〖パッシ―の橋〗

カッコー

―あるささやかな日々に起こるとても大切な余白―

その日、亮介は長いエスカレーターを下っていた。ある観光地の山間にある、大きな美術館のエスカレーターだ。ライトグリーンの照明に包まれたドームの中を、エスカレーターはその先にある広いホールへと向かっていた。音楽が聞こえていて、そのピアノの一音一音がドームに反響し、重ねられた流れが体を舞い上がらせるような錯覚を感じさせた。彼は両足の幅を広げ、エスカレーターのベルトに置いた手に力を入れた。下にあるホールの端が見えていた。下りのエスカレーターも上りのエスカレーターにも人はまばらに乗っていた。時おり風が吹き上げてきた。そんなに強くはなかったが、それが彼には気持ちよく感じられた。四月の外気はまだ冷たかったけれど、彼は美術館の暖房が少し暑く感じていた。こんなに長いエスカレーターに乗るのは初めてだった。下にある丸いホールが次第に大きく見えてきて、足元のエスカレーターが消えてゆく地点がはっきりと目に入った。ピアノの音の共鳴が大きく聞こえだして、ホール全体が見えた。彼がエスカレーターからホールへ足を踏み出そうとしたとき、三人の女性が上りのエスカレーターに乗ろうとしていた。彼はホールに降りた。その時、風が吹いた。一人の女性の髪が風に揺れて、その女性は髪を手で抑えて横を向いた。ちょうど彼の左目線にその女性の顔が一瞬掠めた。亮介はどきっとした。彼は驚いて思わず顔をそむけた。彼は立ち止らずに、そのホールの隅に円を描くように並べられたソファーに急いで座った。独奏かと思われたピアノにバイオリンが加わった。短く速いテンポのバイオリンを追いかけるように、ピアノは速度を増していった。その三人の女性は順番にエスカレーターに乗った。そして、上を見たり振り返ったりしながら、彼女たちは彼から遠ざかって行った。亮介は彼女たちが見えなくなるまでソファーに座りながら目で追っていた。

そのホールは案内図よりもずっと広く感じた。丸く感じた壁には幅五十センチほどの硝子板が鏡のように貼られていて、微妙な角度で円形が造られていた。その中では無数の人たちがそこから溢れだしそうに動き廻っていた。天井は高くやはり鏡張りになっていた。ホールの中心にはブロンズの裸婦像が置かれていて、その足元にオーディオセットがあった。ホール全体がスピーカーのようだった。彼の心臓は、まだドキドキと高く打ち続けていた。さっきのは、ほんとうに彼女だったのだろうか。ピアノとバイオリンのアップテンポが記憶に混じり合って煩わしく感じた。彼は何処か静かな場所へ行ってそのことを考えたいと思った。この美術館を出てしまえばいくらでも静かな場所はあるだろう。でも彼はたった今この美術館に入ってきたばかりだ。それにさっきの女性が彼女だとは限らない。自分の見間違えなのかも知れない。たぶん、見間違えたのだと思った。でもよく似ていた。顔も、体つきも、それに仕草だって似ていたのだ。僕の唯一の愛の日々の彼女の思い出が苦しくなるほどに蘇って来ていた。僕が彼女を見間違えるだろうか。見間違えるはずなんてないのだ。彼は確かめたいと思った。でも、このエスカレーターの先は出口になっている。彼女たちがすでに外に出ていたならもう確かめることは不可能だ。そうだ、入ってすぐ左にレストランがあった。時計は十一時を少し回っていた。少し早いけれど、彼女たちはレストランへ行ったのかも知れない。彼はホールのソファーの上でどうしたらいいのか迷っていた。また風が吹いた。吹いて来た風の方を何気なく見ると、ホールの入口のドアが開いた時に、風が入るようだった。そのホールの外側の通路に、ホールに隣接する庭園に出るドアがあった。どうやら人の出入りが庭園とホールとが重なった時に風が吹き込むようだ。彼は自分に腹が立った。そんな風なんて、今はどうでもいいことなのだ。早く決めなくてはならない。まだローランサンの絵だって観ていないのだ。でももし、あの女性が彼女だったとしたら、僕はどうするのだろう?。でもどうするかなんて、あれが彼女なのかどうか確かめてからじゃないと解らない。彼女じゃなかったら、僕はこのままローランサンを観ればいいだけだ。確かめに行くにしても、あの長いエスカレーターに乗って行くのだ。それにしても本当に長いエスカレーターだと彼は思った。彼が座っているソファーからそのエスカレーターを見ると、銀色の鱗を持つ巨大な長い蛇が地上の穴から穴へと蠢いているように見えた。左側の地面の穴へ入り、右側の穴から出て行くように彼には感じられた。彼は天井を見上げた。その端のさらに隅にそのエスカレーターは映っていた。その動きは鈍く光って見えていた。ふと彼は、後ろを振り返った。さっき見た鏡に映るエスカレーターを探した。目の前の五十センチほどの鏡には略正面にそれは映っていた。でも目線を両側に移して行くと、エスカレーターは少しづつ消えて行きながら再び姿を現して来た。体をずらすとそれは思わぬ速さで流れ、すぐに目に止まらなくなった。彼は振り向いたままの体を右手で背凭れの端を掴んで支えた。その自分の姿が彼は可笑しく感じた。こんな美術館の中で自分は何をしているのかと思った。ピアノとバイオリンの協奏曲は今はゆっくりと流れていた。ライトグリーンの照明の中で、その旋律はあらゆる場所まで満たし続けていた。グリーンの色調がホール全体に薄暗さを降り注いでいた。

彼は傾いたままの姿勢で目の前の鏡に目をやった。そこにはそのエスカレーターの上部が映っていた。そこに三人の女性がいるのを彼は見た。落ち着いていた彼の心は再び騒ぎ出した。あの三人だと彼は思った。すると、一人の女性が他の二人を残して一人で下りのエスカレーターに踏み込んだのだ。彼は再びドキッとした。血が体中を巡り、鼓動は激しく打ち出していた。その女性の衣服に見覚えがあったのだ。彼女だ、間違いもなく彼女だと亮介は思った。あの女性がエスカレーターで降りて来る。僕はいったいどうしよう。もしあの人だったりしたら、そしてこのまま顔を合わせたなら、僕は何を話せばいいのだろう。何も考えていないじゃないか。彼はまたその鏡を見た。でもその鏡には女性の姿はなかった。あわてて彼は隣の鏡を見た。いた、と彼は思った。二つ目の鏡に彼女は移っていた。彼は呼吸を整えた。鼻から大きく息を吸って、口からゆっくりと息を吐く。そうだ、そうすればいい。彼はそれを三回やった。そして鏡を覗いた。彼女はもうそこにはいない。亮介は三枚目の鏡の中に彼女の姿を見つけた。ああ、と彼はため息を吐いた。彼女の姿がはっきりと見えてきた。顔の輪郭は似ていると彼は思った。ああ、たぶん彼女だ、と思ったとき、大きな影のようなものがその前を横切った。ああ、もう少しで解ったのにと、彼は天井を見上げた。僕は肝心なときいつもこうなるんだ。そして大切なものが消えてしまう。その時彼は、天井の鏡の中にブロンズ像が見当たらないのに気が付いた。確かに裸婦のブロンズ像が映っていたはずなのだ。彼は視線を目の前の鏡に戻した。中央にあるはずのブロンズ像がそこにも見えなかった。そして、彼女の姿もなかった。彼はすぐに四枚目の鏡を見た。そこに彼女がはっきりと映っていた。それはやはり彼が別れを告げられたあの彼女だった。間違いなく、僕はあの人と長い時間の果てで、また巡り合ったのだ。

「それであなたはどうするのかしら?」

ん、?と亮介は四枚目の鏡の前で、息を止めた。その声はいきなり後ろから聞こえてきた。彼は初め、それは自分に掛けられた言葉ではないと思った。

「私はあなたに聞いているのですよ、亮介」

彼は自分の名前を呼ばれて初めてそれが自分に掛けられていたのに気づいた。彼は振り向く前に考えた。その声は彼女ではない。この美術館で、誰か知り合いが僕を見つけて声を掛けてきたのかも知れない。そう考えて彼は振り返った。そこにいたのは、あのブロンズの裸婦像だった。裸婦像は裸婦像のまま彼の目の前に立っていた。どうして、、と彼は小さな声で呟いた。そして彼は辺りを見回した。彼の前には他に誰一人いなかった。彼は大声で叫びそうになった。ブロンズ像の手が伸び、彼の口を塞いだ。その手は柔らかかった。

「黙って、答えてくださいね、亮介」

「もう一度言いますね。彼女に会って、あなたはどうするの?」

ブロンズの裸婦像は、人差し指を唇のそばに立てて、彼を睨んだ。どうしてブロンズ像が喋ったりするんだ。だいたい何故動いたりするんだ。これは夢だ、と彼は思った。

「あなたは、夢だと思うの?ブロンズ像だって、喋ったり、動いたりするのよ」

彼の口から、ああ、そうなんですねと言う言葉が自然にでた。

「早く、あなたの考えを言いなさい。もうすぐ彼女が来ますよ」

彼は、ブロンズ像の肩越しに、エスカレーターの方を覗いた。彼女の乗ったエスカレーターは、もうすぐ終わろうとしていた。これはやはり夢だから、何を話してもきっと大丈夫なんだ。僕は彼女ともう一度初めからやり直したいと思っています、とブロンズの裸婦像に彼はそう答えた。

「どうやり直すのかしら?」

彼は、考えた。そんなこと急に言われても解らない、と彼は思った。

「あなたは失恋を経験したのよね。その時あなたは何を感じていたのかな?」

その問いに、彼は思いを馳せてみたけれど、彼の頭の中には何も浮かんで来なかった。彼は頭を振った。

「七年もの間、あなたはあの人と共にして、そうね、あなたはその間、あなたが気づかなくてはならないことを、失い続けていたのね。あなたはそれに気づかなかった、いいえ、気づこうとしなかった」

僕は悲しかったんだ、ほんとうに、とても苦しんだんだよと彼は言った。彼女が僕から去って行ったあと、僕は抜け殻のようになって、毎日彼女の夢を見た。彼女と一緒にいた時間がとても恋しかったんだ。行き場のない思いを毎日紙に書き綴った。戻って来てほしいと、どれ程願っていたか。たぶん僕が悪かったんだ、だから、僕は自分の悪いところを直すからと、手紙に書いたりしたんだよ。

「あなたは苦しんだのね。よく解ったわ。それで、彼女のことは?」

彼女のこと?、今僕は言ったじゃないか、と彼は思った。

「ほら、彼女が来たわ。よく考えてね。」

ブロンズの裸婦像はそう言うと、いきなり姿を消した。ふと見ると、裸婦像はさっきまでいた位置に戻って、ポーズをきめていた。僕のその視線が、エスカレーターを降りてきた彼女と結ばれるように重なり合った。彼女はにっこりと微笑んだ。もちろん僕も微笑みを返した。

「やっぱりあなただった」

「やあ」

「さっき、エスカレーターに乗るときにね、なんだか似てるなあって」

「久しぶりだね、僕もさっき、あそこで偶然に」

「そうね、偶然」

「追いかけて、君かどうか確かめようかと思ってたんだ」

「私たちもう帰るところだったんだけれど、ちょっと気になって」

「お友だちは?」

「車で待ってるの」

「そうなんだ。僕はこれからなんだ」

「そう。あなたは、あれからどうしてたの?」

「僕は、まあ、普通だったかな。それで君は、ローランサンどう感じた?」

「素敵だったわよ。私パッシーの橋が観たかったのだけれど、来なかったみたいなの。無かったわ。これから楽しんで」

「そうだね、期待大だよ」

「それじゃ、お友達が待ってるから」

「うん、またね、どこかでね」

「変わらないわね、じゃあ」

彼女は少し微笑んでから背を向けて、エスカレーターへ向かって歩いて行った。その後ろ姿を亮介はずっと見詰めていた。彼女は振り返りもせずに上りのエスカレーターに乗った。とても長すぎると思えるエスカレーターが、彼女を何処かへと運んで行った。何故か亮介には彼女の姿が小さく見えた。銀色の蛇の鱗の上に乗っているみたいだと思った。彼は彼女の姿が見えなくなってから、そっとブロンズの裸婦像に近寄った。

「僕はあの人を愛していたんだよ」

彼はブロンズの裸婦像にそう呟いた。もちろんブロンズの裸婦像は何も答えなかった。彼は心の中で、ふんと笑った。そう言えばと彼は思った。さっき彼女と別れる時、彼女が一瞬微笑んだのを思い出した。素敵な微笑みだと彼は思った。まるでローランサンの絵の中の少女の微笑みみたいだと、彼はもう一度彼女の微笑みを思い起こした。

それから彼は順路に従って歩き出した。ひとつひとつ絵を観ながら、彼の心の中にある彼女の微笑みが、それらの絵の中の少女たちの微笑みと重なり合った。

とても幸福な気持ちでいっぱいだった。その時彼は一つの絵の前で歩を止めた。

それはパッシ―の橋だった。確かさっき、彼女はパッシ―の橋が無かったと言っていた。あるじゃないかと彼は思った。きっと見逃したんだろう。

「アポリネールは彼女にとって、大切な人だったんだよ」

そう彼は、パッシ―の橋に向かうでもなく呟いた。彼はふと心の中に、不思議な思いがあることに気づいていた。これは何なのだろう。この気持ちはいったい何なのだ‥‥。彼はパッシ―の橋の絵の前でその気持ちについて暫く考えていた。でも彼にはその気持ちを言葉に表すことはできなかった。彼はまたパッシ―の橋に目を移した。その時その絵の背景の岩山の上に、あのホールにあったブロンズの裸婦像が立っているのを見つけた。彼は目を擦った。何度か見直して観た。確かめてもそこにはさっきのブロンズの裸婦像が立っていたのだ。

「お客様、お客様」

ふと気づくと係員が彼を呼んでいた。

「他のお客様にご迷惑になることはお控えください」

彼はパッシ―の橋の絵の鼻先まで顔を近づけていたのだ。彼は係員に謝って、後ろの観客たちに頭を下げて、急いでそこを離れた。

彼はホールに戻ってみた。やはりブロンズの裸婦像はホールの真ん中で座っていた。

「ずっと裸でいて、大変だな」

彼はブロンズの裸婦像に向かってそう言った。午後のホールにはたくさんの人たちが集まって来ていて、ざわざわとした空気が流れていた。そんな群衆の中を静かなピアノが行き交っていた。彼はソファーの空いた席を見つけて、ため息をつきながら座った。今日はここへ来てからいろんなことがあったように思った。疲れたと亮介は聞こえない声で呟いた。彼女と初めて会った日のことを思い出していた。亮介は心の中で、彼女は少しも変ってはいないなと呟いた。




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〖パッシ―の橋〗 カッコー @nemurukame

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