王国の天秤は誰が為に傾く

桜井葉子

第1話 彼女の目覚め

 砕け散った蝶の羽根。

 地面に散らばったプラスチックの髪飾りは、硝子のように青く透き通っていた。

 雨粒が地面の上を跳ねるたびに欠片は色を変える。

 

 少女は空を仰いでいた。

 手も足も動かせず、僅かに首を傾げることしかできない。


 遠くから救急車の鳴らすサイレンの音が近づいてくる。

 欠片の先に視線を伸ばすと、自分と同じ紺色のブレザーを着た少女が横たわっていた。

 

 前髪の隙間から覗く頬は血と泥で汚れている。

 

「あい……か……」

 

 今にも消えそうな声で彼女が呼びかけている。

 返事をしようにも、喉から声は出なかった。

 手足は糸が切れた人形のようにぴくりとも動かず、視線だけを彼女に向けるしかない。


 ――神さま、どうか。


 雨の雫が頬を打ち付ける度に、視界は赤く染まっていく。

 閉じかけた瞼をかすかに持ち上げ、蝶の羽根を見つめた。

 破片となった髪飾りは雨溜まりの中できらきらと輝いている。


 まるで魂の欠片のようだと思った。


「あ……い……」

 

 呼びかける声は次第に小さくなり、雨音にかき消されていく。


 ――他には何もいらないから。


 彼女はこちらに向かって震える手を懸命に伸ばしていた。

 しかし、どうやってもその手を握り返すことはできそうにもない。


 ――だから……。


 薄れ行く意識の中で、最後に願った。


 ――どうか……。


 彼女のために。


――――――――――――――――


 頬に何かが触れる感触で、少女は目を覚ます。

 ぼんやりとした視界の端で、カーテンが揺れている。


――ああ、風だったのか。


 重たい瞼を開けると、そこには見覚えのない景色がぼんやりと広がっていた。板で組まれた床は冷ややかで、それを誤魔化すように金糸の刺繍が施された絨毯が敷かれている。壁の一角は大きな本棚が占有しており、大小様々な本が乱雑に並べられていた。


「ライカ……!」


 彼女は声がした方に目を遣った。


――綺麗な人……。


 大きな瞳は涙で潤み、赤い口紅が塗られた唇はかすかに震えていた。


「心配しましたよ、ライカ」


 細く長い指が少女の頬に触れる。この殺風景な部屋にいたせいか、すっかりと冷えてしまっていた。

 まるで映画のワンシーンような感動的な対面だった。しかし、彼女はどこか間の抜けた声で聞き返す。


「……ライカ?」


 なぜ、そう呼ばれたのかまるでわからなかったのだ。


 ライカネル・クラシェイド。

 それが女性から告げられた少女の名だ。


「なるほど……」


 そう言葉にしてみたものの、彼女は何も納得できていなかった。

 どこの金持ちの家かと見まごう屋敷は、自分が住んでいた家ではなかった。母親は紺のドレスを纏い、紫がかった髪を持つ女性ではなかった。名前もライカネルとかいう異国風の響きではなかった――気がするのだ。


 しかし、なぜだかどういう名であったかさえも思い出せない。本当の母の顔も、暮らしていた家のこともだ。酷く痛む体と何か関係があるのだろうか。


――ライカネル、は知ってる。


 その名前に呼応するかのように、記憶の一部が蘇る。

 ライカネル・クラシェイドは、彼女が書いていた自作小説の登場人物だった。


――親友と一緒に作ってた。


 登場人物の設定や話の展開を作っていたのは親友の方だった。だがやはり、親友の名前や顔までは出てこない。


「あの……」


 彼女は女性に尋ねようとしたが、続けることができなかった。というのも、喉がひりひりと焼けつくように痛かったからだ。


――右肩も痛い……。


 さらに言えば、胃の辺りにも鈍い痛みがあった。細かな痛みがそこら中に点在している。


「無理をしてはいけません。あなたは、その……、事故に遭ったのですから」


 体を起こそうとした少女を女性は制した。その甲斐もむなしく、肩に激痛が走る。うっと鈍い声を上げると、彼女は再び枕に頭を預けた。


「事故ですか……?」

「ええ。覚えていないのですね、ライカ」


 彼女が記憶を失くしたとわかると、母であるという女性——セイランはライカネルについて簡単に説明した。


 年齢は十三であること。

 文才に秀で達筆であること。

 エルドガール王国でクラシェイドの伯爵位を持つこと。

 <王国の天秤>という特権を持つこと。

 ならず者に襲われて湖に沈められそうになったこと。


 聞けば聞く程、小説の中のライカネルそのものだった。そもそも<王国の天秤>などという実在しない役目は、親友が考案した設定なのだ。


――タイトルは『彼女のための物語』。


 親友が見た夢を元に作られた話だった。人気の乙女ゲームにはまって深夜までやり込み、そのまま寝落ちしてしまったせいだと言っていた。


――あの子、話を考えるのは得意だったけど……。


 文章を書くセンスが壊滅的だった。親友の書く文章は、なぜかいつも小学生の日記だった。それを自覚していた親友は彼女に文章を託したのだ。


 『彼女のための物語』は、アレシオン公爵に養女として迎えられた少女のお話だ。王国では五つの有力な貴族に<特権>が与えられており、アレシオン公爵も<王国の馬車>の特権を持つ男だ。そして、クラシェイド伯爵であるライカネルも五大貴族の一人だった。


――ライカネルが事故に遭った描写は覚えてる。


 ライカネルの性格は暗く、口を開けば刺々しい言葉を発する少年だった。周囲に打ち解けない<王国の天秤>に主人公は何度も話しかけ、少しずつ友情を育んでいく。

 しかし、ある夜、宴の途中でライカネルが事故に遭い、生死を彷徨う状態であるという報が主人公に届くのだ。

 恐らく今はその辺りなのだろう。結局どうなったのか。思い出さねばならないことがあったのだが、それより何より気にかかることが彼女にはあった。


――ライカネルは男の子なんだよなぁ。


 しかし、この体は間違いなく女の子のものだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る