美術部員が腕を見込まれてギャルのペディキュアを塗る夏の放課後

藤浪保

本編

 俺、真鍋まなべ凌介りょうすけは、目の前にドーンと置かれた素足のつま先を前に、固まっていた。


 いやいやこれでは手に持ったマニキュアのブラシもびんの中身も固まってしまう。いったん瓶の蓋を閉じて、っと。


「ふー……」


 天井を仰いで、大きく息を吐く。上を見ているのは、あれだ、視界に入ると目に毒だからだ。


 何がって、だから足だよ、足。


「何やってんの?」

「……精神統一」

「ふーん」

「頼むから黙っててくれ」

「なんで」


 黙っててくれないと、このつま先が女子の体の一部だって意識しちゃうだろ!


「……気が散るから」

「ふーん」


 これは男の足、男の足、男の足……!!


 自己暗示をかけて、ちらりと視線を落とす。


 そこにあったのは、美術室の四角いスツールの上に置かれた右の素足。俺のよりも一回りは小さくて、肌が白くてきめ細かくて、小さな爪は綺麗に整っていて、汚らしさなんて微塵みじんも感じさせない足だ。


 いや、どう見たって女子の足じゃんっっっ!!


 俺は再び天井を仰いで両手で顔を覆った。


 無理だろ! 無理無理!! なんで俺がこんなことを!? ていうかなんで俺女子としゃべってんの? え、何か月ぶり? ていうかなんで俺女子と二人きりなの? 向かい合って座ってんの? 生足差し出されてんの!?


 許されるのなら、今すぐ叫びながらこの部屋から逃げ出したい。


 だが、それは許されないのだ。


 なぜなら――。


 俺はちらっと目の前の女子に焦点を合わせた。


 ――このギャル、星名ほしな月菜るなに弱みを握られてしまったから。


 星名はウェーブのかかった金色に近い茶色の髪を左右で結んでいる。化粧が濃くて、まつ毛が何本あるんだってくらいに多い。唇にはグロスがたっぷりと塗られていて、ぷるんと瑞々しく見えた。


 クラス内カースト上位の集団にいるギャルの一人で、成績はあまりよくないが、コミュ力お化けだ。なんせ同じクラスになってから一度もしゃべったことのない俺に、こんな無茶ぶりをしてくるくらいだからな。


「ねえ、早くしてくんない? じゃないとこれ、クラスのチャットにばら撒いちゃうよ?」


 星名は、俺に見せつけるように、スマホの画面をこちらに向けてひらひらと振った。


 そこに映っているのは、筆を持って描きかけのキャンバスに向かう俺だ。美術部員なのだから、そこまでは何の問題もない。作品を、それも未完成の物を撮られるのは恥ずかしいが、それもまあ許容できる。


 問題は、俺の筆を持っていない方の手に持っているスマホ――というかそこに映っている物にあった。


「まさか委員長いいんちょをモデルに絵を描いてるとはねー。しかも隠し撮りまでして」


 にやり、と悪魔の笑みが浮かぶ。


「だ、だからそれはっ、モデルとかじゃなくて、ちょっと参考に……っ」


 完全に油断していた。まともに活動している美術部員は俺一人だ。放課後、校舎の端にある美術室になんて、誰が来ると思うだろう。実際今まで誰一人として訪れることはなかった。顧問の先生は準備室の方から来るし……。


「いいんちょ美人だもんねぇ。成績優秀だし、性格もピカイチだし。でも、盗撮はどぉかと思うなー」

「ぐっ」


 盗撮したのは否定できない。事実だ。だってまさか写真撮らせて下さいなんて言えるわけがないだろう。この陰キャの俺が? クラス内カースト最上位である委員長に?


 ネットで拾った画像を参考にするのは色々と問題が起きそうでビビッてしまった。別に模写するわけでもないし、俺が描くのは抽象画だから、ネット上の写真でもよかったのに。


「でもね、あたしだって、恋する気持ちは応援してあげたいって思うわけだよ」

「べ、別に、好きとかじゃねぇしっ」


 本当に、俺は委員長に恋愛感情を持っているわけじゃない。そりゃ清純正統派美人だとは思うが、正直陰キャの俺には高嶺の花すぎて、そういう対象に見られない。どっちかっていうと俺は――。


 ちらっと星名を見る。


「ま、そーゆーことにしてあげるよ。とにかく、これバラされたらヤバいのには変わんないでしょ。――というわけで、早く塗って♡」


 自分のつま先をピッと指さしながら、にこっと星名が笑った。口だけだ。目は笑っていない。


「はい……」


 俺にとれる選択肢はうなずくことだけだった。


 委員長にドン引きされるどころか残り一年半の高校生活が終わることが確定の爆弾のスイッチを押さない代わりに、俺は星名のペディキュアを塗ることを要求されている。明日の土曜に海に行くから絶対に必要なのだそうだ。


 なんで生まれてから一度もマニキュアなんて塗ったことのない俺に頼むんだよ、と思うのだが、星名曰く「普段から筆持ってるんだから上手いに決まってる」とのことだ。


 んなわけあるかい。筆の大きさも塗布材も全然違う。特に粘度がヤバい。こんなもったりとした画材使ったことねぇし。


 ていうか支持体が違いすぎるだろ。なんだよ爪って! しかも女子の足とか!! 難易度がエグすぎる。


 一応、はみ出しても消せるから、と除光液と綿棒も用意はされているが……。


 机の上のボトルと個包装になった綿棒を見て、俺はため息をついた。


 なんでこんなに用意がいいんだよ。普段から持ってきてるのかよこいつ。学校を何だと思ってるんだ。これだからギャルは……。


 心の中で文句を言っているうちに、少し落ち着いてきた。


 俺は覚悟を決め、テーブルの上の小瓶に手を伸ばした。ベースは深緑色だが、シャボン玉のような虹色の揺らめきがあり、金色のラメが混ざっている。


 蓋を開けると、ペイントシンナーに似た香りがした。油絵をする俺にとっては嗅ぎなれた匂いだ。


 ブラシには、たっぷりと液がついている。これを片面だけ瓶の縁でしごいて、余計な液を落とした。さっき始める前にスマホで検索した、マニキュアの基礎の基礎だ。


 で、これを、爪の根本から先端まで滑らせればいい。まず中央を塗って、それから左右を塗るんだよな。


 手順は頭に入っている。後は実践するだけだ。


 これはキャンバス。爪じゃない。ただの支持体。女子の足なんかじゃない。キャンバスと同じ。ただの支持体。塗るための面。


 自己暗示をかけてから、俺は一番大きな面へと筆を滑らせた。すっ、すっ、すっと丁寧に、しかし素早く三本。


「わ、すごい。超上手いじゃん!」

「黙って」


 星名が感嘆の声を上げるが、俺はそれを制止した。女子の足だと意識したら終わる。


 これはキャンバス。ただの支持体。これはキャンバス。ただの支持体。


 筆を瓶に戻して塗布材をたっぷりつけ、片面だけしごく。そしてすぐさま次の面へ。


 これを繰り返し、俺は何とか残り四面も塗り終えた。最初の大きな面が一番塗りやすかった。小さすぎるのは難しいんだな。


「じゃあ、もう片ほ――」


 意外にも全くはみ出すこともムラもなく綺麗に塗れて満足した俺は、左足もさっさと塗って終わらせようと顔を上げた所で固まった。


 いつの間にか俺は椅子から降りて床に膝立ちになっていて、左手を星名の足の甲に添えていた。そんな態勢で食い入るように女子のつま先を見つめている絵面えづらは相当ヤバい上に、視線を上げた俺の目の前には、星名のスカートの中の水色の縞々が――。


 バッと俺は顔を勢いよく逸らせた。


「何?」

「わざとじゃないっ!」


 頭に血が上ってるのが自分でもはっきりとわかる。顔が熱い。


 星名は足を乗せている椅子とはまた別の椅子に座っている。つまり膝を立てている状態だ。俺が椅子に座っていた時はスカートで隠れてギリギリ見えない角度だったが、俺が椅子から降りて目線が下がれば、まあ、そういうことになる。


 スカートが短すぎるのが悪い。学年主任の教師には毎回注意されているのに、どうしてこう、女子はスカートを短くしたがるんだ。それなのに目を向けると変態だとののしりやがるのは理不尽だ。


「あ、見たんだ?」


 目で見なくても、にやぁっと星名が笑ったのがわかった。くそっ、また余計な弱みを……!


「見てないっ!」

「いやそれでその反応は無理あるでしょ」


 その通りだった。図星どころか最初の一言で墓穴を掘った。


「見たんでしょー? あたしのパンツー」


 ぷにっ、と逸らせていた顔に何かが当たった。


 即座にそれが何かを悟る。星名の足だ。


「ほらほら、見たっていいなよ~」


 ぐにぐにと頬を指の裏で押される。


 女子の生足に踏まれるとか――じゃなくてっ!


「やめっ、そんなんしたらもっと見えるだろっ、やめろっ」


 ていうかちょっと今見えた。


「見てもいぃよぉ? 今日は見せパン履いてるから。見たかったら見れば~?」

「えっ」


 ……っぶね!


 思わずガチ見するとこだった。


 見せパンってなんだよ。見せてもいいパンツってこと? んなパンツ存在すんの? さっきのが見せてもいいパンツ? いや全然違いが分かんねぇ。水着的な? ……いやいや駄目だそうじゃない!


 思い返してしまった水色の縞々を頭の隅に追いやる。反芻はんすうしてると色々ヤバい。


「やめろって! ペディキュアがはがれるだろっ! せっかく塗ったのに!」

「……ごめん」


 星名はやっと足を椅子に戻した。


 俺も自分の椅子に座り直して、ペディキュアがはがれたりよれたりしていないのを確認した。


「大丈夫そうだな。次は左足だ」

「ん」


 星名が左足を椅子に乗せた。


 こっちも小さくてかわ……じゃなくて、これは支持材。これはキャンバス。ただの支持材。絵具を塗る面。ただのキャンバス。


 精神統一をして、いざ――。




 * * * * *


 


 結果として、星名の左足のペディキュアは上手く塗ることができなかった。ムラがあるし、一部はみ出て除光液で修正した。


 原因は、言うまでもなく、脳裏に焼き付いた水色の縞々のせいである。すぐ目の前にそれがあると知ってしまって集中できるはずもない。


 体勢もよくなかった。床に膝立ちをして顔と手首を近づけた方が格段に塗りやすかったが、あんな真正面からスカートの中を覗けるような姿勢を、また取るわけにもいかなかった。


 だというのに、星名はかなり満足したようだった。上手い上手いと絶賛していた。塗ったマニキュアを保護するトップコートという塗布剤があるらしく、それを持ってきていないのを悔やんでいた。「あたしは下手だからすぐ取っちゃうんだよね」とのこと。


 ペディキュアが十分に乾いてから、星名は靴下と靴を履いて立ち上がった。


「キレイに塗ってくれてありがとねー! 助かった」

「ああ」


 俺はミッションを無事完了できてほっとしていた。これで俺の秘密は守られる。


 今日だけで一年分女子と話したな。あと卒業まで何回話すかな。もう話さなくてもいいや。


 星名がガラッと美術室のドアを開けて、振り向く。


「じゃ、来週またよろしくね!」

「来週!?」

「うん。来週末も遊びに行くから。次はちゃんとトップコートも持ってくるね」

「今ので終わりじゃ……!?」


 星名はきょとんと首を傾げた。


「んなわけないじゃーん。夏休みまで、あと二回よろしくぅ!」

「は!? そんなの聞いてな――」


 にっと笑って敬礼した星名は、俺の言葉を遮ってドアをぴしゃりと閉めた。





 ――(本編完)――

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