第24話
壊れる音
秋祭りが終わり冬支度が始まる季節。
正一は出稼ぎ準備や組合に提出する生活改善報告書を作成する時期でもあるので、目が回るように忙しくなる。
でも、どんなに忙しい時であっても時間を作っては俳句クラブに通っていた。
幸恵もまた旅館が冬支度に備えるため、雇用を増やしてでもいい時期にも関わらず、何かと理由を付けては俳句クラブに通う日々を送っていた。
目的はただ一つである。
芙美の想い人が正一だと思い込んでいるのだ。
そう感じた時から幸恵の心はそればかりが興味を引いて仕方ないのである。
またどうやって彼女を傷つけてやろうかと思考が無意識に巡り、思いついたことを行動に移す。
でもそれは中々に上手くいかず、芙美の表情は変わることがなかったのが幸恵には面白くなかった。
ともすれば身近な女たちより有利に立つことばかりを考える。
「こんばんは、正一さん」
「———幸恵さん――どうも・・・」
一言二言する会話だけでも、まわりの女たちは羨ましそうに幸恵を見ていた。
それもその通りだ。
普段正一は女に話しかけられても冷たくあしらうそうだ。
自分にベンコをふってくる女たちは、違う目的でここに集まり俳句を疎かにしがちだと考えていたからだ。
正一は俳句を作るのが楽しくて通っているのである。
遊んでくれる女を探している訳ではないのだ。
幸恵は正一と『会話』をして返事が返ってくることで優越感に浸っていた。
何とかこのまま正一と会話を続けたいと思うが、彼は避けるようにそそくさと知り合いのところへと行ってしまう。
そうしていつものように面白くないことが始まるのだ。
正一の表情はパッと明るくなって表情が一変する。
余程気が合う友人なのか会話が弾み楽しそうに談笑する。
その中へ芙美は当たり前のように輪の中へと入っていくのだ。
正一も芙美に対しては特に警戒心を持っていないようだった。
今まで芙美と二人並んだ時などは自分以外を選ぶ男はいなかったというのに・・・
幸恵にとっては屈辱的なことであった。
「そろそろ、俳句を提出する時期だな。正一は今度も棄権するのか?」
「ああ、おらのなんか出すに値しねって」
「そんなことないですよ!工藤さんの句は年々メキメキと力をつけているもの。そろそろ挑戦してみてはいかがです?」
「まぁだそうやってー、煽だてれば調子にのるとおもっでんだべ?その手にはのんねーがらな」
「もう、本当ですよ~」
俳句のことで熱心な二人は話が合うのだ。
芙美には少しばかり好感はあるかも知れないが、所帯を持っている男性っていうのはしかりとわきまえている。
媚びたような態度をしない芙美だからこそ、この中で唯一正一と普通に談笑し合える女性なのだ。
幸恵はその光景がやはり気に入らなかった。
「道新賞――――か」
俳句クラブの帰り道。
一人になった正一はぽつりと呟く。
毎年のように誘われるこの大会。
いつもは断っていたが、参加してみようかとも思い始めていた。
俳句賞に選ばれなくとも、佳作にでも見事入ることが出来たなら新聞に載るだろう。
それを、『生きるための活力に』と思うようになったのだ。
正直、誰のためにとは言い難い。
自分の為なのか、遠い日に嫁に行きたくないと駄々をこねた恋人の為なのか、武翔の元恋人が最近になって無理な結婚を強いられてしまった為の慰めなのか、一人でも生きていけそうな強い芯を持った妻の為なのか・・・。
それとも自分を敬い、自らの想いを封じ込めてまで忠実を誓ってくれる弟の守也のためなのか。
守也には何度か見合い相手を紹介したこともあった。
「おめーもそろそろ嫁っこ貰って家庭を作らねば。もういい年になってきたべ」
「俺が嫁っこ貰ってくいぶち増やしたら、みんな食い倒れるべ。家と機械の払いもまだまだ始まったばっかだし、そんな気無いわ」
正一が縁談を持ち掛けても帰ってくる返事はいつも同じで、守也の考えが変わることはなかったのである。
次の日正一は組合を訪れていた。
事務所に上がる階段を昇っていくが、どうも足取りが重い。
これから”言われる”ことはだいたい予想が付く。
本来ならば年末までに作成すればいいのだが、出稼ぎで家を空ける予定の者は村を発つ前に作らないといけないのだ。
収入と支出の割合が合わなければ、それに対して指導が入ったり、新しい機械の買い控えや経費の無駄づかいを指摘される。
機械や船の破損など、どうしようもない支出に対しては補助金の手続きなどを行わなければならない。
また、収支が切迫しつつある状態でも呑気に構えそうな組合員へは、見えない問題を浮き彫りにし、来年の過ごし方などについて見通しさせる目的もあるため、それらを担当する組合職員の言葉も多少きつくなるのが常である。
「—————ギリギリだね。何とか道具や機械の破損がないようにやって下さいよ」
「ああ、そんですね・・・」
今年も余裕がある暮らしには程遠い。
だが、芳江が生活面で節約してくれたり、守也が夏昆布を無償で稼いでくれたりしているおかげで何とかその年も乗り切れたことに正一は安堵していた。
「だいたい家がデカすぎるんですよ、一家6人ならば四百万でもそこそこのが建つのに、倍額近く使うだなんてねぇ」
組合職員は鉛筆の後ろで頭を掻きながら書面を見て苦笑していた。
「———弟が嫁っこ貰ったらってのを考えてたんです」
「それでもさ、その時考えればいいっしょ。増築するとか近くの空き家を買い取るとかあるじゃないですか。現に嫁を貰ってもいないのに、どっかの網元みたいな家だもな、これだら。ハハっ」
組合員の生活を守るための助言は担当者にとっては嫌味な言い方になってしまう。
特に目の前の人物は余計な一言が多いことで有名な初老の男だ。
『大した収入もない癖に立派な家建てて弟を縛り付けている。』
風の噂で自分のことをそう言いまわっていると聞いた事がある正一はそこで我慢の限界が来てしまった。
「一家で働いて街の銀行にはちゃんと返してます!滞った月は一度もありませんがら!!」
勢いよく立ち上がった正一はずんずんと歩きながらその場を去る。
そのまま入口のドアを蹴飛ばすかのような音をたてながら組合を後にした。
「————おかえりなさい、お疲れでしょう?お茶淹れますね」
「————いらね、酒くれや」
「・・・はい、ただいま」
芳江はまたかと思いながらも酒の用意をしていた。
最近は昼間から吞むことも多くなった。
そうして夕飯も食べずに寝てしまうのだ。
珍しく吞まない日があるなと思えば、夜に出かけていく。
もう数ヶ月も芳江は正一と必要最低限の会話しかしていない。
どちらかといえば、正一が芳江を避けていた。
守也が恨めしそうに自分と芳江を視界の隅に入れている様子が分かるからだ。
もう随分前から気が付いてはいるが、なにも出来ずに妻への態度と言葉遣いがぶっきらぼうになるばかりだった。
正一は自分が解決できないことに直面すると不機嫌になる。
そうして守也に対する後ろめたさをかき消していたのである。
冷たい北風が吹くころになると、あちこちの家で四斗ほどの木樽を洗って軒先に干し始める。
冬への保存食として生魚と野菜を使った漬物を作るためだ。
そんな時期になるとやっとのことで正一の出稼ぎの準備が整うようになった。
「ちょっと行ってくる」
「・・・・はい、お気をつけて―――」
正一はその夜、今年最後の俳句を作りに街へ出かけようと外に出ていった。
その後を芳江は玄関から見送るが伝えたいことがあり身を乗り出した。
「―――あの、お帰りは何時になります?
「―――なんで、そんなこと聞くのよ」
「あ、ごめんなさい、・・でも、あの、今夜は・・・」
「あ、なしただ?今夜がなによ」
「あの、その・・・」
芳江が何かを言い出そうとしていた時、外から足音が聞こえたかと思えば長篠商店の店主であった。
「ああ、正一くん。良かった、居たんだね。今あんたの知り合いから電話でさ――――」
店主から電話の主と軽い用件を聞くなり家のほうを振り返りもせずに駆けていく。
何か大変な事が起きているのは何となく雰囲気でわかる。
が、しかし、内容こそ聞こえなかったにしても、妻である自分から言いづらいことが何だったかを気にすることよりも優先した大事なことは何だろうと寂しい気持ちに芳江はなってしまっていた。
「・・・・・・・・」
体温が高く、日数もそろそろであろう月一の日。
今日は出稼ぎ前、今年最後になるであろう、子が出来やすい日だった。
そのことを伝える前に夫である正一は出かけてしまった。
「幸恵さん!」
「正一さん!ここです!」
二人はある飲食店前で落ち合っていた。
夕方、長篠商店を介して電話をよこしてきたのは幸恵だったのだ。
「本当にここに?」
「はい、間違いありません」
「詳しく聞かしてけれや幸恵さん」
「はい、じつは――」
幸恵は不安な顔をしながら正一に訴えた。
最近になって芙美の様子がおかしいとのこと。
銀行員で収入も安定しているはずなのに、幸恵に金を借りにくるそうだ。
不審に思った幸恵は、退社する芙美の後を追うと、ここにたどり着いた。
悪いうわさが絶えないこの建物は、大正時代につくられた”カフェー”があった場所でもある。
いわゆる”特殊喫茶”と言われた時代の面影を残しているのだ。
今となっては、女給たちが身体を売っていた小部屋へと上がる内階段は閉鎖されているが、店主に金を払えば避難用に作られた外階段から上がれるようになっていた。
昨今では恋人たちが気兼ねなく愛を交わし合う場になりつつあるが、それ以外での使用目的がある輩も多い。
覗きであったり、高額な賭博を目的とした花札をやっていたり、表立ってできない物の取引をしたりと用途が広かった。
警察が不意打ちで調査に来るほど今でも如何わしいと認定されたも同然の古ビルなのだ。
「ここの二階に上がってったんだべ?」
「ええ、なんだか心配で…」
「再三聞くけども、恋人と来てる可能性はないんだべな?」
「あったとしても、平屋の一軒家に一人で住んでいるのですのよ?———愛を交わすのならこんな場所に通わなくともいいと思うのです。・・・だから!芙美ちゃん、騙されやすいから、花札のカモにされてるのではないかって心配で・・・」
「んだら、上さ上がってみっか」
「だめですよ、扉に鍵がかかっているのです。それに、ある”決まり”があるのです。それを守らずに無断に入ってはいけないところなのです」
言われて気がついた。
非常階段へと上がる道は、店の中から足だけ丸見えになるのだ。
誤魔化して入ることは出来ない。
二人は仕方なく店に入り、正一は幸恵に教えられたとおり、メニューを開きながら”おまかせで”と合言葉を言う。
店員はニコリと笑いながら下がっていき、コーヒーと一緒に鍵も置いていった。
「ごゆっくりどうぞ」
伝票らしき紙には、部屋賃も入った金額が書かれていた。
「・・・幸恵さん、よう知っとるな」
「・・・ええ、職業柄ここのことはよく聞くのですよ」
純粋な正一は、その言葉や、前の”作り話”まで疑うことなく信じていた。
それにしても見事な慌てっぷりであった。
『芙美が大変なことになっている』
そう言っただけなのに、すごく心配したように電話口の向こうから質問攻めにあったのだ。
場所を伝えればこれまた信じられない速さで正一はやってきた。
心配してくれる人が家族以外にいる。
そのことがまた幸恵の心に一つ影を落とす。
「どこか話声する部屋あるべか?」
「噂ですけど、その…恋人たちの逢引以外に使われる部屋があるみたいです」
使用用途の内容によって用意される部屋が違ってくる。
恋人たちの逢引きであれば事件性がないので階段からほど遠くない小部屋でもいいのだが、そうでない場合は入り組んだ廊下の先にある隠し部屋が使用されることが多いのだ。
かつての反政府組織が密会に使っていた大部屋がそのまま事件性がありそうな時に使われる部屋として貸し出されていた。
「んだら、そこに行ってみよう、どこにあるか分かるが?幸恵さん」
「・・・はい、話だけですが場所はよく聞いてますので」
幸恵はそう言って店側から貰った鍵とは違う部屋へと正一を案内する。
幸恵はその部屋の合い鍵を持っていた。
夫である実の背広から出て来たそれは、一度でここのカギだと分かった。
自分もまた、行きずりの男と不貞を働くときによく利用していたからだ。
夫は贅沢にも一番広くて豪勢な装飾が施された”フルコース”の部屋を使っていた。
それを知った時、こんなところにも見栄をはってと腹立たしく思ったものだった。
その現場をおさえて、相手の女から金をふんだくろうと思って合鍵を作っていたのが思わぬところで役に立つことになった。
下でもらった鍵の部屋に行っても正一は不審がるだろうから、これがあることで、いるはずのない芙美がいる部屋として誘い込むことが出来る。
一度密室に入ってしまえば正一もその気になるはず。
ただでさえ俗世から離れたような雰囲気を醸し出すここは、今もまだ甘い香りに満ちているのだ。
『これで芙美や芳江に仕返しが出来る』
正一をその部屋の前まで案内し、わざとらしく”偶然にも鍵が落ちていた”としゃがみこんで演技して拾って見せる。
二人のいる廊下は薄暗く、何も見ていなかった正一はその行動を不審に思うことはなかった。
「・・・話し声もなんもしねえど?」
「・・・そうですね、こちらの足音が聞こえて警戒しているのかも知れません」
お願いしますと差し出せば、幸恵から鍵を受け取り、静かにガチャリとドアを開ける正一。
慎重にドアを開けるが、誰もいないとわかると、その中へと入っていって真っ暗になりつつある部屋を見渡す。
「はずれだわ、ほか探すべ」
何もないことを再度確認して引き返そうと思ったその時だった。
いきなり幸恵が後ろから抱きついてきたのは。
「————!!!」
驚きすぎて声が出ない正一に、幸恵の手は正一の身体をゆっくりとまさぐりだす。
引き締まった脇腹や腹部は想像していた通りの筋肉がついていた。
「————な、なにしてん・・・」
正一は驚きすぎて、情けなく狼狽える言葉しか出てこない。
幸恵はそれをいいことに、這いまわっていた手を、正一の中心へとゆっくりと向けていく。
「————聞きましたわよ。夜の相手に困っているのでしょう?」
「……………」
「意地の悪い妹だわ・・・。姉の私が責任をもって償います・・・もちろんこれは二人だけの秘密―——」
「――――――」
何も話をしようとしない正一に、幸恵は微笑みながら前にまわりベルトに手をかけようとする。
これをされて拒む男などいなかった。
この方法で始めるのが確実だと幸恵は思ったのだ。
「—————やめろ」
怒りを込めたような低い声が暗い部屋に響き、幸恵の動きが思わず止まる。
静かに見上げれば、正一は幸恵を軽蔑するかのよう睨みつけていた。
幸恵はここで引くわけにいかないとベルトを解く手を早めるが、正一はその手を払い除けて距離をとる。
「やめろって言ってんの、聞こえないのか?汚たねぇ手で触んなや」
「―――何よ、ご無沙汰なのでしょう?私が相手してあげるって言ってるのよ。素直じゃないわね」
「素直も何も、まっぴらごめんだね。あんたなんかに芳江の代わりなんて勤まる訳ねーべよ。ほんとに…バカでねえのが?———おれになにしようとしてんのよ?あんたは芳江の姉だべ?妹の旦那に何バカな事してんだってよ!」
そう言って床に鍵を叩きつけ出てゆく正一。
全部幸恵が仕組んだ罠だと気がついた正一は、簡単に騙されてしまった自分を腹立たしく思っていた。
芙美は気持ちが安定し、しっかりとしている女性なのだ。
つくる句でその人柄が見えていたというのに。
よく考えれば分かりそうな事であるのに、仮にでも嫁の実姉である幸恵の言葉だからと信じようとした自分がバカらしくなった。
幸恵もまた、自分になびくことがない男が身近にいることが恨めしく、胸がはち切れそうな怒りに打ちのめされる。
その行き場のないその怒りをぶつける矛先は、いつものように決まっている。
芙美がだめなら憎らしい妹へ。
正一に叩きつけられた鍵を見つめ、どんな手を使って傷つけてやろうかと冷笑を浮かべていた。
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