放蕩息子の帰還

大黒天半太

放蕩息子の帰還

 ルカによる福音書の『放蕩息子のたとえ』は、キリスト教徒なら、神とはそういうものなのだ、という共通認識があるんだろうなというのは、おぼろげに理解は出来る。

 同じくマタイによる福音書『ぶどう園の労働者のたとえ』も、聖書(旧約・新約)が神との契約であることを考えると、神と信徒の間の契約ってそんなものなんだろうなという気はする。

 多様な文化と多民族の間で、共通認識だの、相互理解だの、常識だのの揺らぎを見過してしまえば、すれ違いは必至なのだから、ルールが明確になっているに越したことはない。


 個別の案件だけ取り上げれば、(神との)契約の在り方がそうなっているから、結果はこうなる、というだけの話だ。


 だが、普通に聞くと放蕩息子(財産分けされた全てを使い果たした次男)が帰って来た時の兄(父に従い真面目に働いて来た長男)の気持ちはわからないでもないし、ふどう園で夕方から働いた者と、夜明けから働いていた自分が同じ報酬だと知った時の気持ちはよくわかる。


 神の判断基準が人間のそれとはかけ離れているという理解、神の判断・裁定こそが絶対であるとの肯定が、そこに存在していなければ成立しないが、それが徹底しているということなのだろう。

 

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放蕩息子の帰還 大黒天半太 @count_otacken

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