第4話

昼食を終え、私は杏と別れて図書室へ向かった。


 吸い込まれるように女子の群れの中へ紛れていった杏の華奢な背中を、私は尊敬と、ほんの少し羨む気持ちで見送った。


 私には無理だな、集まってとりとめもなくしゃべり続けるなんて。誰かが自分の背後に立っているなんて、杏は気にならないのだろうか。女子の輪の中心で自然な笑顔を振りまく杏を遠目に見ながら、私は教室を後にした。


 図書室まで続く廊下にも、生徒が至る所に屯していた。私は彼らを視界に入れない視線を下げ、足元だけに気持ちを向けながら歩いた。


 硬いゴムのような、得体のしれない材質の床と上履きの擦れる音が、私の周りを行き来している。それだけで苦痛だった。


 周囲の雑音、雑踏、そして何の前触れもなく発せられる大きな音は、胸を圧迫されるような感覚を私に与える。 


 私はこの苦しみを取り敢えず胸にしまっている。他人にはわからない苦しみだ。先生に言っても、きっと理解されないだろう。


 たとえ理解されたとしても、それ以上のことは出来ない。みんな黙っていろとか、私の前だけ静かにしろなんて言う訳にもいかない。そんなことをされては、かえって気まずい。


 どちらにせよ、私は早くこの空間を抜けだしてしまいたいと思い、出来るだけ周りに目を向けないようにしながら歩みを進めた。


 うちの学校の図書室は、単独で建物一棟を占有していて、図書館という方がふさわしかった。図書室のある棟へ入ると、ドアは開け放たれたままになっていた。


 蛍光灯の目に痛い光が、私を迎え入れるように漏れ出ている。無駄に熱の感覚に敏感な皮膚が微かにぬくもりを感じた。


 入口を過ぎると、私はカウンターの横を何も言わず通り過ぎ、部屋の奥へ向かった。


 頑強な本棚に小難しい本ばかりが収められているその場所には、人が滅多にいない。おかげさまで、私は人のあまりいないその空間で、息苦しさから逃れる唯一の憩いの時間を享受している。


 私の背丈より高い本棚には、現代の高校生にはおよそ縁遠い文学の蔵書が、瀟洒な装丁に埃を溜めこんでぎっちりと詰め込まれていた。ここにある本に手を伸ばす人間なんて、この学校でも私を含めて数人程度だろう。そして大抵、このスペースは私だけのものだ。


 ただ今日は偶然、その数人のうちの一人がいた。


「今日は私一人だけだって思ったんだけど」


 私がそう声を掛けると、純季は本棚にもたれかかったまま、こちらに一瞥をくれ、そして手にしていた本へ視線を戻した。ビロードの装丁は縁が日焼けしていたけれど、全体的には鮮やかな朱色の装丁が、施された当時の姿を保っていた。


「随分興味持ってたみたいだけど、らしくないじゃない。クラスのしょうもない噂に、自分も仲間に入れて欲しいって思うような奴だったっけ」


 私は純季の右隣の本棚の中段あたりに並ぶ本を手に取った。表面をそっと撫でてから、私はゆっくり表紙を開いた。


「先輩、どこの病院に運ばれたんだろうな?」


 純季は私の質問には答えなかった。代わりに視線を本へ落としたまま、独り言のようにそう言った。


「ちょっと聞いてきてもらえないか・・・」


 純季が本から目を離し、私の方へ視線を寄越した。蒼白い頬に気を取られ、彼の言葉は私の頭まで届く前に、一瞬ストップした。彼の言葉を反芻した後、私はその意味を理解してバタリと本を閉じた。


「・・・何言ってんの?」


「誰かに聞いてきて欲しいんだよ、先輩がどの病院に入院してるのか」


 今度はほんの少し言いづらそうにしながら、純季は私に言葉を向けた。多分、次に私の口から出てくる言葉を予想してのことだろう。


「なんで私に頼むの?」


 純季が予想したであろうセリフを、私は少し乱暴に投げた。


「私、先輩のことなんて全然知らないよ。顔も知らないし、名前を知ったのもさっきだし・・・」


 それはわかってると、純季は私に正対して言った。


「わかってる、でも他に頼める奴がいないんだよ」


 純季の表情からは、頼みにくそうにしている様子は微塵も感じられない。いや、彼の心の内では、充分に勇気を振り絞って私に頼んでいるのかもしれない。見た目にはわからないけれど、純季は思い切って私にお願いしているのだ。


 とはいえ、である。心の中でどう思っているのかは知らないが、彼の面差しには気まずさの感情など一切読みとることなど出来ない。


 それに、私以外に頼める人間がいなかったとしても、私がそんなこと出来るはず無い事くらい、わかるだろう。


「学校の人脈も情報網も、あんたと大して変わらない人間に頼むことじゃないでしょ?」


 ごめんなさいね、唯一頼み易い人間が役に立たなくて、とまでは言わなかったけれど、私は言葉で断る代わりに本棚から離れた。もう帰るというサインをこいつは察するだろうか。


「舞衣にそれほど友達がいないのも知ってる」


 純季は手にしていた本を棚に仕舞いながら、随分と容赦のない言葉の直球を投げ入れてきた。


 私は自分でもわかるくらい眉をひそめ、唇を尖らせたけれど、彼は構わず言葉を継いだ。


「舞衣が聞いてまわる必要はないだろ。杏に聞けば、すぐに答えが出ると思う」


 多分学校一のネットワークを誇る友人の名を、純季は挙げた。


「あぁ、そういうこと・・・」


 私は中継役ですか。さっきの言葉のダメージも癒えぬうちにそんなことを言われ、私は少しばかりヘソを曲げた。


「頼んでいいか?」


 念を押すようにそう問うてきた純季に、私は敢えて何も答えずにいた。彼は私の返答も聞かず、その場を去っていった。


 私はふと、彼が本棚に戻した本へ目をやった。林芙美子の『放浪記』を読む高校生なんて、この国に一体何人いるのだろう。

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