先輩と涙とつま先と
秋色
第1話
十一月に祖父が入院した。軽い脳梗塞だと病院で説明を受け、治療を始めて数週間。これからはしばらく、リハビリ専門の病院で療養を続ける事になる。
一月最初の土曜日、私は祖母から新しい病院へ一緒に面会に行ってほしいと頼まれた。他の家族は皆、その日、用事があるから、と。
私はちょうど冬休みで、ゼミの論文を書いている途中ではあったけど、論文の締め切りにはまだ充分、時間がある。それに『コミュニケーションと相互理解について』という課題は決して難しくなかった。
天気予報は、午後から雪。空は厚い雲に覆われていた。
祖父が丹精を込めて育てていた寒菊がちょうど花盛りで、庭には陽が差したようだ。私はこの景色を祖父に見せたいと思いながら祖母と家を出た。
*
バスが緩やかにリハビリ病院前のバス停に止まる。私と祖母は、回廊か迷路のような渡り廊下を歩き、祖父の病室まで行くのに、もう少しで迷子になりそうだった。
いざ病室に着くと、祖父はもうすっかり顔色が良くなっていて、私達は喜んで迎えられた。昨日から始めたリハビリも順調そうだ。
ベッドサイドに目をやると、テーブルに置かれた新しいノートが目に入る。
病室にやって来たリハビリの療法士さんが教えてくれた。
「それは手のリハビリの一環として使っているノートなんです。自分史をメモ風に作るという趣向で、手を使って言葉を書く事が目的なんですよ。
人生の中の種々の出来事に対し、三つのキーワードを考えて書くんです。そうすると、過去を思い出す努力と相まって脳の働きも活発になるんです」
文章でなく、単語だけで書いていくのがミソらしい。
どんな患者さんでも簡単に出来る作業だと療法士さんは受けあう。
「おじいちゃん、このノート、読んでいい?」
「ああ」
私はノートをめくってみた。
祖父の選ぶ言葉は単純明快だった。
『中学校』だったら、「卓球部」、「県大会」、「近藤先生」。『社会に入ってからの苦労』だったら「売り上げ」、「バブル崩壊」、「上司のため息」。シンプルで分かりやすい。
ところがそのノートのあるページで、ノートをめくる私の手が止まった。
『運命』。カッコ書きて運命の相手と出会ったきっかけとある。そこだけ謎の単語が並んでいた。「先輩」と「涙」と「つま先」。
運命の相手となれば、結婚相手に違いない。祖父母は、私にとっては理想的なカップルだった。幼い頃から今に至るまでずっと。
祖父は、年をとった今もきりりとした紳士であり、カッコいい。頑固で何時でも何事があっても表情には出さない。
祖母は控えめだけど、いつも楚々として品性を感じる。
そんな二人の出会いが、学生時代に通っていた学習塾だという事は知っていた。ただ、それ以上の事は知らない。
祖母に二人の馴れ初めを訊いても、平凡だからと言うだけで、すぐ話をそらされてしまう。
だから「先輩」と「涙」と「つま先」の因果関係を自分で推理するしかなかった。
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