金星のアートマとカーマ

Ramaneyya Asu

第一石板 美と生命の布

「初めに欲望があった。それが心の最初の種子だった」

『リグ・ヴェーダ』Ⅹ. 129, 4


「狭い円は純粋な火で満たされ、その周囲の円は夜で満たされ…円の中心には全てのものの進路を指示する神がいる。彼女は全ての痛みを伴う出産と全ての生殖を支配し、女を男の抱擁に、男を女の抱擁に駆り立てる…彼女はまずエロスを造った…エロスは夜に借りた光で輝き地球をさまよい…常に太陽の光線に目を凝らしている」

パルメニデス『自然について』Ⅻ-XV


「神聖な光線の群れが昇ってきた。ミトラ、ヴァルナ、アグニの目であり動くもの動かないもの全ての魂である太陽は、天と地と宇宙をその光線で満たした」

『リグ・ヴェーダ』Ⅰ. 115,1


「散逸熱力学パラダイムから生存本能の物理的、化学的起源を理解するには、動物が光子散逸にどのように関与しているかを再度強調する必要がある」

カロ・ミカエリアン『The Pigment World: Life’s Origins as Photon-Dissipating Pigments』2024


「この世界で私たちが平均的なアメリカ人のように消費したいなら、惑星が3つ必要です」

ホセ・ムヒカ『国連総会での演説』2013年9月


「いや金星だよ、金星。金星は昔からSFのテーマなんだ」

ウィリアム・S・バロウズ『アレン・ギンズバーグとの対談』


 どこからお話ししましょう、そうあそこから。21世紀にはまだ慎みが残っていたのです。でも月への入植が予想以上にうまくいったことで、享楽への執着を否定する必要はないという潮流が強まりました。それでそうした思惟は次第に消滅していったのでした。貪欲とか貪るというような語が死語となったのは、早ければ23世紀中葉と言われています。火星への入植が始まった頃、人間の管化技術が発明されて多くの人が管化を選択すると、人間の寿命は飛躍的に伸びました。当局の最後の発表では人間の平均寿命は286歳でした。そして人口は500億を超えていました。地球の大型動物はずいぶん昔に全て滅び、人間とごく小さな動物と植物ら、そして微生物しかいませんでした。持続した地球外生命はいまだに見つかっていませんし、その頃まで私は人間――多くが人間と呼ぶことがためらわれる生殖器と量子コンピュータが付いた管ですが――以外の動物を見たことがありませんでした。

 果てしない因果があるのは自明ですが、一方で、その全てを知り抜くことはできません。ともあれ私は金星にいました。私の父は金星への植民計画の全権主任でした。私は父の秘書でした。地球と月を荒廃させてしまった私たち人間にとって、火星もそれほど先が長くないことは明らかでしたから、金星への植民計画は火星と並行して進められてきました。三つの惑星と月とで当面はしのげようから、その間にエウロパやガニメデへの植民技術を開発するという筋の叙事詩が、ここ数世紀の人間を端的に表現するでしょう。でも金星への植民は火星とは比べ物にならないほど困難でした。金星の大気変成がほぼ完了したのは私が生まれてからのことで、私たちが先遣隊として安定して活動できるようになったのは、私が父の秘書になってからのことです。火星はすでに人間で埋め尽くされつつありました。

 若い頃の父は、火星の持続可能な開発計画の提唱者でした。地球と月を破壊したことの教訓を啓蒙する活動をしていました。でもその活動は数年で終わりました。当局の弾圧を受けたのは確かですが、それよりも、賛同する人がほとんどいなかったことのほうが主要な原因なのでした。その父が金星植民団の全権主任を務めていたのは、おおむねふたつの理由からです。ひとつは、工学者としての父が当局のAIによって高く評価されていたこと。もうひとつは、父が金星での当局への反乱を計画して、この職を強く志願したこと。父は政治家ではありません。政治家はずいぶん昔にいなくなりました。当局にいる人間は工学者と数学者、そして軍人だけですし、当局で使用される言語は数式のみです。

 父は胃癌を患っていました。その頃でも人類は癌の根本的な治療法を発見できずにいました。とはいえ管化した人間は必要な器官が大幅に減りますから、細胞交換によって癌をほぼ克服できるようになっていました。でも父は管化を選択していない数少ない人間のひとりでした。当時の私の年齢――20歳でした――の人間はほとんど管化していましたが、私も手術を受けていませんでした。

 管化技術について書き記しておかなければなりません。管化技術は、人間が追及してきた延命技術の一到着点です。それは端的に、有機的な細胞をほぼ一本の管と生殖器のみにする手術です。神経系は量子コンピュータに置き換えます。食べ物――液体が主流です――が管の間を通る間、性交している間、快感が神経系――コンピュータですが――へ伝達されます。管化した人間は眠りませんし、一瞬たりとも快楽が途切れることを好みませんから、常に食べ物を管に通すか性交するか、どちらかをしています。つまりこのふたつが人間の行為のほぼ全てでした。

 いいえ、もうひとつ人間の行為と呼ぶべきものがありました。紛争のこともお話ししておくべきです。平均寿命についてお話ししましたが、私が生まれた頃には、最も多い人間の死因は決闘によるもので、次に多いのは内戦による戦死でした。決闘の自由が合法となったのは5世紀前です。決闘の原因はさまざまですが、お金についての係争が最も多く、次に多いのは夫婦や親族間のいさかいでした。当局は一応統一を保っていたのですが、恒常的に内戦を繰り返していました。それは本質的には、大昔の権力闘争と何ら変わらないものです。そうです、人間同士で殺し合って死ぬ人がほとんどで、老衰や病気で死ぬ人はとても少なかったのです! 倫理という語が用いられなくなって久しいですし、人々にとって殺し合いで人間の数が減ることは、生産的ですらあると見做されていました。人口の爆発こそが人間社会の第一の問題と位置付けられていましたし、人々は決闘や内戦のニュースや映像をすら娯楽として楽しみ消費していたのでした。


 さあ、姉のこと、そしてカーマのことをお話しするときです。控えめに言っても父は、火星ではあまりに素朴でした。人々の良心に訴える、最も単純な方法を取ったのでした。でも今度は慎重でした。私を除いて、反乱の計画を他の人には一切明かしませんでした。そうです、姉には秘密にしていたんです。確かに姉は父の思想を理解しようとしていませんでした。快楽主義者、暴力主義者という点で、他の人々と何ら変わらないようにも見えました。でも姉がその時――私が20歳で姉が22歳――まで管化手術を選択しなかったのは、父の影響であるに違いなかったのですし、もし父が姉に反乱の計画を打ち明けていたとしても、姉は当局に密告などしなかったと私は今も信じています。

 どうあれ、その日姉は友人たちの強い勧めに従って、管化手術を受けました。金星にも先遣隊員のための管化手術の設備はあったのです。手術室から出てきた姉の姿! 私は姉に触れることができませんでした。私にはそれは化け物にしか見えなかったのです! 私は恐怖と憐れみとがないまぜになったような激情に捕われました。走って逃げ、マンゴーの森に駆け込みました。それは私たちが金星に作った最初の森で、私たちにとって金星環境の変成が成功したことの一象徴でした。私はマンゴーの木に向かって父に教わった作法で両手を合わせ、心の底の激しい気持ちを"神様"に訴えました。

 「お慈悲ですから、彼らを何か、美と生命の布で覆ってやってくださいませ」

 そのときです、私が初めてカーマを見たのは。私のそばに水滴がぽたぽた落ちるのが見え、次に、拳銃を持ったカーマが現れたのでした。カーマは言いました。

 「この水が涙なのですか? 私は生まれて初めて泣きました。おそらくは、私はいま生まれて初めて感動しています。プルシャの娘アートマ、あなたはいま何をしているのですか? 私はそれをこれまで見たことがないと思いますが、あなたはいま、とても美しいことをしたのですか?」

 私は答えました。

 「私は美しいことをしたのではありません。あなたが美しいと感じたのです。私は姉と人々を救ってもらえるよう、"神様"に嘆願したのです」

 カーマは言いました。

 「神様というと、25世紀頃まで信じられていたというものですね? でもなぜそんなことを?」

 私は答えました。

 「憐れみから」

 カーマは言いました。

 「憐れみ? 知らない言葉です」

 私は言いました。

 「いいえ、あなたはそれを知っています。あなたはそれを見て、心に映し取り、それとなったのです。そのためあなたは涙したのです。それにしても、あなたはどなたですか? あなたはなぜ、私の目に見えない形でここへ来て、拳銃を手にしているのですか?」

 透明化の技術は近年開発されたものですが、非合法となっていました。でも当局の工作員は使っていると聞いていました。カーマは答えました。

 「不思議なことです、アートマ。私はあなたに虚偽を述べることができません。私はカーマ。当局の評議員である母からあなたの父プルシャとあなたを殺すように命令されてここへ来たのです。あなたを撃とうとしました。しかしきっと私は逆に、あなたのその、憐れみという名の弓矢によって撃たれたのです」

 カーマは私と同い年の、凛々しい美丈夫でした。

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