009 朝食

 基本的に長屋は断熱材が入っていない――朝を迎える度に、この事実が憎くて堪らなくなる。

 断熱材を有していない建物は、夏は暑く、冬は寒い。そればかりか、保温能力もないのでどれだけエアコンが一向に利かない。故にこの時期の朝は冷え切っており、布団から出るのは至難の業となる。

 しかし、そんな事を言ってられないのが朝というものである。

 何度目かのスヌーズ機能の後、俺は意を決してベッドから降りた。畳が冷え切っているのは言うまでもない。廊下は更に冷えており、リビングに行く頃には足の小指はカチンコチンになっていた。

 そんな俺の肝が冷えた。

 リビングの隅っこに人影があったからだ。

「お、おはようございます」

 正座をして三つ指を立てる少女――枕野凌子、もとい、猫崎凌子。

 俺は思わず飛び上がった。

「びっくりした! 何してんだよ、こんな所で⁉」

「目が覚めたので朝の支度をしようと思ったんですけど……どこに何があるかわからず……」

「だからって電気も点けずに……」

 俺は蛍光灯をつけ、ついでにヒーターをつける。

「で、何を探してるんだ?」

「い、いえ。物を探してるのではなく……朝の支度を……」

「支度? 着替えとかか? それなら部屋に一式あるだろ」

「そ、そうではなく……掃除や朝食作りを、と……」

「ああ、そういうこと」納得した俺は、羽織っていた半纏を凌子ちゃんに着せてやる。「朝食作りは俺がするから大丈夫だ。掃除も、我が家は朝にしない」

「だったら私は何を……?」

「メシが出来るまでコタツに入ってテレビでも見ててくれ」

「そ、そんな! 針姫様にそのような事――」

 立ち上がろうとする凌子ちゃん。

 俺は人差指と中指を立てて制止した。

「凌子ちゃん、二つ間違ってるぜ。一つ目、兄妹で敬語は無用だ。二つ目、俺は針姫の人間じゃなくて猫崎の人間だ。オーケー?」

「わ、わかった……」

「よし。じゃあ朝食までゆっくりしておいてくれ」

 俺はコタツとテレビをつけてからキッチンに向かった。

 那由他さんも宵乃も引き籠りの同居人も朝は強くない。同時に、那由他さんも宵乃も引き籠りの同居人も料理の類が一切出来ない。故に、消去法的にも朝食とお弁当の準備は俺の役割になっている。

 お弁当は季節や前日の夕食などで内容を変えるが、朝食は三六五日変わらずおにぎりと焼き魚と味噌汁の御三家と決まっている。流石に焼き魚の種類とみそ汁の具は日によって変えるが、基本的にこの御三家でないと那由他さんも宵乃も納得しない(引き籠りの同居人は朝食を摂らない)。

 ということで、俺はエプロンを着て調理を開始した。

 まずは鍋に水を張る。この時気を付けないといけないのが、冬の朝の冷たい水は少し触れただけでも万病の元になるという事だ――鍋に給湯器で沸かしたお湯を張り、コンロの五徳の上に置き、火にかける。

 沸騰するまでには少々時間がかかるので、その間に味噌汁の具材を切る。今日の具は大根と水菜だ。冷蔵庫にあるそれらを取り出す。

 と、思わずその手を止めてしまった。

「何してんの?」

 凌子ちゃんがキッチンの隅で正座をしてこっちを見つめているからだ。

「な、何かお手伝いできることが無いかと思いまして……」

「ゆっくりしてていいのに」

「そういうわけには……」

「貧乏性だな」

 意外に頑固な凌子ちゃんに負けた俺は「料理は出来るのか?」と問う。

「はい」

「包丁は?」

「使えます」

「だったら味噌汁用に大根と水菜を切ってくれないか?」

「わかりました」

 凌子ちゃんは腰を上げながら腕捲りをしてキッチンの作業台の前に立つ。俺はそんな彼女の前にまな板と包丁、そして洗った大根とホウレン草を置く。

 まず凌子ちゃんは包丁を握ると、まずは大根を手に取った――大根を丁度いい大きさに一刀両断してから、葉に近い部分を除き、使う部分を鷲掴みにした。そしてかつら剥きの要領で皮をむいた。その後、大根を再びまな板の上に乗せ、いちょう切りにしていく。

 一連の動作に危うさや不慣れな感じは一切なく、日常的に包丁を扱っているということは十二分にわかった。水菜を切る所作も同様である。

「終わりました」

「あ、ああ」

 完全に見蕩れていた俺は周囲を見渡す。だが、彼女に任せられるような仕事は見当たらない。うーん、どうしたものか。そんな風に悩んでいると、炊飯器がピーピーと鳴った。米が炊けたのだ。

「そうだ、凌子ちゃん。味噌汁を作るのと、おにぎりを握るの、どっちが良い?」

「おにぎりがいいです」

 即答だった。

「私、おにぎりには自信がありますか……」

「お、いいな。じゃあ任せようかな」

「どれだけ握ればいいですか?」

「炊いた分、全部握っていいぜ。五人居たら全部食っちまうだろ」

「五人……?」

 凌子ちゃんは首を傾げた。おそらく、頭の中には那由他さんと宵乃と俺と自分の顔が浮かんでいるのだろう。

「そう言えば会わず終いだったんだっけ――実はこの家にはもう一人住人がいるんだよ。猫崎美弥子って言う女の子が。あだ名はミャー子。猫みたいだろ? 所謂引きこもりで、たまにしか顔を出さない」

「引きこもりって何ですか……?」

「読んで字のごとく、部屋の中に引き籠もって出てこない奴の俗称だ。握りすぎて余ったらミャー子に持って行ってやるから、存分に握ってくれ」

「わかりました。……しゃもじとお塩をお借りできますか?」

「悪い悪い。ちょっと待っててくれ」

 俺は戸棚から塩を、引き出しからしゃもじを、食器棚から大皿を取り出し、キッチンの作業台に乗せた。ついでに、炊飯器も持ってくる。

 凌子ちゃんは炊飯器の蓋を開けて湯気を浴びるや否や、しゃもじでお米を切り、そして少しだけ手に水と塩を付けてからお米を掴んだ。そして、綿を包み込むように柔らかく且つしっかりと握った。

 そして、あっという間に綺麗な三角おにぎりを作り出した。

「すげぇ……」

 俺は思わず感嘆した。

「滅茶苦茶上手いな」

「そうですか……? えへへ……」

「我が家のおにぎり担当大臣だな、こりゃ」

「おにぎり担当大臣⁉ ふふふ……! ふふっ……! 担当大臣……っ!」

 凌子ちゃんは笑いのツボにはまったようで、五分くらい笑っていた。

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