第12話

 脇山口の交差点で信号待ちをしていると、並んで待っていた数人の女子校生が秀治の存在に気付き、少し距離をとってから何やらこそこそと話を始めた。


 何を話しているのか、聞こうとも思わないが、恐らく昨日の出来事について話しているのだということは容易に想像がついた。


 つい昨日の出来事であっても、一度ネットワーク上に載せられた情報が拡散するのに、一日という時間は十分すぎる。


 秀治や他の三人は、今や校内一有名な生徒に違いない。同級生を学校の屋上から突き落とした犯人として、学校中の、場合によってはこの国のどこかにいる会ったことも無い奴らに、その名前を記憶されるのだ。


 ひょっとして、住所を曝されたりするのだろうか。それは具合が良くないと秀治は思った。姉にまで不当な被害が及ぶのは耐えられない。ただ、だからといって何かやれることがあるのかと言えば、現状はなに一つ出来ることはない。


 もしかすると、警察の捜査が入るかもしれない。SNSへの書き込み程度で特定の人間を、しかも未成年を犯人扱いするほど警察も暇ではないと思うが、現実に高校生が学校の屋上から落ち、瀕死の重傷を負っている。


 警察が介入して、事件化されて初めて俺達の名前やらプライバシーやらが凌辱されるのだろうか。もしくは、学校が今回のことを大ごとにしたくないと考えて、一切隠し通してしまう可能性もある。秀治は妙に冷めた心で、他人事のようにそんなことを思った。


 信号はいつの間にか青に変わり、さっきの女子校生達は秀治から遠ざかるようにそそくさと横断歩道を渡って行った。秀治も自転車のペダルを踏み込み、横断歩道を渡った。あの女子校生だけじゃない、これから学校へ行けば、俺の名前と顔を知っている生徒なら誰であれ、同じような態度を示すことだろう。 


 だがどういうわけか、秀治はそのことに不快感も緊張も、焦燥感も抱くことはなかった。自分の置かれた立場のまずさを認識出来ていないのか、よくわかった上で奇妙に冷めきった感情を抱えているのか、わからない。わかろうとする気持ちすら起こらなかった。


 生徒の登校時間はちょうどピークを迎えていたのか、校舎の玄関は制服の一団でごったがえしていた。


 皆それぞれがそれぞれに、自分の行動原理に従って校舎玄関を目指している。そのせいなのか、自分たちの背後から、例の尾崎秀治が下駄箱に靴を収めるために玄関を目指して歩いていることなど、気に留めるものはいなかった。いや、何人かはいたのかもしれないが、秀治の方がそのことを気にしていなかった。


 ふと、カバンの中で秀治のスマートフォンが振るえた。秀治がそれを手に取ると、画面に大野俊からメッセージが届いたという表示が示されていた。俊もまた、SNSで舘岡雄樹を突き落とした犯人として、秀治とともに名指しされた生徒の一人だった。


“余計なこと言うな ”


 それだけのぶっきらぼうなメッセージだった。既読にしておいて、返事はしなかった。秀治は生徒玄関で靴を脱いで、それから上履きを放り出すように床において足を入れ、踵を潰したまま教室に向かった。三年生の教室は、屋上を除けば最上階にあたる四階にあり、そこまで階段を登らなければならないのが面倒だった。


 秀治は、階段をのぼる時にはいつもやや身体を前傾姿勢に保ちつつ、顔だけはしっかりと前を見据える姿勢をとった。こうしておくだけで、周りの連中はどういうわけか自分に近づきたがらなくなる。もともと人間と接するのが嫌いな秀治には都合の良いことだったし、身体を前に傾けていると、階段をのぼるのもいくらか楽であるように感じられた。


 二階には一年生の教室が並び、まだ初々しい一年生連中が往来の端々にグループを作っては、楽しそうに談笑していた。だがその輪の中に異物の如く分け入る秀治を排除する免疫力は、一年生にはまだ備わっていないようだった。


 彼の歩く先にいた一年生の女子数人のグループは、秀治の姿を目にするかしないかという内に、脂の球が水面を伝うように塊のまま秀治を避けた。秀治はそんな一年生連中とは顔を合わさず、さらに上の階を目指し階段に足を掛けた。


 その時、ほんの一瞬だが全身を後ろへ引き摺られるような感覚を、秀治は覚えた。手すりを強く掴み、その場で深く息を吸い込んで、ようやく秀治は平衡感覚を取り戻した。 


 妙な感覚だった。引っ張られるというより、むしろ吸い込まれるように、頭から身体から自分の全身の密度が低下し、煙になって吸い込まれるようなイメージが秀治の脳内にこびりついていた。突然の奇妙な感覚の正体をつかみかねて、秀治は闇雲に辺りを見回した。


 そんな秀治の視界の端に、階段横に設けられたトイレのドアが入り込んできた時、秀治は奇妙な感覚の理由を了解した。同時に、秀治の鼻腔にトイレの芳香剤の甘ったるい匂いが、そして喉の奥には血が混じったような鉄臭い、ザラザラとした感覚が去来した。


 苦々しい、そして痛々しくもある記憶が秀治の頭骨を掴んで、もう一度階段の下へ引き摺り込もうとする。それを必死に堪えながら、秀治は記憶の手招きを振り払うように階段を上った。それでも、秀治の脳の隅の方で、封印したはずの思い出がぽつぽつと泡のように湧いては消えていった。舘岡雄樹との思い出が。

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