歩幅をそろえて
ふみひろひろ
第1話 日常
田中達也は、目覚まし時計の音で目を覚ました。まだ外は暗い。6時半。会社に行くためには、少しでも早く起きて準備をしなければならない。彼はベッドから静かに起き上がり、隣で寝ている妻・彩香を見つめた。静かな寝息を立てている彼女の顔に、ここ何年か見られなくなった穏やかな表情が浮かんでいる。
達也はそのまま寝室を出て、リビングへ向かう。急いで支度をしようと思ったが、朝食の準備をしなければならないという思いがふと頭をよぎる。小さな子どもたちのために食事を用意するのも、達也にとっては毎日のルーチンだ。長男の陽翔(はると)は、まだ眠っているだろうが、次女の奏音(かのん)は早起きしてリビングでテレビを見ているだろう。
キッチンに入ると、奏音が静かにソファに座って、好きなアニメを見ながらミルクを飲んでいた。達也はその光景に少しだけ微笑んだが、すぐに時計を見て焦りだす。陽翔もきっともうすぐ起きるだろうから、急がなければならない。
達也は朝食の準備をしながらも、仕事のことが頭をよぎった。上司である山本部長から、昨日の会議で出された指示に従わなければならないというプレッシャー。特に今月は決算が控えているため、部下たちへの指示が細かくなり、やりがいもあるがその分気を使うことが多くなっている。達也自身も課長として、部下たちに対して示しをつけなければならない立場で、失敗は許されないという思いが強くなるばかりだ。
「パパ、今日はどこ行くの?」と奏音が尋ねる。達也は顔を上げて彼女に微笑んだ。「今日は会社だよ。お仕事、頑張るからね。」奏音は満足げにうなずき、再びアニメに集中する。
その間に陽翔が起き、寝ぼけながらリビングに出てきた。目をこすりながら「おはよう、パパ」と言う息子の顔を見て、達也は心の中で少しだけ幸せを感じた。だが、すぐに「急がないと」と思い直し、食事の準備に戻った。
テーブルに朝食を並べ、家族全員が揃ったところで食事が始まる。食卓では、達也が何気ない話題を振りながらも、頭の中は常に会社のことでいっぱいだ。今朝も上司からのメールが届いており、その内容を確認しなければならない。部下の進捗状況や、決算の準備が順調に進んでいるかどうかを把握することが、今の達也には最も重要な仕事となっている。
食事を終えると、達也は急いで支度を始めた。妻・彩香は「無理しないでね」と声をかけてくれるが、達也はそれに答える余裕もない。彼の目の前には、明日の会議の準備資料と、今日中に終わらせるべき書類が山積みになっている。会話が途切れ、家族との時間が薄れたことに、少し罪悪感を感じながらも、仕事がそれを圧倒していた。
「行ってきます。」達也は家族に向かって言った。彩香は少し寂しそうな顔をしているが、何も言わずにうなずく。達也はそれを気にかける暇もなく、玄関で靴を履き、出発する。
外に出ると、冷たい朝の空気が顔を打つ。会社までの通勤途中、達也は周囲のサラリーマンたちを見ながら自分も「頑張らなければならない」と気を引き締める。しかし、心のどこかで、家に帰ったときにどれだけ家族と過ごす時間が持てるのだろうかという不安が常に付きまとっていることを、達也自身はまだ自覚していなかった。
仕事場に着くと、すぐに山本部長から呼ばれる。達也は部長のオフィスに向かい、またもや今月の進捗状況や重要な業務を確認される。「お前がしっかりしているから、部下たちも安心しているんだ。だが、結果を出すことが一番大事だ。」山本部長の言葉はいつもプレッシャーを伴っていたが、それが達也には必要だと思い込んでいる自分がいた。
その後、達也は一日中会議と書類仕事に追われ、家に帰る頃には既に遅くなっていた。帰宅すると、家の灯りが見え、彩香と子どもたちが待っていることを思い出すが、その心情とは裏腹に、今日もまた自分の心に余裕がないことを感じた。
達也は一日の終わりに、ただ静かに寝室に入る。彩香がそっとベッドに入り、二人は何も言わずに眠りについた。彼は心の中で家族に謝りながら、翌日のことを考えていた。自分がどれだけ家族に時間をかけられているのか、その事実を冷静に見つめ直すことができなかった。
仕事、家族、そして自分。どれも大切でありながら、どれもおろそかにしているような気がして、達也の心は疲れ果てていた。
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