海に沈むジグラート35

七海ポルカ

第1話



 アデライードは朝の紅茶を淹れ、いつものように花を添えた。


 ラファエル・イーシャはまだ寝室にいた。

 彼は非常に貴族的な青年なので、フランス艦隊総司令という肩書を持っていても、以前のフランスでの暮らしと、雰囲気は何も変わらなかった。

 フランス艦隊は各部隊を率いる海将が、きちんとフランス軍の駐屯地と、港に常駐し、日々を指揮している。

 総司令といってもラファエルが日常において、艦隊において何か指揮を執らねばならないことはほとんどない。

 定期的に開かれる海軍総会議に出るくらいで、ラファエルの主な仕事は、ヴェネト王宮に上がって王宮の方々と親交を結ぶか、ヴェネトの有力貴族の邸宅に招かれて親交を結ぶか、要するに外交方面の働きが期待される。

 アデライードはラファエルの身の回りの世話をしているが、仕事に関しては口を出さないようにしている。自分は修道院育ちで、フランスの宮廷のことも知らない。ラファエルはいつも優雅に難なく、日々を過ごしているが、それすらアデライードには考え及ばないような世界のことなのだ。

 ラファエルは、ヴェネトに来る前は自分のフォンテーヌブロー領に、アデライードが過ごしやすい屋敷を与えてくれて、そこで暮らしていた。

 ヴェネトへの派遣が決まった後に、自分はこれからヴェネトに行くので、いつ帰るかも分からないし、無事に帰って来るかも分からないので、その前に後見人のいないアデライードが、万が一自分に何かあっても困らないようにするつもりだ、とわざわざ言いに来てくれたのだ。

 例によって、城に行くのも、修道院に戻るのも、ここで過ごすのも君の自由だと言われて、アデライードは私もヴェネトに行けないでしょうか? とまず聞いた。

 ラファエルは多忙だったが、ここにいればよくアデライードの館を訪ねてくれて、片方だけだが血の繋がった兄妹同士で、とても気兼ねなく楽しかった。彼には兄弟も多かったのに、何故かアデライードのような異母妹をとても可愛がってくれて、彼がいなくなるならば、ここでの優雅な生活も彼女にとっては無意味だと感じられたからだ。

 ラファエルはさすがに何が起こるか分からないから連れてはいけない、と言った。

 でも、もしヴェネトで安全に暮らすことが出来そうだと思えたら、呼んであげるから遊びに来るといいと言って旅立った。

 彼が去った後、ラファエルと懇意にしている貴婦人が訪れて、これを預かりました、とアデライードに手紙を渡してくれた。もし自分に何かあった時は、開封して、彼女と一緒にフランス王に会いに行って欲しいというものだった。

 フォンテーヌブローの幾つかの城の所有権をラファエルがアデライードに譲る、という書類と、ラファエルがいなくなった後は、アデライードは彼女を後見人として社交界に関わられるようにするということ、それから、彼女には個人的に、アデライードが選びたい人生を選べるように、尊重してやって欲しいと頼まれたと打ち明けられた。


「ラファエルの子供が欲しいと、思ったこともあったわ」


 公爵夫人は優しく笑った。

「母親が違くとも、貴方のことはとても気にかけていましたよ。オルレアン公に貴方の素性を話すことも考えたそうですけど、自分がいるならともかく、いなくなったあとに、貴方があの一族の中に入って行って、本当に安らいで生きて行けるのか、心配だと言っていました。何度か相談を受けたけれど、ある日、貴方さえ良ければ妹の後見人になってくれないかと頼んで来たの。嬉しかった」

 多分、ラファエルより彼女は十歳以上年上のはずだが、深い信頼関係で結ばれていることが分かる、そういう笑みを、彼女はアデライードに向けてくれた。愛する人の、気にかけた妹だから、自分に優しくしてくれるのだ、とアデライードはちゃんと理解した。

 ラファエルはやがて、ヴェネト王国から手紙をくれた。

 ヴェネト王妃と謁見が叶い、大変友好的に接して下さり、大きな邸宅もいただいたため、見に来るといい、貴方に二、三頼みたいこともあるから、という内容だった。

 アデライードは公爵夫人に手紙を持って、会いに行った。

 手紙を見せて、すぐにでもヴェネトに行って参ります、と嬉しそうにアデライードが言うと、公爵夫人は読みながら「まあ憎らしいひと。妹のことばかりで私には会いたいの一言もない」と笑いながら、妬きましたよ、と優しくアデライードの頬をつねって来た。

 ヴェネトに来てから、公爵夫人はよく館を訪れて、川遊びや観劇、夜会などにも一緒に連れて行って可愛がってくださいました、とラファエルに伝えた。

「そういう風にしてくださる方だから、貴方を頼んだんだよ」、と。

 ラファエルは優しい表情で頷きながら話を聞いて、何度か公爵夫人に手紙を書いているのも見た。ヴェネトの美しい宝石や、レースの品などを自分で選び、贈っているのも知っている。

 ラファエルはそういった女性が決して一人二人ではないけれど、ヴェネトに来てからは公爵夫人と、フランス王妃の二人にしか、そういうものを贈っているのは見たことがない。


 ジィナイース・テラのことは、ヴェネトについてから聞いた。


 大切な人がこの地にいるので、見つけてフランスに連れ帰るつもりだ、その間の世話を、貴方にお願いしたいと言われた時、アデライードは嬉しかった。ラファエルの役に立てるなら、どんなことでもしたいと思っていたから。


 小さく扉を叩いて、そっと扉を開く。寝ていることがあっても、朝の紅茶を淹れれば、部屋に置くようにしている。そうすることも、アデライードは許されていた。ただ、その日はラファエルはすでに起きていた。しかし城に行く支度はしておらず、着替え途中のような怠惰な格好のまま、窓辺に優雅に腰掛けて、そこから見える海の景色を眺めていた。これはとても珍しいことだった。

「おはようございます、ラファエル様」

「ああ……、今日もいい香りだね。ありがとう」

 少し眠たげな雰囲気だったが、アデライードがいつものように紅茶を淹れて現われると、彼はやはり、優しい表情で笑ってくれた。

 ラファエルとは母親が違う。

 きっと、人によっては、アデライードのような存在は邪魔なはずなのに、ラファエルは出会った時から一度もそんな空気を出したことがない。今まで兄らしいことを何一つしてやれなかったからと、いつも、血の欠落などない、本当の妹のように接してくれた。

「今日は、お城へは?」

 ラファエルは紅茶に手を伸ばし、香りを嗅いでから、口に含む。

「久しぶりにヴェネツィアの街に買い物にでも行こうか、アデライード。これから本格的に寒くなる。冬用のドレスや手袋を用意しないとね」

 ラファエルと買い物に行くのは楽しいから大好きだ。

「よろしいのですか?」

「うん?」

「ラファエル様……昨日お城から戻られてから、少し沈んでおられますわ」

 ラファエルは目を瞬かせてから、微笑む。

 いつも兄を気遣ってくれる、妹の緩く波打つ亜麻色の髪を優しく撫でた。

「だから君と出かけたいんだよ」

 心配していたアデライードは「まあ」と表情を輝かせて頷いた。



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