拝啓、余命3日のダウナー先輩へ。

きびだんご先生

【1】邂逅、ダウナーなあの人。

「君の一瞥をくれ。君の唇をくれ。君が付けた傷をくれ。……私に生きた証をくれ。」


深夜2時。喧騒も暗がりに沈んだ都会の一端で、力なく先輩はそう言った。どうしてと問えば「それが必要だ」と返ってくる。怖いのだろう、辛いのだろう、……きっと悔しいのだろう。

暗闇に目も慣れてきた頃、先輩の姿が目に映る。"何も無い"部屋のなかで、今にも消え入りそうな瞳を俺に向けている。

ああそうか、きっとこれは……。気付いてしまった。気付いてしまったのだ。気付かなくてもいい事に、気付かない方が束の間だとしても幸せだった事に。

そうして俺は先輩に一つ質問をする。


「先輩。あなたは、----でしたか?」


これは『俺』の話。名前すらここに書くまでもないほど普通で、ありきたりな一人の大学生が過ごした……たった数日の恋路。

その最初で最後の記録。

______________________________________


12月27日、だらしなくついた吐息も凍る冬の深夜。マンションのベランダでくだらない都会の喧騒を眺めながら酒をあおる。

目下に瞬く人の享楽の輝きは静かな夜にとってノイズそのものだ。孤独な自身との対比を見せられているようで吐き気がした。


「はぁ…くだらね。」


こうして不貞腐れているのにも理由があるのだ。


「ただ身勝手に俺を好きになった女をフッただけだろ…。悪い噂も沢山ある奴なのに、なんで俺が悪いみたいな……。ん、もう深夜0時か。」


部屋の中にある掛け時計を一瞥しつつ、ボヤいて自分は酒の缶を開ける。カシュッ…と小粋な音がベランダに飽和する。真冬の寒さは部屋着の俺には堪えるが、それでも現状の煮え切らない想いを気にならなくするには十分だった。


「はぁ……20歳の誕生日おめでとう、俺。」


ベランダでただ一人、自身の生誕を祝う。俺には家族がいない。父も母も、早くに他界したのだ。俺が生きるのに充分過ぎるほどの金を遺していって。ほかに身寄りもなかった俺は、一人で残りの人生を過ごすことを迫られた。悲しいと思うことはなかったが、世界に自分一人だけしかいない様に感じた。それが少し……。


「一人には慣れてきたと思ってたんだけどなぁ。ん、もう酒無くなったか。買いに行くのも面倒だな。」


右手に空いた缶を持ちながらうつ伏せで前かがみに柵にもたれ掛かる。このさき生きていても一人なら……いっそこのまま落ちてしまえば…。そう思っていると、


「要るかい?」


マンションのベランダを仕切る板の向こうから、唐突に酒を持った手が出てきた。

スラッとしている手と低いながらも明らかに男性とは違う声をみれば、それが女性のものである事は明白だった。


「え……どうも。」


少しの戸惑いを押しくるめて酒を受け取ると、仕切りを乗り越えるようにして女性の顔が俺を見る。青がかった黒髪のふわっとしたウルフカットに眠たそうな瞳をしたその女性は、ニヤリと笑いながら俺の表情を覗く。雰囲気としては、ダウナー…とでも言おうか。ともかく不思議な感覚がしたのだ。


「いや、いいんだよ。隣なんだし酒のひとつぐらいさ。」


そう言って微笑みつつ、ゆらゆらと頭を揺らしているその人は、落下する危険も気にしていない様だった。


「えっと…そんなに柵に寄りかかると危ないですよ?」


訳もわからぬままそんなことを言ってみると、


「ん?いや別にいいんだよ。変なことを気にするんだね。それよりも君、いま暇かな?ちょっと近くで遊ばない?」


「……はい?」


名も知らぬ女性は、唐突にそんなことを言いだすのだ。不審に笑ったままの顔は、なにか企んでいる人のそれだ。それに、女性がいま会ったばかりの男と出かけるというのは少し問題があるのではないか。


「暇っすけど、その…無いんすか?警戒心とか。」


「私?問題ないよ?年上のお姉さんの逆ナンなんて珍しい体験だろ?それにちょっとそこら辺を歩いて遊ぶだけだよ。」


「ナンパって……。」


そうして考える。逆ナンは貴重な体験?いや、そんなことはどうでもいい。特に悪い人には見えないし、どうせ暇だったのだ。自身を心配する人もいないのだし、気晴らしにはいい機会だとも感じた。


「あー…じゃあまぁ準備してきますんで、ちょっと待っててください。」


「警戒心ないんだね君。」


「それあなたが言います?」


そう言って外行き用に準備を済ませると、隣の部屋に行く。ピンポーンッとインターホンを鳴らすと、その奥から声が返る。


「あーちょっと待っててくれ。今日は冷えるから、何着てくか迷っててね……よし。」


続いてドタドタと足音がこちらに向かってくると、キィ……と軋む音とともにドアが開いた。

中からは膝下まで伸びる黒のロングコートの中に白のセーター、そして黒色の少しダボダボのズボンを着ているウルフカットの女性が現れた。


「やぁ、どうだいこの服?」


ほぼ初対面、尚且つ今までに女性との付き合いも無かった俺にはなんと言っていいものか。

ぼっち生活の中で培った語彙力が試される時だ。


「男の人がよく着そうっすね。」


不意に漏れてしまった感想だった。失敗したと心から後悔したが、存外悪い結果にはならなかった。


「そうかな?まぁ、確かに私は女らしい女じゃないけどね。似合ってはいるのかな?」


「それはもう」


「…そうかい。」


ふふふ…と微笑みながら女性は笑う。少し食い気味に答えてしまったのもあって、それを見て少し気はずかしいものを感じた。

そういえば未だに名前すら知らないのだ。そう思い聞こうとすると、


「ほら、そんな事よりも時間は待っちゃくれないんだよ?行くぞ!」


そう言って俺の手を掴み有無も言わさずに引きずられてしまった。

それからは闇に沈んだ街を練り歩いた。彼女は俺の知らない道もよく知っていて、普段とは違う自身の街の様相を知ることができた。

最初はカラオケで2時間ほど歌った。彼女の歌うものは有名どころが少なく、幻想的な曲や儚い雰囲気の曲が多かった。それでもとても上手かったので、思わず聞き入ってしまった。

次に、ショッピングモールで買い物をすることにした。

この付近では1番大きな場所で24時間ぶっ続けで営業しており、昼間はゲームセンターなども内包する活気あふれる所であった。

そんなモールの家具コーナーで、何かいいものはないかと彼女は吟味する。探しているその様子は雪原で跳ねるウサギの様にも見え、少し微笑ましい。


「ん〜……。」


そう言って彼女はまじまじと1つのクッションを見ていた。大きさは人の頭がのる程度で、まるまるとしたフォルムにスベスベした触り心地が気持ちよく、タイトルには"人類を堕落させる絶望のクッション"と書かれていた。しかし値段は無情の20000円。……なるほど値段も絶望的だ。おそらく値段がゆえに手が出しにくいのだろう。


「あの、欲しいなら俺が買いましょうか?」


そう言うと彼女はひどく驚いた顔をして、


「ほぇ!?」


と声を漏らした。


「しまった顔に出てたか?いや、いいんだよ気にしなくて。」


と彼女は慌ててその話題を切り上げようとした。

しかし俺はあの物欲しそうな顔が忘れられなかったので、


「いや俺自身お金に困ってはないですし、買いますよ。プレゼントってことで。」


そう言ってお返しとばかりに有無を言わさずレジへとそのクッションを持っていき、彼女に渡した。


「あ…えと、すまない。……ありがとう。ふふ。」


困惑し、しおらしくなりながらもはにかむような笑顔を見せる彼女。

それを見るといい事ができたのだと俺自身少し嬉しくなった。そうして次の場所へと俺は連れていかれた。彼女曰く「そんな貰ってばかりではいけないから次の場所で美味しいものを奢る。」との事だった。

そうして最後に、深夜でもやっているという喫茶店に入った。中はウッド調で北欧風の趣のある様相で、人もあまりいないようだったので角のテーブルへと俺達は座った。すぐに店員が来たが、特段お腹も減っていなかったのでコーヒーのみを頼むことにした。少しするとサービスのお冷も持ち寄られた。


「こちらお冷になります。」


「ありがとうございます。」


店員が去るのを見計らってか、先輩は俺に、


「ちょっと、私が奢るんだからもっと食べたまえ?」


等と愚痴を漏らすのだ。


「いや、そんなにお腹も減ってなかったので……。それに、あればプレゼントですからそんなに気にしなくてもいいんですよ?」


俺がそう言うと、先輩は少し語気を強める。


「いや、最早これは先輩としての矜恃だぞ!後輩にあんな高いもの奢られっぱなしってのもカッコ悪いだろう?」


「ははっ、そういうもんなんですかね?」


「そういうもんなんだ!」


ぷくりと頬を膨らませながら怒る先輩。凛として頼れる印象も持ち合わせながら、こう見ると小動物のような頑固さや可愛らしさもある。しかしながら俺には掴みどころのない人にも見えた。


「はぁ…それにしても今日は疲れましたね。」


話を変える意味も含めてそんな事を言ってみる。


「ふふふ…そうだね。結構歩いたけど……ちょっとは楽しめたかな?」


「そうですね。久しぶりに楽しかったです。ありがとうこざいます。」


「いいんだよ、私も楽しかった。20歳の後輩がそこで酒を飲んでる位なら、これがいいのさ。」


そうしていると違和感に気がついた。なぜこの人は初対面の俺が年下だと分かったのか?

お互い様相を見ても年齢的に差は無いように見えるのに。


「あの、何で俺が年下だって分かったんですか?」


そう聞くと、彼女は少し不思議そうな顔をする。


「おや、覚えてないのか。いや一方的に私が覚えているだけか……。君、今日女の子をフッて白い目で見られていただろう?」


「何でそれを……あっ、もしかして同じ大学ですか?」


言われて気づいた。おそらく見られていたのだ。それにしても、あんな所を見られるとは恥ずかしいものだ。そんな俺をよそに彼女は先に置かれたグラスの氷を揺らしながら俺を見る。


「おっ気づいたね?そう、同じ大学の先輩だよ。私は4年生でね。まさか隣だとは思わなくて、これも何かの縁かと思わず声をかけてしまったんだ。」


「先輩だったんですね…。すいません、お見苦しいところを見せて。」


気恥しさを隠しながら先輩を見る。

先輩はずっとニヤリと笑ったままの表情を崩すことなく受け答えをする。


「君に非はないだろう?あの娘の悪い噂は私達にも聞こえていたことだし。それより君、大晦日あたりまで暇かい?」


「はい?」


思わぬ質問に、ほうけた声が出た。しかし、先輩はそんな自分を気にしないで楽しそうに続ける。


「いや、今日は存外に楽しかったからね。もしお互い独り身で新年まで何も無いのなら、こうやって毎日私と遊んで過ごすのも悪くないだろう?」


「いや、それはいいんすけど……先輩の家族とか心配しません?」


そう言うと、先輩は少し気だるそうに答える。


「ん〜?心配する家族なんて私にはいないよ。死んだからね。」


「えっ」


そうして話を聞くと、数年前に他界したとのことだった。無礼を働いたと謝ろうとすると「気にするなよ〜。」と先輩は笑いながら言う。


「そういう君も、独り身と決め込んでしまったが家族が心配しないかい?」


「大丈夫っす。俺もいないんで。」


「ごふっ……おっと、すまない。失礼な事を聞いてしまったね。」


予想外で驚いたのか小さく先輩は吹き出した。そうして申し訳なさそうに目を伏せるので、


「あぁいえ!……まぁ、オアイコってことで。」


「そうだね。」


笑いながらそう言ってその場をおさめた。

そうして思った。自身と同じ者がいる。同じ境遇で一人過ごしてきた人が。そう考えると、思わずつぶやきが漏れた。


「……初めて人に会えた気分だ。」


「ん?何か言ったかな?」


「あっ、いやなんでもないんです!気にしないでください。」


「ん〜?そうかい?ならいいんだが…。」


笑って誤魔化そうとする俺をよそに、先輩は揺らしているグラスの氷を見つめる。氷は、カランカランと冷ややかな音を奏でながら暖色の照明をその内に孕む。まるで冷ややかだった俺の心身に暖かみが芽生えたかのように。

そうしていると、忘れものを思い出すように先輩は俺に尋ねる。


「あ、それでどうだい?返答はいかに。」


「ははは、そういえば本題はそっちでしたね。いいですよ。先輩さえよければいつでも付き合います。」


そう伝えると、普段低い声を少し高くして先輩は手を伸ばし俺の肩をバシバシと叩く。

ほんの少しも下心がなかった訳ではない。先輩は変わった人だが、誰が見ても美人と答えるだろう。

それよりも、人に求められるというのは存外悪い気はしないのだ。


「あぁそうか!あ〜良かったよ。私までフラれたらどうしようかと!」


「そんな……。」


苦笑いをする自分をよそに、先輩は嬉しそうに笑い続けている。そうしているうちにホットコーヒーがやってきた。そこからは湯気を挟んで様々なことを話した。学校のこと、自分の知らぬ行きつけの店の話、これから何をするか。

1時間ほど時間を潰した後、帰路についた。

道中、寒空の住宅街でポツンと街路灯に照らされ立っていた自動販売機を見つけ、そこでも暖かい飲み物を買う事にした。


「ほいっ後輩くん」


そう言って先輩は買ったばかりの温かいブラックコーヒーを投げ渡してくる。

両手で受け取って先輩を見る。


「ありがとうございます。それにしても寒いですね。」


寒空の中を白い吐息だけが溶けて、静かな冬の夜空に広がる星の喧騒さえ塗り潰した。今この星々の下には、俺達だけだ。


「ああ、今年は大寒波かなんかが来てるそうだよ。この分だと新年が明けても続くだろうね。……まったく心の臓まで凍りつきそうだ。そういえば、改めて聞くけれど今日はどうだった?」


「よく分からないままに始まった今日の遊びですけれど、今日は楽しかったですよ。来年もこうやって過ごせればいいですね。」


そう笑いながら言うと、どうしてか少し先輩は暗い表情を見せた。いや、そうではなく……、これはどこか悶々としているような、苦しい何かを抱えているような……。


「ぁ……ああ、そうだね。来年も、きっと。」


「…?先輩、どうかしたんで……」


「ん、もうそろそろだね。ここでゆっくりしていても寒いだけだし、早く行こうか。」


そう言って先輩は俺の言葉を阻み、足早に家に向かおうとする。

先輩の様相は少し奇妙にも映ったが、気にしない事にした。

そうして十数分ほど歩いたのちに、俺達は自身の住んでいるマンションに着いた。

マンション備え付けのエレベーターを使い部屋まで歩いて向かった後、自身の部屋の前に立った。

鍵を持ち部屋のドアを開けながら俺は先輩に別れの挨拶をしようとする。


「先輩、今日はありがとう……」


先輩を向き言いかけたところで、俺の思考は止まる。扉に寄りかかるようにして倒れ込み、口元をおさえる先輩。口に添えられた細い指の間からは赤い液体が滲み、それが血であることは考える間もなく理解できた。


「先輩!?」


驚きつつも先輩に駆け寄り介抱する。背中をさすりながら口元を見ると、尋常ではない量の血液が確認でき、先輩は苦しそうに呻いていた。

呼吸が上手くできないのか、カヒューカヒューと空気の甲高い音も聞こえた。


「ゴホッガホッ…。あ"……うぁ……。」


「先輩ッ!大丈夫ですか!?」


「……あぁ、まったく間の悪い。せっかく…我慢してたのに。最後の最後で…台無しじゃないか……。」


「今救急車を呼びますので……。」


「いやいい。大丈夫……。」


左手でスマホを取り出し、救急車を呼ぼうとすると先輩が俺の手を掴み止める。依然として苦しそうな表情の先輩を見ると、やはり大丈夫な人間のそれには思えなかった。


「ちょっと先輩!?大丈夫じゃないですって!」


そう言っても、やはり先輩は俺を止めようとする。見ると、少しずつだが顔色も良くなったように見受けられ、呼吸も正常なものに戻っていた。


「いや本当に大丈夫だよ。すまない……心配させてしまったね。いやはや本当にカッコ悪い…。」


「先輩……?なんですか今のは?」


少しづつ落ち着いてきた先輩に、俺は聞く。驚きなどとうに失せ、目の前の人物に対する心配だけが俺を包む。先輩は少し困った顔をして答える。


「んん、まぁ気になるだろうね。心配もかけてしまったし、言うしかないか。ええと……。単刀直入に言うとね……私、もう永くないんだ。」


「……え。」


急な話に頭が真っ白になった。単調な母音と疑問符しか喋れなくなった俺を見たあと、先輩は自身の胸に指の先を向ける。

言われずとも『そこ』が心臓の位置であることは直ぐに理解できた。


「昔からここが悪くてね…。アイツ……父親が死んでからここ数年で急激に悪くなったんだ。何とも珍しい不治の病だとかで、1000万分の1だか1億分の1だか……途方もない数字を医者に並べたてられたよ。」


「そんな……。治療は…?」


「最初はしてたさ。でももうどうしようも無いらしくてね。まぁ延命くらいは効くらしいが……苦しみながら死ぬよりも、最後ぐらいは自由に生きようと全部やめてしまったよ。そんなわけで結構な頻度でこんな感じになってしまうんだ。すまないね。」


「いやっ、そんな。先輩が謝ることでは……。」


もう俺にはどう言っていいのか分からなかった。ただ呆然としながら、なにも出来ずに先輩を見つめていた。自身の無力感に腹が立った。しばらくすると完全におさまったようで、顔を伏せたまま安堵の表情を見せる。


「ふぅ……、今回も酷いな。日に日に悪化してるし、結構痛いんだよこれが。まったく…、先輩としてかっこいい所を見せようとしたのにね。」


「あの……えと。」


いまだに困惑を隠せぬ俺を見て、先輩は微笑む。


「気遣ってくれてありがとう。優しいんだね、君は。よし…はっきり言おう。私はもう永くない。短く見積もって新年を迎えたあたりで私は死ぬ。それでも、私の残り少ない余生を楽しめるように。少しでも『楽しかった』と言える人生となるように、君に協力して欲しいんだ。」


「え……。」


「ああいや、嫌だったら断ってくれたって構わないんだけ……」


「先輩、今日は楽しかったって言ってましたよね。」


先輩の言葉を遮るように俺は言葉を被せる。

確認しなければならない事があるからだ。俺の覚悟のためにも。


「あの『楽しかった』は嘘だったんですか?」


「え?いや、嘘なわけないだろう?本当に楽しかったんだ。」


「そうですか。それじゃ…うん。これからよろしくお願いします。」


そう言うと、自分の言葉が噛みきれてないのか、少し間を空けてから先輩はその驚きの言の葉を紡ぐ。


「…あれ!?いいのかい?こんな身勝手なお願いだというのに?」


「ええ、大丈夫ですよ。それが先輩の為になるというのなら、何処へでもお供します。」


「あ、ありがとう……?」


戸惑いが残りながらも、先輩は俺にそう伝える。そうして一段落ついたところで思った。


「そういえば、先輩の名前を教えて貰ってもいいですか?」


そう、未だに名前すら知らないのだ。この目の前の先輩は、名前すら伝えないまま後輩を振り回したのだ。

俺が名前について聞くと、きょとんとした顔をしつつ私を見る。そうしてまた不思議な笑みを浮かべつつ立ち上がり、部屋のドアを開ける。


「あれ?まだ名乗ってすらなかったかな?度々すまないね。私は神楽月いのり。改めてよろしくね、後輩くん。」


「はい、よろしくお願いします。いのり先輩。おやすみなさい。」


「あぁ、おやすみ。」


そうして笑みを交わした後、俺達は自身の部屋へと入っていく。パタンと閉じられた扉は重なるように音を奏で、静かに風の音の中に消える。

そうして玄関に辿り着いたところで、俺は床へとへたり込む。


「はぁ〜……!!まじかよ…。死ぬ…死ぬって、先輩が?」


逡巡を巡らす自分の頬を叩き、事実確認をする。

余命までの3日を遊びに費やす。つまり先輩は残りの数日を自分と過ごしたいと言ったのだ。


「……どうして?」


思考をめぐらせど、答えは訪れなかった。

しかし自分がたどたどしくなってしまったのでは、明日からの先輩との遊びに支障が出かねない。それは俺の本意では無い。だがそれ以上に、「先輩に生きて欲しい。」

俺は心の底からそう思うのだ。それがただの俺のエゴだとしても。


「先輩には生きて欲しい。だから、先輩が"生きたい"って思えるような……また生きたいって思えるような旅にする。」


100%のエゴだとしても、俺は先輩の意思を阻害せぬようにひっそりとそれを実行する。

確かな矛盾を心に決めた。疲れていた俺はシャワーも浴びないままベッドに横たわり、暗がりに塗れる天井を仰ぐ。


『余命』


それは不可視であるはずの"死"の可視化。人の運命を悟る死神の所業。目に見える数字以上に、その実態は重い。


『死』


現実の中にありふれ過ぎてしまったが為に、誰もが気づけない非現実の皮を被った現実。

こうして他人の死の予兆を告げられるのは初めてのことだった。


「……いや、久しぶりか。」


サイレンの音をよく覚えている。

夜、峠を越える帰り道。あれは…そう。旅行だった。忙しかった父と母が初めて計画してくれた家族旅行。

それは暗闇の中で正面からけたたましい音を轟かせてる2つの妖光により壊された。

ひしゃげた車の中から救助された時には全てが手遅れだった。

……とても、嫌な記憶だ。


「はぁ…。どこに行こうかな…。」


気持ちを切り替えそんな事を思っていると、スマホの通信音が響いた。


「ん?」


身体を起こして通知欄を見ると、先輩からだった。


「あれ!?なんで!?」


色々あったせいでまだ先輩と連絡先の交換はしていなかった。しかし何故か先輩から届いたメールに困惑を隠せずにいると、気楽な文面が目に入る。


《やぁ後輩くん!トイレに行くとしてもスマホを付けたまま席を立つのはいただけないぞ♪こうやってイタズラされるからな!》


ニヤニヤと笑みを浮かべる謎のクマのスタンプと共にそんなメッセージが送られていた。

異常に距離が近いこの人の前で隙を見せたのが敗因だった。迂闊だったと思いつつも初めに出会った時のように元気そうな文面を見ると、それが強がりであったとしても少し嬉しくなった。

しかし俺は思ったことがあったのでそのまま返信欄を開いて


《プライバシー!》


そう一言送り付け、俺は再び仰向けに倒れる。直ぐにまた通知音がなると、そこには先輩から送られてきた《ははは、そうだ。場所は好きに決めてくれ!それじゃまた数時間後に。おやすみ。》というメッセージ。


「ははは、なんだこの人。やっば変だわ。」


勝手に笑いが込み上げる。この人の距離の近さでは年齢の差など無いに等しいのだろう。不思議ではあるが屈託のない先輩の事は不思議と信じられる。

あぁ、きっと大丈夫。この人とならきっと楽しい旅になる。


「…さてと!」


そう俺は安心して旅のプランを計画し始める。

山か、海か、市街地か。寝る間も惜しんで考えた果てに、不思議と思い浮かんだ場所を詰め込むことにした。

「よーし出来た出来た!」と一息つく。完璧には程遠いプランだが、なるようになるだろう。

そう自身を勇気づけて寝床につく。

3日後の俺達がどうなっているのかは分からない。泣いているかもしれないし、怒っているかもしれないし、笑っているかもしれない。

ただ目に見えてあるのは確実な別れのみ。


これはそんな旅。

静かに始まった、ダウナーな先輩との旅。

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