第8話
「雄樹君のアザ、腕だけじゃないんだ、身体中に、特に上半身はひどくて・・・。固い棒みたいなもので何度も殴られてるみたいで」
誰かに落とされたって、噂になってるんでしょと、橘花さんは純季の顔を覗き込むようにして言った。
「そういう話がSNSで出回ってるみたいですね」
純季はどこか他人事のように聞こえる口調でそう言った。布団からは舘岡先輩の足首から先が外にはみ出していた。純季は舘岡先輩の足首にかかるズボンの袖に触れようとした。橘花さんは慌てて純季を止めた。
「患者さんには触れないでね」
橘花さんはそう言って、布団から出ていた舘岡先輩の足を布団の中へしまった。純季はだまって手を引っ込めたが、しばらく舘岡先輩を観察し、ふいに何かに思い至ったように橘花さんに尋ねた。
「舘岡先輩、花壇の上に落ちたって言ってましたよね。落ちた時の向きってわかります?俺は見ることが出来なかったので」
「落ちた向き?仰向けとか、うつ伏せとかいうこと」
怪訝そうに尋ねる橘花さんに、純季は静かにうなずいた。
「うーん、私も人伝手に聞いた話だから。でも聞いた限りだと、雄樹君仰向けに落ちてたみたい。後頭部の位置が丁度花壇の柔らかな土の上だったから良かったけど、普通の地面なら間違いなく致命傷だったんじゃないかな。脳震盪は起こしてたみたいだけどね」
不幸中の幸いなんて言い方はどうかと思うけど、本当に大事に至らなくてよかった。橘花さんは舘岡先輩に注がれる点滴の量に注意を向けつつそう言った。
「仰向け、ですか・・・」
純季はつぶやくように橘花さんのその言葉を繰り返し、舘岡先輩の方へ視線を移した。
「上半身に殴られた跡って言ってましたけど、お腹も?」
「え、うん、お腹もそうだよ。特に正面なんかがひどかったみたい」
不意にそう訪ねてきた純季に戸惑いながら、橘花さんは答えた。純季は静かに頷いた。
「目を覚ましそうにないですね、長居するのも迷惑なんで、また来ます。ありがとうございました」
彼はそう言って橘花さんに頭をさげた。
「ううん、こっちこそありがと。久しぶりに会えて良かった。雄樹君もきっとそう思ってる筈だよ。新にも会えたら良かったんだけどね、丁度入れ違いだったみたい」
橘花さんは言った。純季はその新という少年にさっきドアの前で会ったことを言わなかった。
「失礼します」
純季はもう一度橘花さんに頭を下げて、さっさと部屋を出て行こうとした。その態度があまりに素っ気なくて、私は慌てて橘花さんに頭を下げ、すみませんと言った。橘花さんは私の気持ちを察したらしく、笑って言った。
「純君て、あんなふうになることがたまにあるよね。大丈夫、新と一緒にいた頃も何か思いついたら急に黙って、周りの声に全然反応しなくなることがあったから」
気にしてないよと橘花さんは笑った。そして純季の分の椅子を片付けながら、何に気付いたんだろうねとつぶやくように言った。私は何も言わずもう一度頭を下げ、部屋を出た。
病室を出ると、エレベーターホールの手前で純季が壁に寄り掛かって私を待っていた。私はわざとゆっくりとした歩調で彼の下へ向かった。純季はじれったそうにするでもなく、いつもどおり感情の窺い知れない顔で、床に視線を落したまま私のことを待っていた。
「いきなり出て行ったから、橘花さん驚いてたよ」
嘘を言ってやった。橘花さんは驚いてなどいない、むしろ微笑ましいとさえ思っているようだ。私の言葉は単に純季を少しでも困らせてやろうと思って発したものだった。
「そうか・・・、謝っとかないとな」
純季が発したのはそれだけだった。彼は強迫的なほど清潔な白壁から身体を離し、エレベーターへ向かった。
ボタンを押してエレベーターが来るのを待っていると、純季がふいに私のほうを向き、口を開いた。
「やっぱり、舘岡先輩は誰かに突き落とされてる。しかも全身殴られて」
いつも通りの淡々とした口調に、私はついそれを、ふぅん、と受け流しそうになった。彼の言葉の意味に気づいた私は、なに言ってんのと純季に問うた。
「言葉通りだよ、舘岡先輩は殴られて突き落とされたんだ。アザ見ただろ、多分金属バットか鉄パイプで殴られたんだ」
相変わらずの冷めた口調だったけれど、私には純季が興奮していたのがわかった。彼の頭の中ではいくつもの想像が浮かんでは消え、流れ、そしてまた浮かび上がってを繰り返しているに違いなかった。
「先輩、身体中にアザがあるみたいだったし、ただごとじゃないってことは私にもわかるよ。でもそのことに異様に入れ込んでるように見えるけど、どうしたの」
犯人探しでもするつもり?純季の横顔に目をやり、わたしはそう言った。彼は唇を一文字に結んで、思案するように視線を下げた。
「今の冗談だから」
私はそう言って誤魔化したが、純季は何も答えなかった。病院を出ると、私達は大通りまで歩いた。
「俺、そこからバスで帰るけど」
純季は近くのバス停を指差しながら言った。
「地下鉄じゃないの?」
「今日はバスにしようと思う」
純季は言った。そっちはどうすると、その目が問うていた。私は普段からバスで帰っているけれど、ここから私の住む飯倉方面へ走るバスは無い。
「私もバスだけど、もう少し先に行かないと、ここからは出て無いよ」
純季は、そうか、とだけ言い、それ以上は何も言ってこなかった。
病院前のバス停には数人ほどが座ってバスを待っていた。背中を丸めた老婆が日傘を指したまま、黙ってバスのやって来る方へ目を向けている。
陽はすっかり傾いて、老婆の背中の遥か向こうに見える山々が、稜線を橙に縁取っていた。
じゃあねと一言だけ純季に言って、私は彼に背中を向けた。
「おぅ・・・、それじゃ」
純季のあっさりとした返事が耳の奥に残った。
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