海に沈むジグラート34

七海ポルカ

第1話


 

 ――あたたかいなあ。



 ぱち、と目を覚ますと、フェルディナントが隣で眠っていた。

 目覚める前は、彼はそこにはいなかったから、ネーリが眠った後に、帰って来て眠ったのだろう。

 そういう時、フェルディナントはネーリを起こしてはいけないと思うらしく、今ではピタリとくっついて並んだベッドに、慎重に潜り込んで来て、少し離れた端側の方で眠りにつくようだ。

 ネーリは逆に、フェルディナントが寝ていた場合起こしてはいけないとは確かに思っているのだが、ベッドに入って、隣にフェルディナントが眠ってくれているのを眺めていると、嬉しくなって、背中や胸にくっついて寝てしまう。

 結局フェルディナントを起こしてしまったりして、申し訳ないのだが、

 くす……、

 今日も、起こさないようにと気を付けながら、そこにあった手に、慎重に手を重ねただけなのに、微笑う音がして、フェルディナントの天青石の瞳が開いていた。

 起こしてしまって悪いなあと思うのは本当だったのに、彼の瞳が目を覚ましてくれると、嬉しいと思ってしまう。

 ごめんね、ネーリが小さな声で言うと、彼は何を謝ったのかな、という表情を見せた。

「起こしたかったわけじゃないんだけど」

「触れれば起きるよ」

 フェルディナントは笑っている。

 ネーリはよくフェルディナントが寝入ってるところを起してしまうが、彼に怒られたことは一度もない。

 やさしい人だなあ。

 ネーリはあまり、人と一緒に暮らしたことがないから分からないけれど、普通人は寝てるところを起こされたらもっと怒るんじゃないだろうか。

 フェルディナントも一時期驚いていることはあったが、怒ったことはない。

 以前怒られたのは忍び込んでこっそりくっついていたからだし、一緒に眠るようになってからは、一度も怒られたことがない。

 嬉しいけど、悪いなあとは思っているのだ。

 そして優しいひとだなあ、と実感する。

「そんなことない。前はフレディの背中にくっついても起きなかったもん」

 うっ、とフェルディナントが詰まる。

 確かにそんな時期があった。

 ネーリが忍び込んで来ても一切気付けなかった。信じがたいことに、背中にくっつかれても胸に寄り添われても全く気付けなかった時期がある。しかし最近はネーリが側に寄ったり触れて来ると、必ずフェルディナントは気付けるようになった。

「どうして分かるようになっちゃったんだろ……」

 ネーリが少しだけ唇を尖らせているのが可愛かった。

 いくら彼に惚れててもそう何でもかんでも主導権を渡すわけにはいかない。

「なんだ。俺が起きると不都合なのか?」

「ちがうよー。フレディ忙しい間を縫って寝てるから起こすの悪いなって……」

 それなら触らずにいればいいだけなのに、手を重ねて来るネーリの心を、フェルディナントは想った。

 横向きに、片腕で頭を支え、ネーリに向き合う。

「……俺はお前とこうやって二人だけで夜に話すのは好きだよ」

 ネーリはきょとんとした顔をした。

 フェルディナントは目を瞬かせる。

「なんだよきょとんとした顔をして」

 まさかまだ、愛情が感じられないとか言うんじゃないだろうな、と思ったが違った。

「……ううん。なんか、フレディ……最初に会った頃と変わったなと思って……」

「そうか?」

「そうだよー。最初もっと……」

「……なんだよ」

 ネーリが言葉を止めたので、フェルディナントは促すように額を撫でた。

「……もっと、こっちに向かって心に壁があった感じした。嫌な感じじゃないんだよ。そうじゃない。君は国の為にヴェネトに来た。しかも単なる外交官とかじゃなく、もっと緊張した任務を背負って、……傷も背負って、来たから。無邪気になれない気持ちは分かるから、嫌な感じのものじゃないけど……心を開いちゃダメなんだって、陰に籠ってる感じ……。もっと『今』とか、仕事に集中してるっていうか……集中しなきゃダメなんだって、君自身が自分に課してた」

「冷たい嫌な奴に見えたか?」

 ネーリは微笑む。

「ううん。ぼく、フレディが自分は頑張らなきゃって思って背負い込んで頑張ってる姿とても好きだよ」

 きっとその時は好かれてなかったんだろうな、と思ってフェルディナントはそう言ったのだが、間も置かず自然に否定をされて、思わず赤面する。

「……心を閉ざしてたわけじゃないけど、集中しなきゃとは思ってたな。

 全てを犠牲にして、ここに来たから。

 せめて何かを成さなきゃダメだと思ってた。

 でもその何かが、その時はまだ分からなくて」

「……今はわかる?」

 わかるよ。

 フェルディナントは言った。

 彼は慎重な受け答えをする人なので、こうやって即答するということは、相当心が固まっているということだ。

「とにかく【シビュラの塔】を何とかして、もう、誰も二度とあれを撃てないようにして、あんなものに日常の平穏や、未来の希望を奪われるかもしれないと、誰も思わないで済む世界にして。……そして神聖ローマ帝国に帰国する」

 フェルディナントの手が、ネーリの手の甲に重なる。

「お前を連れて、帰国する。……一緒に暮らして行くのが夢だ」

 ネーリの瞳がフェルディナントの方を静かに見つめてくれる。

「……ちょっと欲深かったかな」

 ネーリは、フェルディナントらしくていいなあ、と思って言葉を発さなかっただけなのに、気にしたようにそんな風に言ったフェルディナントの優しさを、彼は穏やかな笑みで迎えた。

「そんなことない。……数少ない願いだけど、一つ一つをとても大切に、君が思ってるのが分かる。全部叶ってほしい。……ううん。フレディならきっと叶えられるよ」

 フェルディナントはネーリの頬に触れた。

 前は届かない距離にあったけど、ベッドがくっついたおかげで伸ばしただけで手に触れる。

 ……本当は今だって、夢みたいだ。

 ゆっくりと、抱き寄せる。

「ヴェネトに来た頃、……お前に会う前だ。街の守護職を命じられたけど、自分の国を滅ぼした国の、民を守らなきゃいけないということは、集中力がないと、俺には出来ないことだったんだ。

 騎士の務めや、俺をここに派遣した皇帝陛下の期待に応える働きをする、それに徹する事で、力のない民を守るという仕事と、辛くも折り合いをつけてた。

 きっと俺は……皇帝陛下から、竜騎兵団を率いてヴェネツィア王宮を急襲し、国王と王妃、王太子を殺害もしくは捕縛しろと命じられれば、喜び勇んでこの国に来たんだと思う。その方がずっと、余計なことを考えずに済んだ。自分の中の憎しみに集中すればいいだけだったから」

 ネーリは彼の腕の中で密かに、息を飲んだ。

 王太子。

 ――ジィナイース・テラ。

 自分が王宮にいたら、この人の刃を受ける立場だったのだ。

「その方が余程、気が楽だった。

 自分の国の仇を討てるなら、迷いはなかったしな。

 でもその場合、この国に来たらやることは一つで、街を歩くこともなかったし、あの綺麗な干潟の景色も知ること無く、……お前の教会に行くこともなく、絵も見れなかった。

 お前にも会えず、俺は死んでたかもしれないんだ。お前を知らない時なら、失われた自分の国の為に命を投げうつことも、喜びだと思えたかもしれないが……」


 今は、無理だな。


 フェルディナントが優しい声で笑った。

「……今は俺をこの地に導いた全ての運命に感謝してる。

 お前と出会わせてくれた全てのものに……。

 俺が生きるために、それは不可欠だった」

 自らを語るということを苦手とするフェルディナントが、言葉を尽くしてここまでのことを言ってくれている。

 何も返せない、不誠実な自分にネーリはがっかりしたが、それは、進むべき道に対して前向きにもさせてくれた。

 まだ終わってはいない。

 今は何も誠実な言葉を返せない自分でも、まだ未来は変えられるかもしれないのだから。

 絶望はまだ、しないでいい。

(強さを分けて)

 ネーリはフェルディナントの温かい身体に腕を回した。

 抱きしめる。

 彼も同じようにそうしてくれた。

(君の強さを。

 僕がきっと真実を持ち帰って、全てを君に話すから)


 すきだよ。


 ネーリから聞こえた小さな言葉に、言えない言葉をたくさん、身体に抱え込んだ彼を、フェルディナントは力を込めて抱きしめた。

 少なくともその四文字は――ネーリの中で、語れない言葉じゃないということだ。


(それなら俺は、全てを受け止められるよ)



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