29話
気づいてしまった恋情
少しの風が吹いてカサカサと音が鳴る。
守也がそこに目を向ければ干し櫓に括り付けてある昆布が揺れていた。
それに吸い込まれるように歩き出した守也は、静かに揺れる昆布に触れた。
冷たい・・・。
東京はだいぶ温かくなってきたというのに、ここらはまだまだ寒い。
これらを拾った芳江は何度も凍える波打ち際へと入ったのだろう。
あんな細い体で、吐息で手のひらを温めながら。
それなのに、あの兄貴は・・・。
姉さんが一日分辛い思いをして稼いでくれた金と同じような値段で色街へと通っている。
前は二か月ほどで帰ってきた出稼ぎ期間を春まで長くしたのはその為だったのか?
そう思えば今までの兄への信頼は一気に醒めていった。
そんな兄に芳江さんを任せられない。
怒りが爆発しそうな気持を何とか抑える。
震えながら拳を握り、痛さで顔を顰めながらも自分を落ち着かせようときつく目を閉じた。
深呼吸をして心が静まるのを待ち、呼吸が整ったところで目を開けた。
もう、守也の中に迷いは無くなっていた。
「守也君」
家に帰れば芳江が壊れたテレビを片付けていた。
「姉さん、危ないから俺がやるよ」
「いいわよ、大丈夫。ここに来たときはよくこうやって割れたガラスを片していたもの」
「それでも、いいがら。姉さんは、その・・・飯作ってげれ。俺、東京からここに来るまでほとんど何にも食ってねえんだ。ほとんど働けなかったし、金も、持ってなかったがら」
「怪我、したの?」
「うん、ちょっとね。吊るした鉄骨にぶつかっちまってさ―――。んでも、もうぴんぴんしてっから!この重たいテレビだって一人で持てるど?ほら!―――いっで!」
おどける守也に芳江は安堵の表情を浮かべる。
この後も麻井を許したことで怒られると思っていたからだ。
正一なら確実にそうなる。いや、その前に自分の意見など聞いてはくれなかっただろう。
先ほどまでの強張っていた表情ではなく、いつもの守也に戻っていたことが嬉しかった。
「―――フフフ、もう、無理しないの」
自然に笑った芳江に守也は見惚れていた。
「どうしたの?」
「あ・・いや、ダメだな!こりゃ。明日さんちゃんに言って電気屋さ運んで貰わねーと!それよりも姉さん!腹減ったじゃ、なんか簡単に作ってけれや」
「はいはい、そうしましょうね」
立ち上がり台所に向かう芳江の後姿を守也はずっと見つめていた。
視線を感じたのか振り返る芳江に守也は優しく微笑みかける。
「はい、簡単なものしかないけど、どうぞ」
「おお!飯寿司!美味そうーだ。いっただきまーす」
守也は言うなり箸を左手に持って食べだす。
少しおぼつかないが長い入院期間で慣れたのか食べ物は掴めるようだ。
「守也君は何でも上手に出来るのね」
「そんなことねぇよ、これだってなんまら練習したんだから」
「そうね、守也君は努力家だものね」
「―――努力家ってゆうがさ、全部、良く見られたいからなんだ。ある人に」
「・・・」
”誰に?”
芳江はその言葉を飲み込んだ。
言ってしまったら後戻りできないと分かっていたからだ。
「内気で不器用な俺がさ、」
「守也君」
「俺がこうやって変われたのは、今の自分があるのは」
「守也君!もう辞めて!」
「――――全部、あなたのおかげなんだ。今まで言えなかったけど、君を愛してる」
目を反らせていた芳江はゆっくりと守也の方を見上げると、曇りのない透き通った眼差しで芳江を見つめる守也がいた。
遠い昔、バイクでハマナスの花が咲き誇る丘へ連れていってくれた時のような少年時代の面影が重なる。
でも、目の前にいる男の子は立派な男になっていた。
いつも困ったときは助けてくれて、自分の気持ちにいち早く気づき支えてくれた。
夫さえも気が付いてくれないほんのささやかな気持ちの変化もいつも先回りして慰めてくれた。
芳江にとってこの世で一番自分を認めてくれる存在。
それが夫の弟である守也だった。
「俺と一緒に来てくれないか?」
「―――一緒にって、なに言ってるの?」
「俺、君が一緒にいてくれたら何でも出来る気がする。きっと君を幸せにするから」
「そんなの、できないわよ」
「子供たちが心配?もちろん一緒に連れていくよ、親父には文句言わせない」
「―――でも」
「兄さんは!・・・君を幸せになんてできないよ。あの人は幸せに、してもらい人なんだ」
それは芳江も初めからわかっていた。
自分じゃない、誰かに幸せにしてもらいたい夫であることを。
「ここじゃない土地に行って新しく始めよう」
「そんなの、できないよ」
芳江は気持ちが持っていかれそうになる眼差しから逃れるために立ち上がるが、その腕を守也に掴まれてしまった。
そのまま有無をも言わさずに抱きしめられる。
芳江は抵抗するが、守也は振りほどけないほどに更に強く抱きしめ続けた。
「おれは、――――君じゃないと・・ダメ、なんだ・・・」
涙声になっている守也の言葉で芳江は大人しくなる。
見上げると守也から流れた涙が芳江の首元にぽたぽたと落ちてくる。
「何度も、何度も何度も!!・・・諦めた。貴方は兄貴の妻だって、決して愛してはいけない人だって!―――でも、ダメなんだ。ダメなんだよ・・・。貴方よりも愛せる人なんて、居なかったんだ・・・」
芳江の目からも一筋の涙が零れ落ちる。
自分はこの言葉を待っていたんだ。
他でもない、自分という存在を想ってくれる言葉をかけられることを望んでいた。
守也はゆっくりと目を閉じながら芳江に顔を寄せ、優しく口づけた。
「俺の我儘だ、貴方は何も悪くない」
小さく首を横に振る芳江の頬を手のひらに包み込み、守也はもう一度口づけをする。
啄んでくる守也に芳江も唇を合わせる。
激しくなっていく行為にこたえるように彼の背中に腕をまわし抱きしめ返す。
二人の心が交わる音が誰もいない家に鳴り響いていた。
―――――深夜
不意に目を醒ました芳江は手にぬくもりを感じて隣をみた。
そこには幸せそうに寝ている守也の姿があった。
握られた手を起こさないように静かに解き、守也の部屋をでる。
音を立てないように階段を上がり寝室へと入った芳江は首から首飾りを外して箪笥の奥へと仕舞った。
電気のついてない部屋で光を感じ、吸いよされるように窓辺へと足を運ぶ。
そこには海に映る三日月が輝いていた。
まるで、自分のようだ。
そう思いながら芳江は波に揺れる三日月を見続けていた。
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