17の夏

夏坂ナナシ

第1話

「17の夏」


2016年12月15日、俺は死んだ。いや、死なされた。

その日は特別なことがいくつも重なっていた。

グラウンドの水はけが悪くなり、野球部、サッカー部、陸上部が連名で整備をお願いしていたのが、ようやく叶った日だった。

しかし、業者の作業が遅れ、室内練習場も、バスケ部やバレー部で埋まっていた。  その結果、監督は「今日は久しぶりに休みにしよう」と言い出した。

正直、練習ができないのは残念だったが、少しだけホッとしたのも事実。千沙と会う絶好の機会ができたからだ。

吹奏楽部のアンサンブルコンテストが終わったばかりで、千沙も部活が休みになっていた。だから「お疲れ様会」という形で、千沙が行きたがっていた甲府市の湯村の方にある小さなカフェに誘った。

放課後、すぐにでも向かいたかったが、掃除当番が長引き、急遽現地集合にすることになった。雑巾を絞る手を急がせ、終わった途端に自転車に飛び乗った。ペダルを漕ぐ足は無意識に力を込めていた。

学校を抜け、夕陽に染まる新荒川橋を渡る頃、胸がふと高鳴るのを感じた。この時間に橋を渡るのは滅多にない。夕焼けが橋全体をオレンジ色に染め、下校中の中学生たちの影が長く伸びていた。その風景はどこか特別で、温かく、そして少しだけ切なかった。

「今日はいい日だな」

そう思えた。

だが、その穏やかな時間は唐突に壊れた。

遠くから聞こえてきたのは、サイレンの音だった。振り返ると、黒い車が猛スピードでこちらに向かってくる。その背後にはパトカーが一台、赤色灯を点滅させながら追いすがっていた。拡声器の声が橋全体に響く。

「……ヤバい」

その言葉が頭をよぎった瞬間、暴走車は制御を失い、歩道へと向かって突っ込んできた。

そして、目の前に飛び込んできたのは、一人の中学生だった。恐怖で固まったのだろう、立ち尽くして動けない。その姿を見たとき、考えるより先に身体が動いていた。

自転車を放り出し、全力で走る。勢いよくその子を押しのけた瞬間、彼が驚いた顔で振り返るのが見えた。その目には、まだ「未来」があった。

その直後、背後から猛烈な衝撃が襲った。

視界が揺れ、身体が宙を舞う。夕焼けに染まった空が、世界が、ひっくり返る。耳鳴りが消え、静寂が訪れる中、硬い水面に叩きつけられる感覚だけが最後に残った。

次に気がついたとき、視界に広がったのは、冷たい蛍光灯に照らされた無機質な病院の天井だった。耳に届く機械音と、必死に動き回る救命スタッフたちの声。

「ああ、俺……事故に遭ったんだ」

そう思い出した瞬間、全身を焼き尽くすような激痛が押し寄せた。

「熱い、熱い、熱い……!」

声にならない呻きが喉から漏れる。体中の血が沸騰するようで、目の前の景色が歪む。必死で痛みを耐える中、どこか遠くから聞こえてきたのは、信二の叫び声だった。

「お前、死ぬなよ! 甲子園は!? おい、大気!」

親友であり、中学からバッテリーを組んできた盟友の声。それを聞いた瞬間、何かが胸を締め付けた。脳に突き刺さる彼の言葉が、心の奥底に眠っていた衝動を揺り起こす。

「生きたい……まだ死にたくない……!」

全身の痛みが意識を引き裂こうとする中、必死に声を絞り出そうとした。

「ち……千沙……のこと……だの……む……」

声にならない囁きが、信二に届いたのだろうか。彼の泣きそうな顔が驚きに変わるのが、かすかに見えた。

「あれ……なんで……こんなことを……?」

自分でも理解できない言葉を残したまま、意識が急激に遠のいていく。痛みも、恐怖も、すべてが暗闇に吸い込まれていく感覚。

それでも、消えゆく意識の中で最後に浮かんだのは、千沙の笑顔だった。

「終わりたくない……俺はまだ……こんなことで……」

その言葉すら声にならないまま、世界は静寂に包まれた。





「それでは、夕方のニュースをお伝えします。まずは速報です。本日午後4時37分ごろ、甲府市飯田の新荒川橋で、暴走車が歩道に乗り上げ、男子高校生の輿水大気さん(16)がはねられる事故が発生しました。輿水さんは病院に搬送されましたが、数時間後に死亡が確認されました。

警察は、イオンモール甲府昭和店付近で信号無視を繰り返す乗用車を発見し、停止を求めましたが、運転手はそのまま逃走。途中、アルプス通りを北上し続け、新荒川橋で車両のコントロールを失い、歩道に乗り上げた後、車は河川に転落しました。

警察によりますと、運転手は20代の男性で、事故後に奇跡的に一命を取り留めましたが、検査の結果、基準値を超えるアルコールが検出されました。さらに、運転手は「人を殺したくなった」と供述しており、その背景には今年7月に発生した相模原障害者施設殺傷事件の影響があったと話しているということです。警察は、危険運転致死傷罪を含めた容疑で捜査を進めています。

暴走車にひかれた輿水さんは、第二甲府高校野球部のエースで、今年の夏の大会で学校初の決勝進出を果たした、プロ注目の選手でした。事故当日は急遽部活動が休みとなり、帰宅途中だったということで、会見を開いた監督の高橋先生は、『自分の判断が彼の運命を変えてしまったのかもしれない』と深い後悔の念を語っています。

警察は、今後も飲酒運転や暴走行為の取り締まりを強化する方針です」





3年生の教室は、どこか落ち着かない場所だ。窓からは大好きなグラウンドと富士山が見えないし、雰囲気も微妙に張り詰めている。去年、同じトランペットパートだった井上先輩に、受験応援でお菓子を届けたときなんて、「これ本当に同じ学校?」と疑いたくなるほど重苦しかった。

でも、今はまだ5月。皆が最後の学園祭に向けて盛り上がっていて、教室の空気も少し明るい。そんなところが、少し救いだった。

橘千沙は今日も退屈そうに古典の授業を受けている。隣では野球部の三浦信二が黙々とノートを取っていた。彼の真面目な横顔を見て、「さすが信二、やっぱり几帳面だな」と内心で感心する。

「……じゃあ、今日はここまでにしましょう」

「起立! 礼! ありがとうございました!」

授業が終わると、教室は一気に緩んだムードに包まれる。そこに早速、陽気な声が飛んできた。

「あー千沙ー! もう全然わかんない! この授業マジ難しいって!」

山見瑠璃が席をズリズリと近づけてきた。

「えー、どこが? 分からなかったら、ちゃんと質問すればいいのに」

「そりゃ千沙先生みたいな天才にはわかりませんけど、私の明るさは世界一ですよ?」

瑠璃の、こういう訳のわからない返しにはつい笑ってしまう。そして、そんな彼女が嫌いになれない。むしろ好きだ。

「ほら、山見。あんまり絡むなよ。千沙が困っているだろ」

信二が横から軽く注意する。

「ふーん、夫婦そろって隣の席で調子乗っちゃって。幸せそうでいいわねー! 爆発しろ!」

「まあまあ、落ち着けよ」

いつものやりとりだ。3年間ずっと同じクラスで過ごしてきたから、こんな日常が自然とできあがった。でも、そんな何気ない毎日が、千沙にとって本当に楽しい時間でもある。

「千沙は瑠璃に甘すぎる」

「三浦はキャプテン面しすぎ。ほんとバカね」

「はいはい、どうもありがとうございます」

「ぐぬぬ……何で千沙が信二みたいな奴と……!」

瑠璃の悔しそうな顔がまた面白い。本当に、数か月前まではこんなやりとりを自分がしているなんて想像もつかなかった。でも今、この空間が何よりも心地よく感じている。





あの日、私は湯村のカフェで待ち続けていた。

大気から誘われたことが嬉しくてたまらなかった。普段自分から積極的に動くタイプではない大気が、私が行きたがっていたカフェを提案してきたのも驚き。あの大気が、そんな風に気を遣ってくれるなんて……。胸が少し弾むのを感じながら、店内の席に座り、彼を待った。

待ち合わせの時間を少し過ぎても彼は来なかった。「まあ、30分くらいなら」と自分に言い聞かせていたけれど、1時間経っても姿は見えず、ラインや電話も応答なし。苛立ちが募る中、隣の席に座る女子高生たちの話が耳に飛び込んできた。

「ねえ、第二高校の近くで大きな事故があったんだって」

その言葉に背筋が凍りついた。

「まさか」と思いつつ、慌ててツイッターを開く。けれど、情報は断片的で詳細が分からない。部活やクラスのグループラインにも何の知らせもなかった。それでも胸のざわめきが止まらない。そんな時、信二から電話がかかってきた。

「早く来い、大気がやばい」

その一言で、全身の血の気が引いた。次の瞬間には、店の外へ、走り出していた。向かう先は県の中央病院。けれど、私が到着した時にはすでにすべてが終わっていた。

治療室の中で、大気は全身血まみれで横たわっていた。顔にはシートがかかっていたが、残された輪郭や服装から、それが大気だとわかった。一目で、それが「彼」ではなく、冷たく動かない物体になってしまったのだと理解した。

横に立つ信二は何とも言えない表情をしていた。瞳が潤んでいたけれど、声も涙も出ていなかった。

足元から力が抜け、私はその場に崩れ落ちた。治療室の入口の床は、骨の芯まで染み渡るほど冷たかった。

「大丈夫か?」

ようやく耳に届いたのは、野球部顧問の高橋先生の声だった。彼がいつからその場にいたのかもわからない。その声はどこか遠くで響いているように感じられ、私の心には届かなかった。

頭の中は真っ白だった。ただ、大気がいないという現実が、氷のように冷たい感触とともに、静かに胸を締め付けるだけだった。

その後の記憶はほとんど残っていない。葬式があり、大気はさらに骨になった。クラスメイトたちは「彼女だった私」にどう声をかけていいのかわからないようで、視線を向けてはすぐにそらしていた。でも、そんなことはどうでもよかった。ただ、どうしてもあの無機質な物体が大気だとは信じられない。どこかで生きているんじゃないか、そんな期待が心の奥にしつこく残っていた。

葬式から帰宅した日の夜だけは、鮮明に覚えている。祖母が居間でテレビを見ていた。夕飯前だったが、食欲はなく、ただぼんやりと隣に座り、一緒にテレビを見始めた。事故の日以来、テレビを見るのは初めて。画面に映る映像を冷めた目で眺めていると、あのニュースが流れた。

「続いては、甲府市で起きた暴走車による事故についてです」

祖母が気まずそうにリモコンを取ろうとした。けれど、私は無意識にその手を制し、ニュースを見続けた。事故現場や状況が映し出され、次に犯人が警察署に入る映像が流れる。その瞬間、私の呼吸が止まった。犯人が笑って、ピースをしていた。

なぜ笑っているのか。どうして、大気を奪ったその人間が、こんなふざけた態度を取れるのか。そんな思いが頭を駆け巡り、私は目をそらし、立ち上がった。そのまま自分の部屋へ駆け込み、扉を閉め、その時、初めて泣いた。

それまで私は冷静であろうとしていた。むしろ、冷静でいることが唯一の拠り所だった。でも、その瞬間、すべてが崩れた。

自分の中から「私がカフェに行こうなんて言わなければ……」という後悔の念が湧き上がり、それが胸を押しつぶしていく。

「私が……、いや、やっぱ……、私が大気を殺した……」

それからは学校にも行けず、食事も忘れ、部活のことすら頭から抜けていった。ただ、時が過ぎるのを感じるだけの毎日が続いた。





「おい、入るぞ」

数週間、部屋に籠って誰とも連絡を取らなくなっていた。瑠璃や部員からも連絡が来たが、私は何も返事ができなかった。そんな時、唐突にノックと男の子の声が聞こえた。

驚いた。まさか信二がここまで来るなんて。いや、来るはずがない。信二の家は、かなり遠い。幻聴だ。そして無視しようとした瞬間、ドアが開いた。

そこに立っていたのは、本当に信二だった。

「……。大丈夫かとは言わない。けど学校に行こう」

私は驚き、ただただ何も言い返せず、唖然とした表情をしていただろう。それを見て、信二はもう一度、淡々と繰り返した。

「学校へ行こう」

その言葉にカチンときた。

「……放っておいて……。帰ってよ」

「それはできない」

「じゃあ何なの? 早く帰ってよ!」

「いや、来いよ。いつまでこうしているんだ」

信二の真っ直ぐな声に、心が少しだけ揺れる。でも、それだけだった。結局私は、感情の赴くままに叫んだ。

「無理なの! 私なんか学校行ったって意味ないでしょ!」

「そんなの、誰が決めたんだよ」

「私のせいで大気が死んだんだから! 私なんか、生きていちゃいけないんだよ!」

その言葉に、信二が一瞬固まった。けれどすぐに、真剣な目でこちらを見つめてきた。

「だから何だよ。それで? そうすることで、大気が喜ぶと思うのか?」

「……!」

返す言葉がない。

「千沙さ、何も分かってないよ。辛いのは分かる。けど、今回の責任はお前じゃない。あの犯人だろ。なのにお前まで、自分を殺してどうするんだよ!」

私はもう耐えられなかった。

「うるさい! もう! もう何も言わないで!」

咄嗟に近くにあったぬいぐるみを掴んで、信二に向かって投げつけた。ぬいぐるみは信二の顔に当たり、そのまま床に転がった。

静寂が訪れた。信二が何かを言いかけた気配がしたけれど、何も続かない。その沈黙が、かえって苦しかった。

「帰って……お願いだから帰ってよ……」

目を逸らして絞り出した私の声に、信二が小さく息を吐いた。そして、そのまま椅子に腰掛ける音がした。

「俺も、あいつがいなくなったの、辛いよ」

信二のその一言が、まるで水滴が氷を砕くように心に響いた。振り返ると、信二の目には涙が滲んでいた。

「俺さ、中学からずっと大気と一緒に野球してきたんだぜ。あいつの球を受けていると、なんかどこまでだって行ける気がしていた。でも、あいつがいなくなって……もう、どうすればいいか分からないんだよ」

信二が俯いたまま、ぽつりぽつりと話す。それは、普段の彼とはかけ離れた弱々しい姿だった。

「でも……俺、キャプテンだし。まとめなきゃいけないから無理やり前向いていたけどさ。本当は全然駄目なんだ。もう辛くて……泣きそうでさ」

その言葉を聞いて、胸の奥が締め付けられるようだった。彼もまた、自分と同じように苦しんでいた。

「でも、もう時間がないんだ。俺たち、あと数ヶ月で最後の大会だぞ。だから、生きるしかないんだよ。辛くても、生きていくしかないだろ」

「……生きるしかない」

その言葉が、私の中に重くのしかかる。でも同時に、心の奥で何かが崩れ落ちた気がした。

信二がこちらを見て、小さく笑った。

「千沙がいないと困るんだよ。寂しいよ。だから、学校に来い」

その言葉に、何かが溢れ出しそうになった。自分でも気づかないうちに、私は立ち上がっていた。震える手で泣き続ける信二の頭をそっと撫でる。

「……ごめん」

信二は驚いたように私の顔を見て、少しだけ笑った。

「泣くなよ」

その言葉を聞いて、私は少しだけ前に進む勇気を得た気がした。



その後、信二や瑠璃のサポートを受けて、徐々に復調していった。先生や部活動の仲間たちの支えもあり、3月にはいつものレベルまで回復できた。大気のことも少しずつ整理でき、部活動や勉強に集中することができ、最後の定期演奏会は大成功だった。そして、その日、信二に告白され、私たちはカップルになった。

「おーい、聞いている?」

信二の声で、ふと我に返る。

「どうしたの?」

「いや、なんでもないよ! ただ、そろそろ夏のコンクールに向けて頑張らないとって思っただけ!」

「嘘っぽい」

隣で瑠璃が辛辣な一言を投げかける。

「本当だってば!! それより、野球部もあと少しじゃん。調子どう?」

「去年は上出来すぎたからな。今年はチーム一丸となって頑張らないと。1年生には即戦力もいるけど、今月には転校生の2年生が野球部希望で来るらしい。戦力集めて、頑張らないと」

「そっか。頑張ってね」

「おう」

瑠璃は二人の会話を、まるで自分が楽しんでいるかのようにゲスっぽく笑いながら見守っていた。





「それでは、今日のミーティングを始めます」

放課後の朱雀会館。校内にあるこの古びた2階建ての建物は、私たち吹奏楽部にとって特別な場所だ。1階には会議室、2階には和室とシャワー室。合宿所としても使えるが、普段は専ら吹奏楽部の練習場として使っている。今日も部員全員が会議室に集まり、静かな緊張感が漂っていた。

部長でありドラムメジャーでもある和田瑞希が立ち上がり、進行を始める。

「定期演奏会が無事に終わりました。お疲れさま。でも、次はコンクールが待っています。良い結果を目指して、練習に励みましょう」

「はい!」

瑞希の声はよく通る。少し低めで落ち着いていて、聞くだけで自然と背筋が伸びる。彼女がいるだけで部活の雰囲気が引き締まるから不思議だ。

今年の吹奏楽部は特別だ。例年なら部長とドラムメジャーは別々の人が務めるが、瑞希ならどちらも兼任しても問題ない、と全員が納得している。誰よりも努力を惜しまない彼女は中学時代から有名な存在で、私はサブドラムメジャーとしてその補佐をしている。補佐と言っても、ほとんど頼りきりだが。

「……質問がなければ、早速練習に移りましょう!」

「はい!」

瑞希の掛け声に全員が一斉に返事をし、楽器の準備に向かう。その様子を眺めながら、私は心の中で少し高揚していた。定期演奏会が終わり、緊張感が漂うこの空気。私はこの雰囲気が嫌いじゃない。むしろ、好きかもしれない。最後の大会だし、このくらいがちょうどいい。去年のリベンジもあるし、絶対に頑張りたい。

そんな私の背中に声がかかった。

「千沙、ちょっと」

振り向くと、瑞希が真剣な表情で手を招いている。

「どうしたの?」

「先生からね、今年のコンクールの自由曲、来週中には決めるってさ。それで、新しい候補曲が一つ追加されるんだって」

「え、新しい曲? この時期に?」

思わず目を丸くする私に、瑞希が苦笑した。

「そう。だから、この後職員室に楽譜を取りに来てってさ」

「うん、いいけど……追加なんて珍しいよね。どうしてだろう?」

歩きながら瑞希の隣に並び、私は疑問を口にする。

「たぶん、先生が今ある候補曲だけだとピンと来なかったんじゃないかな。それか、もっと私たちに合う曲を見つけたとか。どっちにしても、先生なりに考えてくれているんだと思うけど、リスキーだね」

瑞希の言葉に、ふっと納得がいった。今年の先生はいつにも増して熱心だし、コンクールに対する想いが強いのは、部員たちも感じていたから。

「まあ、これで本当に良い曲だったらいいけどね」

少し笑ってそう言う瑞希に、私は軽くうなずく。

「うん。でも瑞希がそう言うなら、たぶん何とかなる気がするよ」

彼女が「え? 何それ?」と苦笑いをする。その笑顔につられて、私もつい笑ってしまった。

朱雀会館を出ると、外はもうすっかり夏のような空気が漂っていた。青々と茂る木々が太陽の光を受けて輝き、体育館や校庭から部活の声が響いている。風が頬を撫で、心地よい。ついついこの時間に浸りたくなる。

「千沙、何しているの? 黄昏るには、まだ早いと思うよ」

「わかってるって」

瑞希の言葉に少し笑いながら応え、私はその背中を追った。





新しい楽譜が渡されて、三日が経った。

夕暮れが校舎を包み込み、千沙はトランペットをケースにしまいながら軽く息をついた。朱雀会館の中は、楽器を片付ける部員たちの声と音で賑わっている。そんな中、隣でホルンを片付けていた瑠璃がふいに声をかけてきた。

「千沙はどう思った?」

「え? 何が?」

「いや、さっきの自由曲の話だよ」

瑠璃が顔を覗き込むようにしてきた。自由曲の話。それは今日の練習中、部員たちの頭を占めていたテーマだった。吹奏楽コンクールの高校A部門では、課題曲と自由曲を演奏する。課題曲は決められた候補から選ばれるが、自由曲は学校の特色を反映できる唯一のチャンスで、毎年その選曲には部全体の熱が注がれる。

「あー、そうね……私は『ローマの祭り』も良かったけど、定期演奏会でやった『大阪俗謡』も面白いかなって思った。今までうちでやってこなかったタイプの曲だし」

「なるほどねー。でも私、やっぱバーンズがいいな!」

瑠璃の声が弾む。先生が急遽追加してきた、アメリカの作曲家ジェイムズ・バーンズの『交響曲第3番』。約40分にも及ぶ壮大な作品で、華やかさとドラマチックさで観客を圧倒する吹奏楽の名曲だ。しかし、その難易度の高さでも知られ、昨年と同じく難易度はグレード6。

「バーンズ、か……」

千沙はその名を口にしてみる。

曲の印象は強烈だった。私たちがホールで演奏する姿も目に浮かび、確かに最後のステージを飾るにはふさわしいと思った。でも、心のどこかでモヤモヤが残った。

「私、最初に音源聞いた瞬間、これしかないって思った!」

瑠璃が勢いよく言葉を続ける。

「なんかね、私たちの高校三年間の集大成って感じしない? これで終われるなら後悔しないなって」

「確かに最後は華やかだよね。難しいけど、やる価値はあるのかも」

「でしょでしょ! やっぱ千沙は分かっている!」

瑠璃は満足げに笑いながらホルンのベルを外し、軽く鼻歌を歌い出した。その楽しげな様子に、千沙もつられて少し笑顔になる。しかし、心の奥のモヤモヤは消えなかった。

瑠璃と同じく、千沙も最初にバーンズの曲を聴いたとき、「いい曲だ」と感じた。それは間違いない。けれど、この曲には「いい曲」と思えない理由があった。瑞希が職員室から戻る途中にぽつりと教えてくれた話が、千沙の胸に重くのしかかっていた。

「この曲って、実はね……」

先生の中には意図があるのかもしれない。しかしその意図が何なのか、気になって仕方がなかった。瑞希が教えてくれたのは、悪意なく事実として伝えられた話だったが、千沙はその瞬間、胸の中に冷たいものを感じた。

片づけを終えた部員たちが少しずつ帰っていく。朱雀会館を出ると、夕暮れの空はほとんど闇に近く、鈍い色合いが辺りを染めていた。遠くから生徒たちの笑い声が聞こえるが、その声はどこか現実味を欠いているように感じる。

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