第2話 最後に醜き本性を貪らせよ

ぐっと愉悦を体の奥に押し込み、彼女は笑みを扇で隠してブラッドと視線を合わせる。



「侮辱と仰いましても、人にはそう見られているというお話でございます」


「彼女とはっ、何もない。そのような噂も、事実無根だ!」


「では、どのようにしてアンドリュー男爵令嬢をお知りになったのです?」


「む…………」



 旗色悪しと見たのか、ブラッドの表情が無くなる。

 いつもの顔になられて、メディリアは少々落胆し、再び煽りたてることにした。



「なるほど。ではやはり、下賤な噂を知って自らも彼女を求めに行ったと」


「何もないと言っている!」


「先の通り、挨拶と立ち話程度の関係だと? それだけのお相手に心を砕いて、わたくしが彼女をいじめていた証拠を集めさせたと?

 ご無理がありませんこと?」



 怒り心頭の王子に向かって、メディリアは話を巻き込んで戻した。

 ブラッドの頬に血の通った赤が宿るのを見て、彼女は密かに身もだえる。



「己の婚約者が非道に身を落とすなら、この俺が正すのが筋だ」


「見知らぬ令嬢を、わたくしが貶めたと糾弾することが、何を正すというのです?」


「知らぬだと? まだ惚けるのか」


「ええ。お会いしたことがありませんもの。

 わたくしがどなたに会って、交流があるのか。それは殿下にもお知らせしておりますし、ご精査いただいても構いませんことよ?」


「ならば手の者を使って、彼女を――――」



 メディリアは扇の下で、たまらず口元を歪めた。

 容易くかかった獲物を食いつくさんと、口を開く。



「殿下。このわたくしが、あなたたちが得た〝証拠〟とやら。まだ把握してないとお思いなのですか?」



 ブラッドの顔から、今度は血の気が引いた。

 メディリアは背筋を何度も震えが駆け上るのを、止められなかった。



「会ったことのないはずのわたくしが、ご令嬢を害した証拠、証言。作らせるものを、間違えましたね? ブラッド殿下。クロア殿?」



 がたん、と大きな音が静かな中庭に響き渡る。

 メディリアが扇の陰から視線を上げれば、怒りに震えた様子の婚約者と、彼から目を逸らす青い顔の側近が目に映った。

 彼女は法悦に濡れた目を僅かに伏せ、彼らから見えないように注意深く隠す。



「追って、そのくだらない〝証拠〟とやらについて。沙汰があるでしょう」


「沙汰……だと?」


「ここまでのことをされては、婚約の是非にまでことが及びます。なので、真っ先に相談すべき方々にお知らせいたしました」



 国王や王妃、メディリアの実家にも知らされたのだと気づき、今度は王子の顔が青くなる。

 メディリアは歓喜に打ち震え、うきうきとした。

 しかし。



「婚約、を。破棄、するのか? メディリア」



 その青い顔から零れた言葉を聞いて、彼女は体のどこかがすっと冷めたような気がした。



「あら? 殿下。それをお望みではなかったのですか? わたくしを断罪し、妃に相応しくないと仰るつもりで準備されていたのでは?」


「それ、は」


「そしてアンドリュー男爵令嬢を、妃に迎えられるのでしょう? わたくしと婚約を破談にすれば、その障害は少なくなりますもの。

 我が公爵家が殿下の後ろ盾から降り、怒った父が睨みを利かせますから。殿下には他に妃候補がいなくなりますので」


「君は、それで、いいのか。婚約を、破談に、して。俺を、愛して、いるのでは」


「愛情はありますが、関係を継続できるかはまた別でございましょう。子どもの遊びではございませんのよ?」


「いいのか! 嫉妬など、しないのか!?」



 重ねて不思議なことを聞かれて、メディリアは思わず扇を閉じた。ぽかんと口を僅かに開き、急激に血が冷えていくのを感じる。

 彼女とて、嫉妬はする。むしろ嫉妬深い方である。だが現在の状況は、嫉妬が向くそれではない。


 メディリアは男爵令嬢アネモネに、王子からアプローチしたと踏まえている。彼女は、何も知らずに浮気に巻き込まれた令嬢になど、嫉妬する女ではなかった。むしろ今更ブラッドがメディリアを気にする様子を見せるたびに、彼への気持ちがどんどん冷えていく。



「ブラッド殿下。わたくしがどこぞの身分の低い者にでも恋し、あなた様を貶めて婚約を破棄しようとしたらどう思われます?」



 メディリアは1つ道理を説いてみたものの、王子の反応は薄かった。

 ブラッドの瞳が冷たくなり、顔がいつもの透明な表情に戻っている。



「ご興味がない、といったところでしょうか」


「そうでは、ない……ない、が。君がそんなことを、するなど。想像が」


(なるほど。この方……頭は回るけど、想像力は皆無だったのですね)



 メディリアは、己の中から冷たさが湧き上がるのを自覚した。

 彼女は無作法を承知で、何か〝想像〟がついた様子の、顔色のおかしな側近のクロアに扇を向ける。



「クロア殿。宰相閣下の息子ともあろうお方が、何を呆けておられるのです。少しは殿下に、諫言なさらなくていいのですか?」


「っ。ブラッド、メディリア嬢は、もう、お前の、ことなど。妃になる、つもりは」



 令息が声を絞り出して告げると、ようやく王子はハッとなった。



「わたくしからは何とも申しませんが。

 その気があるならわたくしが最初に申し上げるべきだったのは、彼女へのいじめの是非などではありませんでした。彼女を側室にするか、妾にするのかという問いかけです」


「お、俺は。君を側室に迎えるという話をしたかったのだ」



 メディリアは、案の定かとため息が出そうになった。

 結局。王子たちは、男爵令嬢を正室に迎えるために、こんな茶番に打って出たのである。メディリアが令嬢をいじめていたと偽の証拠で糾弾し、彼女を貶め、側室に押し込む狙いだったのだ。



「わたくしを側室に、男爵の娘を正室にということですか。ではやはり破談ですね。公爵家は、男爵家の下につくことなど許しません。

 男爵令嬢を正室に置き、側室に甘んじてくれる奇特な方など、おりませんよ?」



 顔色悪く、立ったまま黙り込む二人を見て。メディリアはさらなる悪戯を思いついた。



「ああ、でもそう。クロア殿なら、お心当たりがおありでは?」


「なぜクロアが……」


「クロア殿とご婚約されてる辺境伯令嬢。お年上ですが、まだ結婚が進まないと周囲に漏らしておいでです。こんな与太話でも、受けてくださるかもしれませんよ?

 その気がないのであれば、忠誠を誓う殿下にお譲りしてはいかがでしょう?」



 王子が救いを求めるような目で隣を見て、憤怒で赤くなりそうな瞳で睨み返されている。

 メディリアは彼らが結婚できぬ事情を、わかった上で言っている。ブラッド王子の立太子や結婚が進んでいないから、側近のクロアは身動きがとれないのだ。



「代わりというわけではございませんが。クロア殿のリーブス侯爵家は、セラフィナ第一王女殿下の降嫁を願っては? あの方もお相手がおらず……結婚を断り続けているのは、待ち人がいるからとも噂されておりますね?

 王女殿下と懇意と聞く、クロア殿?」


「き、貴様! 姉上とどういう!」


「違う、私は断じてそのような!?」



 今度は王子が赤くなり、側近が弁明しながら青くなっていく。王子が姉と仲がいいのを、メディリアはよく知っていた。

 なおセラフィナ王女が結婚しない本当の理由は、弟のブラッドが片付かないからである。彼女には他国に想い人がいることも、メディリアは承知していた。


 メディリアはしばし、にらみ合う二人の様子を愉快そうに眺めていたが。



(本性の底が浅い……飽きましたね)



 扇を一度開き、ぱちんと閉じた。

 数人の給仕が寄ってきて、王子たちの後ろに控える。



「お二人の間で、どうにもお話し合いが必要なようですね。

 ブラッド王子殿下と、クロア殿はお帰りです。ご案内を」


「め、メディリア! 違う、違うのだ!

 君が不満なら、君を正室に迎える! 俺は君を――――」



 口走る王子に嫌な予感がし、メディリアは扇の先端と冷たい視線を彼に向けた。



「今更それを人前で言ったら、逃げ場がなくなりますよ? 殿下」



 人前、と聞いて。慌ててブラッドとクロアが周囲を見渡す。

 ここにいる客は、メディリアと懇意の「弁えた者たち」。だが彼女は、客たちが見聞きしたことを外で話さないとは、保証していないのだ。



「ここで言を翻せば、殿下はさらに信用を損なわれる。

 それでも、言われるのですか? ブラッド殿下」



 メディリアの言葉は、ある種の挑発でもあった。できるものならやってみせろ、という。



「俺、は……」



 果たしてブラッドは何事かを口ごもり、幾度か口を開きかけたものの。肩を落として、メディリアに背を向けた。

 結局〝冷血王子〟の血は、メディリアに対しては一度も滾らなかったのだ。


 そして。



(愛しておりました…………さようなら。ブラッド殿下)



 メディリアが彼をまだマシな道へ押し戻したのは、彼女に残された最後の愛情ゆえだった。

 彼らはしばらくためらっていたが。メディリアが立って深く礼をとると、給仕に先導されて店の外へ歩いて行った。


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