け出しても実際は無害である。汚染信号が発信された時点で最後の定期覚醒はキャンセルされる。そして本当の最後の覚醒で私は地球を拝むことになるだろう。
マリは慎重にこの策を実行した。そして安心して自分の冬眠カプセルにもぐりこんだ。入眠シーケンスが進行している最中に本部からのメッセージが届いた。
『諸君に伝達事項がある。マリ博士の報告による導入剤タンク汚染の可能性を勘案した結果、帰路に予定していた二回の定期覚醒は中止する。起きたら地球が見えているだろう』
――そんな報告はしてない。
マリはそう叫びたかった。しかしマリの声帯はその機能を既に停止しており、かすかに息が漏れただけだった。絶望の中マリは、ハッチの内側にメモが貼ってあることに気が付いた。視界が急速に暗転していく中でかろうじて書かれてある文字が読めた。
『さようなら、もう一人の私』
(了)
さようならの私 いちはじめ @sub707inblue
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます