第2話
ようやく
畳に
久須美は
江戸庶民から
腹心たちの離反による失脚や、江戸庶民の怒りを目の当たりにして、さすが
自分だったら、復職なんて
「雪が」
ぽつりと呟いた水野の言葉に、耳ざとく反応した久須美は
突然、水野が体をくの字に曲げて苦しみだしたからだ。
腹を押さえて汗で
「い、医者を。誰か! 誰か―っ!」
久須美の声が遠のく中、水野の意識にあるのは、夜闇の中で降りしきる雪を熱心に眺めていた部下の姿。老中首座である自分を失脚に追いやった、
◆
力士のごとく大柄な
当時の書物は高価であり、手に渡るのは限られた上流の民のみ。雪華図説に感激した彼らは、お抱えの職人に雪華図説を渡して、自らの持ち物に雪華の
着物に茶器に調度品。花のように広がりながらも、緻密かつ雅やかな雰囲気の
手ぬぐい、看板、茶菓子に、判子。土井自身も雪華をあしらった
ついたあだ名が【雪の殿様】であり、【悪魔外道】の水野とは大きな違いだ。
後年には続雪華図説を刊行し、趣味にも職務にも邁進し、実力も人望もある、なにからなにまで水野とは正反対の忌々しい存在。
年齢は水野より五つ上。性格は控えめで春の日差しのように穏やかでありながら、有事の際には現場を指揮する胆力を持ち、水野を失脚させたのちは百姓や旗本たちを救済しようと措置を講じた。
そんな土井の姿が下々におもねるように思えて歯がゆく、自分を失脚させてやったことが、どうしてこのような商人のごとく卑しいものなのかと、怒りで気が狂いそうになる。
土井も水野も本家の跡取りとして切望されなければ、本来はその座に就くことがなかった日陰者のはずだった。
しかし土井家は幕臣家系であり、家臣に領地を任せて幕府の指示に従って奉職することが決定しており、実力があれば老中に就任できるという恵まれた境遇。
対する水野家が治める唐津藩は、裕福な部類でありながら、その実態は外国船対策として
幕府から仕事が割り振られるものの、自身が幕府の重臣として活躍するには唐津藩自体が邪魔だった。水野が出世の為に取った手段が、出世城として名高い浜松城のある浜松藩への
現在で言うなら長崎から静岡への大規模な引っ越しだ。家臣限定の引っ越しとはいえ、石高が高いほど召し抱えている人数が多く、この時点で唐津藩は二十五万石、浜松は十万石と、家臣たちの生活が一気に困窮することは分かりきっていた。
暴走する主人をいさめようと陳死する家臣もいたが、水野の強硬な国替えは、強い忠誠心の証明だと幕臣たちに評価されてしまい、多くの犠牲と怨嗟と軋轢を解消しないまま、水野忠邦は重臣の道を切り拓いてしまった。
…………。
なぜそこまで、権力に固執しているのかは、水野自身も分かっていない。側室の子の出生ゆえか、己の気質か、幼い頃に家督を継ぐことが確定し、母から引き離されて、生まれ育った江戸の地を去ることになったことが起因しているのか。どれも当てはまっているように見えて、どれも違うと水野は分析する。
◆
悔しいが土井の実力は本物だった。水野を失脚させて、代わりに老中首座に座った土井は、弱者救済だけではなく、万年赤字の幕府を束の間でも黒字へ好転させたのだ。それは水野には成し遂げられなかった偉業だ。
しかし運がなかった。在任中に起きた江戸城本丸の火災で、将軍の家慶から再建のための資金調達を任されたのだが、資金を集めることが出来なかったことが将軍の不興を買い、諸外国の問題においては、老中と
向き不向きなんて関係ない。いくら実力が伴っていても、周囲の求める期待に応えなければ、その場から引きずり降ろされる。
それは水野だけではなく土井も同様だったのだ。
――どうすれば、こやつの心に
久々に江戸城へと登城を果たした際、幕臣たちはわざと質素な装いで出迎えてくることを水野は予期していた。
復職を承諾して、水野が起こした最初の行動は裁縫職人の手配。
自身が来る黒羽二重の着物を
そのきらびやかな
水野の行動は、下々のみならず将軍や大奥にも贅沢を禁じた人物とは思えない、理解不能の
この男は、自分のしていることが理解していないのだ。
――ククク……。良い反応だ。
愕然とする幕臣たちを見て気分を良くした水野は、このまま土井のいる御用部屋へと向かい、これから起こるであろう逆転劇を想像して、心を静かに躍らせる。この時代を救おうと改革を断行した自分を裏切り、武士の誇りを捨てて町民におもねる卑しい男を征伐し、この手に真の秩序と調和を手に入れるのだと。
だが。
『あぁ……』
辞任を告げた瞬間、土井の顔に感情が蘇り、雪解け水のようにじわじわと広がっていく様を見て、ある種の衝撃を覚えた。
――なぜ、悔しくないのか。活躍の場を奪われたのにもかかわらず、この男は、なぜこんな、晴れやかな顔ができるのか。
権力闘争を繰り広げてきた水野にとって、役職を取り上げられることは死に等しいのに、土井は逆に目を
土井は力士のように立派な
最後に会った時は、土井の体全体が
まるで
水野の行った
報告をしてきた時の密偵たちの顔には、取り繕いつつも主人を批難する眼差しが確かにあった。
なぜ、そこまで町民たちを追い詰めるのか。と。
水野は心の中で、こう返す。
――そこまでする必要があるからだ。と。
『どうか』
熱に浮かされて空回る意識が、庶民の雪達磨と土井の姿を重ねて、横たわる水野に音もなく迫ってくる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます