第2話 再開

 座り心地の良い赤い椅子と、ガタガタと揺れる一等車。車窓に移る景色は雪山ばかりで、たまに田畑が見えてはぽつりぽつりと胡麻のような大きさの影が見える。目を凝らせば、人ではなくほとんどが案山子だった。笠を被っていれば人、被っていなければ案山子といった具合だ。

 汽笛の音と共に辺りが闇と煙に包まれ、ゲホゲホと咳き込んでは痰壺に吐き捨てた。耳が痛むので、鼻をつまんでふんと力んでやれば、音が鮮明に聞こえるようになえう。それでも暗い山の中に掘った穴を通るので、凄まじい音がより頭に直接響くようになっただけだ。

 明るくなると同時に煙たさが新鮮な空気に掻き消えて、また景色は木の幹の茶色とそれを覆いつくすような雪の白に飲まれる。

 田島は椅子に深く座りながら拳を握り締めていた。軍服はもう泥にまみれておらず、胸元には真新しい勲章を携えている。生前最後に見た林崎のつけていたものと同じ色形の勲章を。


 訃報を聞いた時から一か月は経っただろうか。ようやく状況が終了し、戦地から帰還することができたが、田島の表情は優れなかった。

 というのも、今から向かう墓は墓ですらないらしい。墓の中に林崎の遺体はない、あるのはその首だけだそうだ。

 林崎の部隊の唯一の生き残りだった西井は、「私がやりました」としか話さなかったという。蛆の湧いた林崎の首と、血もぬぐわれていない軍刀を持っていたと、彼を確保した部隊の者から聞いた。

 居ても立っても居られず西井への面会を申し込んだが、彼は一足早く裁判にかけられ面会は不可能だという。

 一発殴り飛ばしてやりたかった、そうでなくとも詳細を問い詰めたかった。しかし同じ思考をする者がすでにいたようで、故に投獄が早まったとさえ聞く。西井は口を割らず、精神病院にさえ送られるのではと噂が立っていた。

 やるせない思いを抱えたまま、苦い表情でただ車窓の向こうの、もっと遠くを見つめる。空を見れば雪雲がどっしりと重く影を落とし、雪はぼとぼとと塊で降っていた。

 窓硝子にぶつかった雪が積もっていく。溶ける速さよりも積もる速さの方が速いのだろう、だんだんと景色が見えなくなっていった。

 ぼうっと雪で覆われた硝子を見つめていると、車掌が切符を確認しに来て、そろそろ目的地に近いことを教えてくれた。

 軍服には不似合いな風呂敷を持って席を立つ。軽く手土産と、林崎が好きだった酒と。瓶の当たる音を響かせながら電車から降りた。

 雪に足跡を付けながら人に道を聞き、一時間ほど歩いただろうか。いくらか人家のある集落で、ひときわ大きい家の前に田島はいた。


「ごめんください。こちらは林崎さんの家で間違いなかったですか?」


 戸を軽く叩いて少し開き中へ呼びかけると、奥から白髪の老婆が「ええ、そうだけんじょも...」とおぼつかない足取りで歩いてきた。老婆は田島の姿を見るや否や、顔色が真っ青になった。


「軍人さんだべ。せがれが世話になりました。まずまず、おへれんしぇ」

「いえ、私はただ、墓参りに来ただけですから。つまらないものですが、これを。そして、墓の場所を教えていただけませんか」

「裏だけんども、もう暗くなるべから......」


 家の中に招こうとする老婆の言葉を遮って、田島は風呂敷の中から酒だけを取り出して残りを老婆に持たせる。老婆は慌てながらも墓の位置を指さしてくれた。田島は帽子を脱いで深く一礼すると、指さされた方へと歩みを進めた。

 農家の家の敷地とは想像以上に広いらしく、多少歩いたくらいでは墓らしいものは見えなかった。田園の中に建物が見えたと思えば馬小屋だったり、鳥小屋だったり。

 もしかして通り過ぎてしまったのだろうか、と不安になりながらも道なりに進んでいくと、林の手前に頭に雪をこんもりと乗せた石が目に入った。

 何故か懐かしい香りがした気がして、吸い寄せられるように腰と同じ高さの石の前に立ち、雪を手で払った。林崎の名が彫ってあった。

 寒さで痛む手で酒瓶を墓石の上に置いて立ちすくんだ。ああ、本当に死んでしまったんだ、と、急に林崎が死んでしまった実感がどっと押し寄せてきたのだ。

 気付けばぼろぼろと涙が零れていた。雫が地を覆う雪に落ちては、深い穴を開けている。鼻水も止まらないものだから、ただでさえ寒さで赤くなった鼻先を服で拭った。

 ただただ悲しくて、恥も捨てて嗚咽を漏らしながら泣いた。


「どうして死んでしまったんだ、林崎...」


 どれほど泣き続けたのかわからなかった。

 力の入らなくなった膝は折れて既に雪に埋まり、こんこんと降り続く雪はまた墓の上に積もっていく。いつの間にか辺りは暗くなっていて、帰り道さえよくわからない。

 田島は寒さでほとんど感覚のなくなった右腕を振り上げて、思い切り墓石を殴ろうとした。しかし、その腕は墓石に届くことはなかった。

 手が、石よりも暖かく、やわらかいけれどごつごつとした何かにぶつかった。そのまま暖かさに包まれるような感覚がして、俯いていた顔をゆっくりと上げる。

 こんなことがあっていいのかと、思った。

 見ているだけでも凍えそうな、雪に沈んだ肌の見える足。左前の少し赤みを帯びた黄色の着物と、右手を包み込む豆とタコだらけの両手。最後に見た時のままの林崎の、泣きそうなような嬉しいような表情の上には、先の黒く変色した二対の角が生えていた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る