第11話
朝はまだ肌寒いから、秀治はコタツの電源を入れたまま家を出ることにした。彼は自分に背を向けたまま横になっている姉に言った。
「コタツに入りっぱなしだと良くないから、ちゃんと布団で寝ろよ」
姉の返事はなかった。いつものことだ。ここしばらくまともに会話もしていないのだから、今日になって急に自分の言葉に応答してくれるなんてことは、期待していない。
「行ってくる、昼飯の場所はわかるよな」
やはり返事は無い、けれど秀治は聞き返すことはせず玄関へ向かった。俺の用意した昼飯は食べないだろうし、その方がいい。インスタント食品は栄養が偏る。
「行って来るよ、コタツで寝るなよ」
靴を履きドアノブに手を掛けると、秀治は姉に再度そう声をかけて家を出た。旧いアパートのドアは、ギギギィと不愉快な音をたてた。
自室のドアに鍵を掛けるとすぐに秀治は隣室のチャイムを鳴らした。するとしばらくして、ドアのカギが開く音がした。そして内側からのっそりとドアが開いて、皺が木の年輪のように濃く顔に刻まれた老婆が現れた。
「学校行ってきます、すいませんけど、今日も宜しくお願いします」
ドア越しに秀治がそういうと、老婆は皺だらけの顔をさらに皺苦茶にしてうんうんと頷いた。
「心配せんでよか、がんばりぃよ」
老婆は言った。ありがとうございますと秀治が言うのと同時に、老婆の身体がのそりのそりと外へ出てきた。老婆に鍵を手渡し、秀治は頭を下げながら階段を下りていった。老婆はまた頬に皺を寄せて秀治の背中を見送った。
自転車がぎっしりと詰められたガレージに辿りつくと、秀治はその中から至るところに錆びの浮かんだ一台を引き摺りだした。車輪の回転だけで奇怪な音を発するその古い自転車の籠に、所々傷んだ通学カバンを放り込み、サドルの汚れを払ってまたがった。
ガレージから通りに出ると、秀治は似たような制服姿の学生たちが居並ぶ道を、器用に人混みを避けながら自転車を走らせた。
荒江方面から秀治の学校の方へ向かおうとすると、どうしても交通量の多い大通りを通らねばならない。しかも通学時間は他の高校や社会人の通勤時間ともバッティングするため、その中を自転車で走り抜けるのは中々に難しい。だが秀治は慣れたもので、片手でハンドルを握りながら人混みの中を掻き分けていく。
道すがら、カラオケやらネットカフェやらのアミューズメント施設の看板が秀治の視界に入っては消えて行く。今日はどこで粘ろうか、真っ直ぐ家には帰りたくない。悪いとは思いつつ、秀治はコタツで寝込むばかりの姉の姿を思い浮かべ、そこからほんの一時でも解放される方法を考えていた。
秀治は家計の事を考えて、居酒屋で夜遅くまで週四日のアルバイトをこなしている。居酒屋は天神西通りにあり、ほとんど深夜に近い時間帯のシフトにも入っている。高校生のアルバイト先としては不適切だから、年齢を誤魔化して働いている。
ただ、店の人もなんとなくそのことに気付いているのだろう、たまに突然のシフトチェンジや休みを秀治に命じることがある。そういう日は、決まって何かの立ち入り検査があるようだ。
保健、衛生環境のチェックが建前のようだが、ついでに未成年を雇用していないかもチェックしているらしい。今日もその日に当るため、昨日のバイトおわりに店長から休むように言われたのである。
まぁ、隣家の吉岡さんに任せておけば、食事だって摂らせてくれるだろうし、薬だって飲ませてくれる。それなら俺が多少家に帰る時間を遅らせても、問題は無いだろう。
それに昨日色々とあったせいか、今日は日常のサイクルの中に身を委ねたくなかった。出来れば学校にも行きたくは無いのだが、秀治本人が学校に休みますと連絡を入れるわけにもいかない。残念ながら、先生の覚えが目出度くない秀治が休みたい旨を連絡したところで、教師からはサボろうとしていると思われるに違いなかった。
かといって、何も言わず本当に学校をサボれば、自宅へ連絡が行くことは明らかだったし、そうなれば姉に余計な心配をかけることになる。そうなっては困る。
仕方がないから学校には行くことにした。昨日バイト代が入ったばかりだし、今日は天神まで出て鬱積していたものを解放しよう。秀治はそう考えた。
ただ、西通り界隈はまずい、年齢を偽って働いているバイト先の居酒屋の同僚に見つかるかもしれない。店長以下、数人のアルバイト店員は秀治の事情を知って、見ないふりをしてくれるだろう。でもそれ以外のバイト連中にはその保証はない。高校の制服を着ているところは出来る限り見られたくなかった。
とはいえ、そこ以外で時間を潰せる場所などあるだろうか、友人と連れだって行けば、間違いなく西通りかその近辺をふらつくことになるだろう。西新では少し寂しい。中洲じゃ警察の目がうるさいだろうし、そもそも制服で出かけるような馬鹿な真似は出来ないだろう。見つからないように気をつけるしかないと、秀治は諦めた。
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