薄気味の悪い猫

桐山なつめ

きもちがわるい

 実家で飼っている猫は、薄気味が悪い。


 額の半分ほどのところで、黒と白の毛色に分かれたハチワレ。

 母の話では、私の生まれる二年前から、実家の庭によく現れるようになったという。

 流産をしたばかりの母は、その猫を胎児の生まれ変わりだと考え、とても可愛がっていた。

 けれどその話が本当なら、猫はすでに四十年以上は生きているということになる。

 猫の寿命は長くても二十余年。

 室内飼いの猫だとしても、さすがに四十歳を迎えた猫の話は聞いたことがない。

 勘違いをしているのではないかと母を疑ったことはあるが、私の幼少期に撮られた写真やビデオを見返しても、猫はしっかり映り込んでいたし、記憶を辿ってみても、母の言葉に矛盾はなさそうだった。


 ……気味が悪いな。


 実家を出て、もう十年以上経つ。

 正月と盆くらいしか帰省しないが、それでも私は猫が深夜に家の中をうろついている姿を見るたび、不快感を覚える。

 できるだけ関わらないようにしたいと無視をする私にもお構いなく、猫は血気盛んな子猫のようにじゃれついてきた。老猫とは思えないほど毛艶もよく、身のこなしも軽い。

 ただ、子猫よりは遥かにガタイが良いので、本気で首を噛まれると流血騒ぎになる。それも、一度や二度ではない。

 実家を出るまでは、猫の機嫌に関係なく、私にだけ突然襲いかかってくるヤツを常に警戒し続けなければならない生活がずっと続いていた。

「こんな凶暴な猫なんて怖い」と私が何度訴えても母は取り合ってくれず、「喧嘩はほどほどにね」などと言う始末。

 母は、きっとこの猫を本当の娘――姉に重ねているのだ。


 ため息をついて、母から送られてきた誕生日プレゼントの小箱に視線を落とす。

 そこには、手編みのニットセーターと帽子が入っていた。

 同封されていた写真には、同じ柄と色のセーターを着させられた猫が写っている。

『Happy Birthday 姉妹でおそろいです』

 能天気な母が書いたメッセージカードを読むと、目眩を覚えた。

 左手に巻いたブレスレットを指の腹で撫でる。

 何が「おそろい」なんだか。


 ※


「気味悪い猫だね」

 深夜〇時半。化粧を落とした美樹が、オレンジジュースを飲みながら呟いた。

「四〇年も生きているなんて、化け猫じゃん」

「美樹、声が大きい」

 私は口元の前で人差し指を立てる。

 二十四時間営業のファミリーレストランは、家族連れや学生が来ないために静けさが漂っていて、少し大きい声を出しただけでも店内に響いてしまう。

 私はきょろきょろと周りを見回した。

 他の客は、終電を逃したサラリーマンや、フリーター、そして私達のような夜の仕事を終えた女たちがぽつぽつと座っている。幸い、誰も私達に目を向けることはなかった。

「たしかに、そんな凶暴で長生きしている猫が実家にいたら、気味悪くて帰れないかも」

「そうなの。帰るたびに本当に憂鬱で」

「だけど、小さなときから一緒だったんだから情はあるんじゃないの?」

 私は首を振る。

「あの猫を可愛いって思ったことなんて、一度もない」

 アイスコーヒーの氷がカランと音を立てた。

「夜にしか動かないのよ。昼はずっと寝ていて、何をしたって起きないんだから。やっぱりあんな猫、異常よ」

「猫って夜行性じゃなかったっけ」

「ちがう」

 本来、猫は薄明薄暮性と言って、明け方と夕暮れの時間帯に活動的になるのだ。

 野良猫は夜行性の獲物を狩るために活動しているから、夜に起きているだけ。

 真夜中に目を爛々とさせて起き出して家中を徘徊する様は、いつ見てもゾッとする。

「でも、それはあんただって同じじゃん。昼は全然連絡つかないし。ずっと何してるの」

「……寝てる」

「猫と一緒!」

 あはは、と能天気に笑う美樹に、ちょっとだけムッとする。

「からかわないでよ。めちゃくちゃ悩んでるんだから」

 そう。私は数年前から、どうしても太陽が昇っている時間には起きていられなくなったのだ。

 病気に違いないと思って、母親と病院をはしごしたが、原因はわからなかった。

 何をしても体質は変わらなかったので、結局、深夜に仕事をするしかなくなり、性風俗業で生計を立てるしかなくなった。

「どっかの研究室にでも連絡してみたら。長寿の秘密を解いてくれるかもよ」

「うちの母が許すわけないよ。溺愛してるんだから。あの家から一歩でも外に出そうものなら、怒り狂って手がつけられなくなるのよ」

「そんなんで、本当に老人ホームに入所できるの?」

「わからない。だから困ってるのよ」

 額に手を当て、私は項垂れた。

 父が三年前に突然死してから、もともと精神的に不安定だった母の様子がさらにおかしくなっていった。

 物忘れから始まり、何度も同じ質問を繰り返すようになって、だんだん気性も荒くなっていった。恐ろしかったのは、以前にも増して猫を人間扱いするようになったことだ。

 なんでもかんでも、「おそろい」だと言い、私と猫に同じものを食べさせたり、同じ洋服を着せたがったりする。誕生日のニットセーターがいい例だ。

 猫が喋ったと言い始めてから、娘としてできることはないと判断した。

 冷たいようだけど私にも生活がある。

 独身ではあるが認知症の親の介護をするような余裕はないし、狂っていく身内を間近で見るのはきつい。

「こんなとき、きょうだいがいたらなって思うよ」

「あたしにも妹がいるけど、仲の良いきょうだいばっかりじゃないよ。親の前では、仲良しを演じてるけどさ」

「そう」

「で、結局どうするの?」

 私は顔をあげて、美樹を見つめる。

「なんとかお母さんを老人ホームに入所させたとして。その猫、あんたが面倒見るの?」

「無理よ。あんな気味の悪い猫」

 子猫ならまだしも、化け猫並みに齢を重ねた老猫なんて、誰が好き好んで引き取ってくれるのか。

 いっそ野に放ってしまおうかとも考えたが、あの猫は妙に賢いから、どうにかして母のいる老人ホームまでたどり着くのではないかとさえ思う。

 母には私が猫を引き取って育てると説得しようと思っているから、もしそんなことになったら、彼女は無責任に放りだした私に怒り狂い、手がつけられなくなるだろう。

「それならひと思いにさ」

「うん」

「殺しちゃえば」

 美樹は、にっと白い歯を見せて、愉快そうに笑った。


 ※


 実家に帰って来るころには、時刻は深夜三時を回っていた。

 老朽化の進んだ一戸建ては、玄関扉を開けるだけで激しい物音を立てる。真っ暗な廊下に、リビングの明かりが漏れていて、かすかにテレビ番組の音も聞こえてくる。

 いつからだろうか。母も私と同じように、昼に眠れなくなったのは。

 そのまま二階の自室に向かってもよかったが、一応挨拶だけはしておこうと思い、リビングの扉を開けた。

「おかえり」

 母は私に背を向け、ソファに座ったまま呟いた。

 リビングは段ボールだらけだった。来週、彼女が老人ホームに入所すれば、もう二度とこの家には帰って来れないと思ったので、私が身辺整理を勧めたのだ。

「ただいま」と言いながら、鞄を置き、すっかり物の少なくなったリビングを見回す。

 来週から、この家は空っぽになる。

 生まれたときからずっと暮らしていた我が家だったが、不思議と寂しさはない。視界の隅に、あちこちに刻まれた猫の爪痕や、ペットフード、玩具に、猫用トイレが映る。

 早く捨ててしまいたい。

 ぐっと唇を噛んで、視線だけで猫の姿を探した。

 チリン。

 すぐ足元で、軽やかな鈴の音が聞こえた。

 はっとして見ると、黄色い目をした猫が私をじっと見つめていた。

 ぞくっと鳥肌がたち、反射的に後退る。そんな私の様子にも、猫は大して気に留めた様子がなく、尻尾をピンと立てたまま母の元へスタスタと歩いていった。

「あなたはいつまでも、甘えん坊さんね。妹と同じくらい、自立しなきゃ」

 母は猫の背中を撫でると、うっとりとした声音で言う。

「お母さん。猫に自立なんて難しいよ」

 やんわりと伝えたつもりだが、言い方に棘があったかもしれない。

 だが、母の視線は依然猫に釘付けのままだ。

「それより、荷物はもう全部詰めた? 明日リサイクルショップの人に取りに来てもらうんだから、ちゃんと終わらせてよね」

「誕生日プレゼントは受け取ってくれた?」

 トンチンカンな返答に、さらに苛立ちが募っていく。

「届いたよ。あれ、お母さんが編んだの? おそろいなんて、びっくりしちゃった」

「いいでしょう? きっとあなた達に似合うと思うの」

「こんな歳になって、おそろいも何もないんじゃないかな」

「恥ずかしがらなくていいじゃない。あなたたちは、姉妹なんだから」

 姉妹じゃない。

 猫は猫。私は人間。いい加減にしてよ。

 でも、そんなことを言ったら母が悲しむ。

 いや、悲しむを通り越して怒り狂うに決まっている。

 仕事で疲れているところに、母の金切り声を聞くなんて冗談じゃない。

「そうね。おそろいでもいいかもね」

 ちらと母の膝の上にいる猫を盗み見る。猫も私を見上げていた。

「にゃ」と小さく鳴いた猫が、まるで会話を理解しているかのように感じて、背中が粟立つ。

「やっぱり、姉妹はなんでもおそろいにしないとね」

 それには答えないまま、

「お母さん、今日は何をしてたの? 変わったことあった?」

「ずっとこの子とお喋りをしていたわよ」

 母が遠いところに行ってしまっているように感じた。

 母のはずなのに、母ではない。猫が憎い。猫さえいなければ、母は母のままだったのに。

「……私、そろそろ寝るから」

「ええ、おやすみなさい」

 私の胸中など知る由もない母は、柔和な笑みを湛えたまま、呑気に手を振る。

 二階の自室に続く暗い階段を上っている間も、私は自分の動機がやけに大きく聞こえた。

 ああ、目眩がする。息が苦しい。吐き気が胃の底から這い上がって、今にもすべてぶちまけてしまいそうだ。

 左手に巻いたブレスレットに手を当てる。

 ああ、お母さん。

 ずっとお腹の中で亡くなった胎児と姉を重ねているだけだと思っていたが、そうではない。

 母は本当にあの猫を姉だと思い込んでいる。

 猫と母を引き離さなければ、母は狂人になってしまうだろう。


 ※


 ぽた、と頬に生暖かいものが垂れた。

 ハッとして目を開けると、眼前に爛々と輝く黄色い目が二つ並んでいた。

「ひっ!」

 声にならない悲鳴をあげ、咄嗟に身を起こす。

 薄暗い部屋の中心に敷かれた布団。その枕元に、ぼんやりとした白い影が浮かび上がる。

 猫だ。

 ドクンと心臓が激しく鼓動を打つ。

 どうして? 鍵はしっかり閉めたはずなのに。

 猫は身動ぎもせず、こちらをじっと見つめている。

「何よ、あんた……。私になにか文句でもあるわけ」

 自分の声は震えていた。頬に垂れたものを指で拭い取ると、暗闇の中でもそれが血だということがわかった。

 誰の? 私の?

 直感的に自分の首筋に手を当てると、ぬちゃ、という音とともに指先に温かいものが触れる。意識すると、首筋に鋭い痛みが走った。

 猫に噛まれたのだ。いや、噛まれただけでは、ここまでの出血にはならない。

 もしかして、噛みちぎられた?

 はあはあと、自分の息があがっていく。

「なんなの……ほんと……」

「オ前 ナカナカ 死ナナイ。シブトイ」

 猫が喋った。その声は無機質で、音声ソフトで読み上げられたような異質さだった。

 そこからは、なんの感情も読み取れない。

「なに……何を言っているの」

「分カッテイル クセニ」

 猫が立ち上がる。咄嗟に逃げようとしたが、腰が抜けて動けない。

「アタシ ㇵ オ前 二 殺サレタ」

 …………。

 ああ、そうだ。

 私は幼いころ、この猫を溺死させたことがある。

 それだけじゃない。

 高いところから落としたり、交通事故に遭わせたりした。

 でも。

「ずっと死なないじゃないの、あんた」

 猫の目がにっと笑うように、細められる。

「人間 ニ アタシ ㇵ 殺セナイ」

 だから私は、この猫の死体を解剖までした。

 でも、次の日になれば死体はすっかり消えていて、リビングのソファで寝そべっているのだ。

 だから私は、こいつを殺すたびに証拠として骨を抜いておいた。

 不思議と、私の手元に置いた骨は猫を殺しても消えることはなかった。

 私はそれを加工して、ブレスレットにしてやった。

 殺ってやったぞ。猫になぞ負けるものかと自分自身を慰めるためのものだ。

「私を恨んでいるの? 私を殺す気?」

 だが、猫は私の質問には答えない。

 逃げよう。そう思って腰を浮かした瞬間、一瞬で飛びかかってきた猫に、私は呆気なく押し倒された。

 首に激痛が走る。猫が私の首筋に牙を食い込ませている。

「痛いっ!」

 必死に猫の背に爪を立てて引き離そうとしても、さらに力は強くなるばかりで歯が立たない。

 ちゅう、ちゅう……。

 痛みで意識が薄れていく最中、私はぞっとするような音を聞いた。

 私の血を吸っている?

 そんな。これじゃあ、まるで……。

 吸血鬼じゃないか。


 ※


 どこまでが夢? 

 布団の中で寝返りを打ちながら、私は自分の首筋に手を当てた。

 痛みどころか、傷跡すらない。

 私は深夜、猫に襲われて殺されたはずなのに。

 むくりと体を起こし、部屋の中を見回す。

 すでに日没時間は過ぎており、分厚いカーテンをめくると窓の外には月が輝いていた。

 昏々と眠り続けるのはいつものことだ。だけど、さすがにこんなに眠るのは珍しい。

 体が異常に重たい。頭も痛い。自分が自分じゃないような、妙な心地がする。

 母は大丈夫だろうか。

 気怠さを抱えたまま、ゆっくりと自室の扉を開いた。たしか鍵をかけて眠ったはずなのに。

 気のせい?

 ぞくりと悪寒が走る。

 嫌な夢を見たせいだ。きっとそうに違いない。

 母のこともあって、私もノイローゼになっているのだろう。

 ブレスレットに触れ、一歩一歩ゆっくりと警戒しながら階段を降りる。

 階下に降りると、猫がいた。

 玄関の三和土に座り込み、降りてくる私を見上げていた。

 思わず息を呑む。

 私は深夜、本当にこの猫に殺されたのか?

 硬直する私に構わず、猫は尻尾を立てて立ち上がった。

 その首輪に、白いものがくくってあるのが見えた。

 目を細めてみると、まるでそれは、なにかの骨のように思える。

 ……私の、骨?

「ああ、おはよう。今起きたの?」

 呑気な母が、リビングの扉を開いて顔を出した。朗らかで、嬉しそうに私と猫の顔をそれぞれ見る。

「オソロイ」

 猫は、はっきりとそう呟いた。

 ああ、本当に薄気味の悪い猫だ。


「あんたもなかなか死なないのね。しぶといヤツ」

「にゃ」と、猫が鳴く。



 ――親の前では、仲良しを演じてるけどさ。


 次こそ、一滴残らず血を吸ってやる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

薄気味の悪い猫 桐山なつめ @natsu_kiri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ