雪恋

幽幻桜

第1話

わっちの名前は初雪でありんす。

吉原の中にある、『雪夜楼』、という遊郭の筆頭遊女。

筆頭遊女、とは、その見世の代表の遊女のこと。所謂、花魁、お職と呼ばれる立場。高級遊女。……と、言えば聞こえは良いでありんすが、ここ、雪夜楼の実態は――。


雪夜楼は問題を抱えた遊女ばかりの妓楼。

あっ、勘違いしないでおくんなんし!

わっちはマトモでありんす。

ただ、それでもこの雪夜楼に押し込められた理由がござんして……それは。

わっちのお客様、そして幼馴染である、中万時屋冬雪。

この男のせいでありんす。この男のせいで、わっちはこの妓楼に押し込められんした。


「初雪花魁。花魁道中をお願いします。」

花魁道中は豪奢で粋に、豪華絢爛、優美を着飾り。

高さ五~六寸ある高下駄に足を通し。

妹女郎とお揃いの意匠の着物を着て。

豪華絢爛な打掛を纏い。

外八文字と呼ばれる花魁道中時の歩き方でゆっくりと。

わっちを指名してくれた、主様の元へ参りんす。


わっちを指名してくれたお客様……主様。

まぁ、今日も……。

「初雪ー! 来たよー!」

わっちには、決まった主様が来るのでありんす。

今日もわっちを指名したのは、わっちが雪夜楼の花魁になる前からの馴染みのお客様。

わっちが雪夜楼に押し込められた、原因の男。


中万時屋冬雪。

わっちが雪夜楼の花魁になる前からの、一番の馴染みで、幼馴染の男。

大店の息子で、既にお店も手伝うという、仕事は出来る男でありんす。

ただ……とかくわっちのことを好いていて、毎日わっちに会いに来る……という変わった奴。わっちに会うのにはそうそう安いわけでもありんせんのに……。


今もまた、花魁道中で引手茶屋まで迎えに行って、宴席を設け、妓楼に戻ってきて、また宴席を設け終わった後の、夜も更けた、わっちのお座敷。

「雪音ー? どしたのー?」

「冬雪様。わっちの名前は初雪、でありんす。間違えないでくんなまし」

「どうして? 雪音は雪音だよ」

雪音……わっちの本名。

冬雪は、他の人がいる時や宴席ではきちんと源氏名で初雪と呼びんすが、二人きりになると必ず、雪音と呼びんす。

「ねぇねぇ、俺、前から言ってるけど、二人きりの時くらい廓詞やめない?」

そうして、この一言もついてきんす。

「冬雪様。

毎回言っているではおざんせんか。

廓には廓の決まりがござんすと」

「えー。

でも、昔みたいに冬雪って呼んで欲しいよー」

「……。」

私だって、好きで遊女をやっているわけじゃないわ。

その一言が口をついて出そうになって、わっちは我に返りんした。いけんせん……冬雪といると調子が狂いんす。

したが、わっちはこの男……冬雪のせいで雪夜楼に押し込められんした。


冬雪がただの幼馴染で、ただのお客様なら話は別でありんした。

わっちだって本当は、小さい頃……吉原に売られる前……そして今も。冬雪が好きでおざんす。幼き頃は、このまま、何事もなく、平和に。冬雪と所帯を持つ……そう信じていんした。

……吉原に来るまでは。

吉原に来て、冬雪と会えなくなって。

廓での仕事を知って。

嗚呼、もう幸せだったあの頃には戻れないと悟りんした。

だから、この気持ちに蓋をしんした。

そして、遊女として生きてきて、花魁になって。

ようやく、冬雪のことを吹っ切れそう……そう思った頃。冬雪がわっちのお客様として目の前に現れたのでありんす。

したが……前の見世から冬雪は変わってしまっていて、わっちに他のお客様がついた途端に、毎回必ず見世で問題を起こしんした。

刃物こそ取り出さないものの、大声で他の人の仕事の邪魔をしたり、見世の若い衆にとってかかったり、出禁にしても見世の前に毎日、何回も張り付いて……そんなことがずっと続き、とうとう、ここでは面倒を見切れないと、わっちごと雪夜楼に押し込められてしまったのでありんす。

雪夜楼は確かに問題妓だらけの見世ではありんしたが、格式はとても高いでおざんす。だからわっちも最初の方は、大丈夫、ここでやっていきんす、廓なんて、何処でも一緒なんでありんすから……と考えていんした。ええ、最初だけは。

でも、雪夜楼の遊女達の問題っぷりを見ていると……お職となった今は、心労だらけで……。……まぁ、冬雪と一緒にいられる方法がこれしか無いのなら、この世界、ここでやっていきんす。

先程言った通り、わっちに他のお客様がつくと冬雪は暴れ出す故、わっちのお客様は冬雪、たった一人でおざんす。ここに押し込められた時、ここの楼主さんが、それで構わないと仰ってくれんした故。

けれど床入りは一切しておざんせん。冬雪曰く、

「初めて枕を交わすのは、夫婦になってから。ね?」

……とのことでありんす。

とはいえ、わっちも遊女。冬雪と再会するまでは普通にお客様を取っていたし、床入りもしていんした。

だから、もう。今更――遅い。

……でもきっと、冬雪も分かってくれているはず。

だから、それまでは。冬雪と一緒になるまでは。

この歪な関係性を保っていんしょう――――……。




そして今日もまた、夜見世の時刻。

相変わらずわっちは冬雪をお客様に迎え、夜見世の宴会を開いていんした。

「初雪」

「あい、冬雪様」

宴席でも冬雪は幇間さえ気に喰わないのか、しきりにわっちに話し掛けてきんす。わっちに寄りかかったり、わっちがお酒を注ぐのを受けて喜んだり……。

「初雪。今日も綺麗だよ。初雪……!」

むぎゅう……。

……ここまであからさまにわっちへの愛が溢れるお客様は後にも先にも、きっと、冬雪だけでありんすなぁ……。

いつかこの先、わっちが普通の遊女として、お客様を取るか分かりんせん。わっちは遊女。冬雪にお客様として接してる以上、いつか冬雪も愛想を尽かしてわっちから離れていく可能性も否定は出来んせん。したが……それでも。それでもわっちは、この今を。かけがえの無い日常として過ごしていくしかありんせん――……。

「? 初雪、何考えてるの?

俺以外のことは考えないで。俺だけ見てて。

初雪、大好き」

「……冬雪様は相変わらずでありんすなぁ……。

わっちには、冬雪様以外見えていないと言ってるではありんせんか」

……これは私の本心だよ。

遊女として、今まで嘘を使うこともありんした。

けれど、きっと。

冬雪には届かずとも。

冬雪に対しては嘘偽りはござんせん。

だってわっちは、小さい頃から。冬雪が大好きなのでありんすから――……。


宴もたけなわ。お引けの時刻。

あれからわっちらは幇間や吉原芸者、新造の出し物を楽しみんした。冬雪は相変わらず、わっちにくっついて。それでも宴会は楽しんで頂けたようで、いつも通り、床入りの時刻まで笑顔を見せていんした。

そうして、床入りの時刻。

何回も言うように、冬雪はわっちとの床入りは望みんせん。わっちといられるだけで幸せだと。毎回そう言って、おんなじ布団で眠るだけ。

「雪音。」

でも一つ変わるのは。わっちの呼び名だけでありんす。

「冬雪様。わっちは初雪でありんすえ。」

「でも俺にとって雪音は雪音!」

「はぁ……もういいでありんす……。」

「わーい!」

はぁ……きっと、これ以上言ったって、きっと直りんせん。

わっちは、もう諦めることにいたしんした。

「冬雪様。お酒はどういたしんす?」

「雪音が注いでくれるなら飲むー!」

「あい」

ゆっくりお酒を注ぐ。間も、冬雪はお酒でなくわっちを見続けんす。

「冬雪様。そんなに見つめられると手元が狂ってしまいんす。

どうかお酒も楽しんでおくんなんし」

「んー? えへへー」

笑って誤魔化す冬雪。まぁようござんす。お酒を注ぎ終えた、その時。

「雪音」

声を掛けられんした。さっきまで、そして今までとは違う声色で。

「な……、何でおざんしょう……?」

「……ごめん、呼びたくなっただけ。」

冬雪はそう言うと、お酒を一口に飲み、

「寝よっか、雪音」

と。

冬雪は布団に潜り込み、わっちに笑顔でおいで、と言ってきなんした。その笑顔はいつもの冬雪で。


冬雪は何かを感じ取っていたのか。

はたまた偶然か。

この日を境に、わっちらの歪な関係は更に軋み始めたのでありんした――……。


「初雪姐さん、あーん……」

「もう、またでありんすかえ?

たまには自分で食べなんし」

「えー」

あの日から、一か月。

今は昼見世前の食事の時間。

わっちはお職ではありんすが、朋輩遊女との時間も大切にしていんす。朋輩遊女に、頭を痛めることは多々あれど、それでも一緒の見世にいる、仲間でもありんすから。

「あい、あーん。

はぁ……仕事中のしっかりした姿をこう……少しでも私生活に取り入れて欲しいでありんす……」

「えーだって、仕事は仕事、私は私。これが素の私だもーん」

「全く……」

「初雪ー! 見ておくんなんし! 見ておくんなんし!」

今度は別の妓から声が掛かりんした。はぁ……。

「落ち着きなんし! まずは食事を摂らないと!

わっちら上級遊女はお客様の前で食事が出来ないんでありんすから!」

「分かっていんすよぅ! でも好いモノ、盗れたんでありんす!」

「盗れたって、また……」

この妓が言う盗れた、は……お客の私物のことでありんす。要は、お客様の私物を盗む妓。

以前、本人にどうしてそんなことをするのか尋ねたところ……

『だって、わっちら上級遊女の客は金持ちばっかでありんしょう?

なら、好いモノを持ってるのは必然のコト……それをくすねるのが楽しいんでありんす!』

……と、眩いばかりの笑顔で説明してくれんした……。

まぁ、折檻もされないし、本人にそれでもお客様が付くのでありんすから、今のところ問題は無いのでありんしょう……仲間とはいえ、わっちも知らんぷりをしときんす。

「はぁ~! この簪! 誰にあげるモノであったのでありんしょうかねぇ~! うふふっ!」

盗れたと豪語する簪を眺めてうっとりした後、ようやく食事にとりかかってくれんした。

……はぁ……。

「初雪姐さーん」

「……。」

今度は何でありんしょう……食事という一つの休息が奪われそうな(いえ、もう奪われていんした……はぁ……)そんな予感に声を掛けてきた妓の方に振り向くと……。

「楼主さんが呼んでいんす」

「え?」

それは、新たな問題ではありんせんした。いえ、楼主さんのお呼びなら問題なんでありんしょうか? それでも。

「あい分かりんした。

食事が終わったら直ぐに向かいんす。

ありがとうござりんす」

したが、楼主さんから直々にお呼び……わっちは何も問題を起こした記憶がありんせん故、何の用事でござんしょう……?

……まぁ、取り敢えずは食事食事。問題妓だらけの妓楼。わっちの休息の一時を過ごしても、文句は言われんでありんしょう。


食事を終え、わっちは楼主さんの部屋の前へ。何を言われるのでありんしょう、と胸を鳴らせながら楼主さんの部屋へと入っていきんした。

「初雪。急な呼び出しによく来てくれたな。ご苦労」

「いえ、楼主さんの頼みとあらば」

楼主とは、妓楼の経営者のことでありんす。

「楼主さん、今回はどのようなご用件でござんしょう……?」

わっちもこの世界に身を落として、遊女として独り立ちして八年。何を言われても……落ち着いていなくては。

「あぁ、まぁ悪い話ではない。あー……捕えようによっては、悪い話かな?」

「……?」

「初雪」

「あい」

「お前がここ……雪夜楼に来た際、お客は中万時屋様だけで良いと言ったな?」

「あい、覚えていんす」

「それを、やめて欲しい」

「……え?」

その言葉に、わっちの頭は真っ白になりんした。雪夜楼に来て五年。五年間ずっと……冬雪以外のお客様を取ってない。それを、やめる……?

「ど、どういう事でありんすか?」

「……この見世も、問題を抱えた妓だらけではあるが、大見世で、それなりに名が通っている。

それで、この妓楼の最高位……お前を指名したいと話が来たんだ」

「……」

「いや、今まで本当は何回もあった。

最初は断ってもいたが、ここは遊郭。

最初の契約とは違うが……お前に客を取って欲しい」

楼主さんはそこまで言うとわっちの言葉を待ちんした。

冬雪以外のお客様を取る。つまり、冬雪以外に恋の夢を見せ、冬雪以外に抱かれる。

……そんなの、雪夜楼に来るまでは当たり前で。もう、この身体は――。

……わっちは、どうすれば。

……。

(……わっちだって、雪夜楼の遊女。雪夜楼の……お職。花魁。遊女なのでありんすから。

それに、冬雪と、完全な約を交わした訳ではござんせん。……)

「……楼主さん」

「はい」

「その話、お受けいたしんす」

わっちは、痛む胸を抑え、二つ返事でその話を了承しんした。


その日の夜見世。今日はまだ、新規のお客様を取っていんせん故、お客様は冬雪のみでありんす。

でも、それでも。

……わっちが冬雪以外のお客様を取ることは、冬雪に伝わってしまったようで。

「雪音!」

「……」

冬雪は、引手茶屋に着くなりわっちの源氏名も忘れて、わっちの方に掴みかかってきんした。

「雪音! ねぇ雪音!」

「……」

「何で? 俺以外の客は取らないでって言ったじゃん!」

「……。

……わっちも、遊女でありんすから」

心を、殺して。冷たく言い放つ。

「俺が毎日来るって、毎日指名するって……!」

「……」

冬雪は、項垂れてしまいんした。

「俺……調べたんだよ……?」

……項垂れたまま、冬雪は語る。

「雪音が遊女になっちゃうって……吉原に連れて行かれたって聞いて……まだ禿だからお客は取らないって安心して……でも、雪音がお客を取るのが俺の予想以上に早かった。当たり前だよね、だって雪音美人だもん。

だから俺、雪音の源氏名を調べて、何処の妓楼に居るかも調べて……調べて調べて調べて……ようやく、ようやく見つけた! それなのに!」

冬雪が顔を上げる。その瞳には。

「雪音は、他の人と歩いてるんだもん……」

涙が……浮かんでいんした。

「……っ!」

わっちもその涙に引かれ、泣きそうになりんした。

どうすれば良かった?

楼主さんの話、断れば良かった?

それとも朋輩遊女のようにお客様を取らなければ良かった?

分からない。分からない。分からない。

……でも、それでも。

「……わっちは、遊女でありんすから……」

泣きそうになりながら、この一言しか、言えんせんでありんした――……。


あれから二日、経ち。

冬雪はあの後、逃げるように引手茶屋を飛び出して行って、それ以来、わっちに顔を見せなくなりんした。

……わっちは、後悔していんす。

それでも。それでも。

わっちは遊女で、呼出しの妓。

お勤めを、しなくては。

とはいえ、まだ新しいお客様は迎えていんせん。

したが、新しく迎えるお客様に粗相をしない為、お客様がいない間……冬雪も来ない間。わっちはお稽古に励んでいんした。

嗚呼良かった。遊女として学んできた事は、未だ色褪せてなかった。それが嬉しい事なのか、嬉しくない事なのか、分からないまま。


それから日が経ち。

わっちが、冬雪以外のお客様を取る、日になりんした。

……今日からまた、新しいお客様をお迎えしんす。まずは「初会」――。

……ここで「振れば」冬雪以外に抱かれずに済むのかな。そんな事を、考えてしまう。けれど。

「初雪花魁。初会の準備をお願いします」

「……あい」

時間は過ぎる。気が重い。それでも、やると言った手前やらなければなりんせん。

わっちは部屋を出て、初会を行う引付座敷へと向かいんした。


「初雪花魁のお入りです」

見世の若い衆の合図と同時にわっちは引付座敷に足を踏み入れんした。

……冬雪以外のお客様なんてほんに何年ぶりかのこと。

粗相のないようにしんせんと。

初会はつれなく。

わっちは上座に座り、視線を逸らしつつお客様……主様を見んす。

主様の表情を伺いんすが……冬雪みたくデレデレではありんせん。

嗚呼……ここでも冬雪のことを考えてしまって……わっちは、雪夜楼に来る前の元のわっちに戻れるのでありんしょうか……?

いいえ、ここは廓。生きていく為には――いつか、冬雪と一緒になるまでは。頑張ってこの世界、生きていきんす――……。


初会を終え、この前の主様はまた「裏」を返しにわっちの元へ来て、そうして、今日は馴染みとなる約束の、登楼の日。

冬雪はその間、ほんに一度も来てくれんせん……。……今日、私抱かれるんだよ? 冬雪以外の人に。嫌だ嫌だ嫌だ。冬雪がいい。冬雪に抱かれたい。抱かれたいのは、冬雪だけ。それなのに。

……馴染みとなったお客様との宴会の前に、わっちは部屋に籠っていんした。

そうして……。

「うう……っ! ぐすっ……。う、うわあああん……!」

まるで幼子のように、泣き喚いてしまいんした。

冬雪。冬雪。冬雪!

逢いたい、逢いたいよぉ……!

わっちはただ、泣き喚きんした。

今だけは、冬雪を想って泣かせて……。


「初雪花魁。道中の準備をお願いいたします」

「……あい」

お昼にわんわん泣いた後、わっちは心の準備を整えんした。

わっちは遊女。わっちは花魁。この「張り」と「心意気」だけは大事にしいせんと。

したが……気が重い。

それでもわっちは道中の準備に取り掛かりんした。

全て確認し終え、問題なく。

「皆さん。よろしゅうお願いいたしんす」

また、嘘で塗り固める毎日が始まるのね、なんて考えながら。


「ようやく、ようやくだ。待ち侘びたぞ」

「主様、わっちを選んでくれてありがとうござりんす。

わっちと楽しい刻を過ごしんしょう?」

宴会を終え、お引けの時刻。

宴会での主様は、冬雪と違い、何だか……そうでありんすね、ケチな御方だと感じんした。したが、どんな御方であろうともやって来た……床入りの、時間。

遂に、この時がやってきんした。

馴染みとなったお客様。わっちのこれからの……新しい主様。

さっきまで泣き喚いていたわっちとは違いんす。覚悟を……決めんした。

「雪夜楼は問題を起こす遊女ばかりだと聞いていたが……お職はなかなかに、上玉じゃないか」

「ふふ、ありがとうござりんす」

主様と、布団の上で取り留めの無い会話を交わしんす。……その時になれば、体に染みついた作法や嘘が出てきいした。わっちは安堵していんす。これならきっと、やり遂げられる――……。

「さて、ではそろそろ……」

「あい、主様。

主様の愛で、わっちのこと、滅茶苦茶にしておくんなんし……?」

主様の耳元で、詞を囁く。

主様が着物を脱いでいく。

冬雪――。

主様が服を脱ぎ終え、わっちの体に触れる。……少し鳥肌が立ちんしたが、知らん振り。それを感じ取られないように、言葉を交わす。そしてとうとう、わっちの着物をも脱がそうとした、その時。


『雪音っ!』


「……っ!」

冬雪が、冬雪のあの明るい笑顔が、脳裏に――。


「嫌っ!」


――――っ!


「あ……」

……体が、勝手に。

……主様を、拒みんした……。


……やってしまった。

どうしようどうしようどうしよう……っ!

主様、怒ってる。

こんな時の対処方なんて知らない。頭が働かない。いや違う。なんとか、なんとかしなきゃ。

必死に頭を働かせ、なんとか取り繕おうとしたが……。

「もう良い」

「え……?」

「もう良いと言っておるのだ!

何だ全く!

雪夜楼はやっぱり問題しか抱えておらんのだなっ!」

……主様はそう言うと、脱いだ着物を抱え、座敷を出て行きんした。

座敷には、わっちが一人、残されたままで……。

わっちはただ、茫然と座り込むことしか出来ないのでありんした。

けれど、それでも。

私の頭は、冬雪との約束でいっぱいだった――。




馴染みとなったお客様を拒んでしまってから数日。

わっちは、食事すらまともに摂らずに自室で引き籠ってしまいんした。

……こんなの、お職として失格よ。

朋輩遊女も、妹も、遣手婆も、楼主さんも。皆心配して部屋の前まで来てくれなんすが……わっちにはそれに応える気力さえ、湧かないのでありんした。


そんなことが続いて数日。ある日の昼見世の時刻。

「初雪姐さん」

こうなったわっちにもまだ、声を掛けてくれる仲間の遊女が。

「…………」

「襖越しに失礼いたしんす。

初雪姐さんに、どうしても会いたいという方が……」

「……誰」

「……中万時屋様にござりんす」

「……っ!

通してっ! 通しておくんなんし!」

わっちは襖を大きな音を立てて開けんした。したが……。

「今は断りんしたよぉ~! 流石に急過ぎんしたし……それに、そんなボロボロの状態の初雪姐さんを見せるワケにはいけんせん」

「そんな……」

「だから!

夜見世に、もう一度来て頂く形にしんしたよ」

「……っ!」

夜見世に……来てくれる。

冬雪に、逢える……!

「だから、取り敢えず、しっかり食事を摂りんしょう? 湯屋にも行って体を清めて。

ちょっと遅い時間にはなりんしたが、髪も伊達兵庫に結って貰って。初雪姐さん自慢の綺麗な着物を着て。美しい化粧をして。

いつも以上に綺麗な初雪姐さんを、中万時屋様に見て貰いんしょう?」

「……! うんっ!」

廓詞も忘れて。わっちは、久々に、心の底から笑いんした。


「皆さん。……お久しゅうありんす。久々ではありんすが……道中、よろしゅうお頼み申しんす」

あの後わっちは、言われた通りに、しっかり食事を摂り、湯屋に行っていつも以上に念入りに体を洗って。髪もお願いして結って貰い、着物も……雪があしらわれている意匠のを選んで。お化粧も、丁寧に、美しくなるようにして。

準備を。整えんした。

「あい!」

みんなは、わっちがこうして出て来るのを待っていてくれたみたいで。……ほんに、嬉しい限りでござんす。

「では……お願いします」

若い衆が見世の入り口の暖簾を開けんした。

そこには、わっちを見ようと待つ、吉原のお客様達。いつもの、光景。

わっちは深く安堵し、一歩を踏み出しんした――。


「……雪音」

「……冬雪」

名前を、呼び交わす。

道中や、全ての宴会を終えて、二人きりの、わっちの座敷。

宴会での冬雪は落ち着いていんした。

いつもみたくわっちに引っ付くでもなく、無性に語り掛けて来るでもなく。

ただ、わっちの隣で、笑顔を見せてくれていんした。

その間……あまり言葉を交わしていんせん。宴会も他愛の無い会話ばかりで。

だから……言うなら、きっと今だ。

「冬雪。あのね……冬雪以外にとった、お客様のことなんだけど……」

「聞いてるよ」

「え?」

「聞いた。全部、聞いたよ。

お客さんを、拒んだことも」

「……そっか」

「それって、俺がいるから?」

「……うん」

もうとっくに気付いていた。わっちは、私は――

「……俺じゃなきゃダメ?」

「……ダメ。

ダメなの、もう。

私、もう冬雪じゃないとダメなの……っ!」

「雪音」

私は、力強く抱き締められた。

「俺、ここに来られなかった間、父さんを説得したんだ」

「え……?」

説得……って、何の……?

「雪音と一緒になりたいって。雪音じゃなきゃダメだって。

俺が人一倍頑張る。必ず、みんなが納得いくようにするって」

「冬雪……。」

「だからね、雪音。

ウチにおいで。」

「……っ!」

「……さっき。昼見世の時。

楼主さんに話をしたんだ。

初雪を、身請けするって」

冬雪が、私を身請け。それは。

「私、隣にいていいの……?」

涙が、浮かぶ。

「うん。

俺の傍に居て欲しい」

「本当に……私を、妻に……してくれるの……?」

「うん。

俺と、ずっと一緒に居て」

「……冬雪……っ!

ありがとう……ありがとう……!」

私は、冬雪を抱き締め返す。そうして。

「私、冬雪の妻になります……っ!」


「雪音。口付けしよう?」

「……花魁の口付けは、お金では買えないのよ?

本当に、冬雪が初めてだからね。私の口付け。」

「うん。俺の為にとっておいてくれてありがとう。」

「冬雪。

大好き。愛してる……!」


そうして私達は、永久の約束の、口付けを交わした――。

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