08 汽水域


「……なにそれ、なんかの勧誘?」


 最初に口を開けたのは、岡埜谷おかのやだったと思う。

 俺は言われたことを頭で理解するのに、時間がかかってしまった。幼馴染みのせいで身近にはある言葉だったけれど、それを発言したのが知らぬ他人だったこと、そもそも予想もしていなかった問いかけだったということ。その両方が原因だと思う。


 ――神様って、いると思う?


 言われた言葉が頭の中をもう一度めぐって、そこで俺はやっと現実に輪郭を取り戻した。

 同時に、駅前や校門の前で声かけをしながらパンフレットを配っていた集団を思い出す。

 今、自分たちが足を踏み入れている場所が、神様の祀られている場所だという自覚はあった。相手がその場所に従事する者であることも知っていた。

 それでも相手は知らない人間だ。

 せめて博物館や記念館にいるような案内人が、神社の説明の途中で同じ質問を挟んできたのなら俺の受け取り方は違ったのかもしれない。

 俺がそこに結び付いたのだから、岡埜谷もきっと同じものを思い出したのだろう。現に彼の唇は笑みを形作っていたけれど、形のよい眉は少しつり上がり、彼女を警戒する色が滲み出ていた。

 岡埜谷の拒絶と棘が見え隠れした言葉に、巫女服の彼女は我に返ったようにびく、と肩を揺らした。それから、まるで口にしてはいけなかったことを言ってしまったかのように自身の口元を手のひらで抑え、気まずそうに逸らされた視線が地面に落ちる。

 やがて彼女は、顔をあげた。そこには、平べったいよそ行きの表情が出来上がっていて、さきほど見せた瞳の輝きも頬の紅潮も息を潜め、白けた冬の寒さに馴染んでいる。「あ……」何かを言おうとしていたゆきが口を噤むと、彼女はにこりと笑うでもなく、淡々と言葉を述べた。


「……やっぱり何でもありません。急に変なことを言ってしまってすみませ――」

「いるよ」


 言葉を失くしたままだった俺は、彼女の言葉を遮るように発言した声の主を見た。我妻あがつまだ。彼女だけではなく、俺たちの驚愕の視線を受けてなお、彼は相変わらず穏やかに微笑んだまま繰り返した。


「神様はいる。……僕は、そう思うよ」


 ふわり、と風が吹く。冬の風は冷たくていつだって俺たちの肌を刺していくはずなのに、そのときだけは彼の言葉に感化されたかのように、冷たさが柔らかく頬を撫でていく。

 彼女が目を見張る。瞳の中に、雪の結晶がきらりと戻る。それから、彼女はどこか泣きそうに目を細めると、深く一礼してから踵を返し、授与所の方向へと戻っていった。



 彼女の姿が見えなくなってから、俺たちの身体を縛っていた見えない何かが、ふっと緩んだ気がした。首元まで留めていたシャツのボタンをひとつだけ外して、息をしやすくするような、そんな感覚だ。

 我妻に促されて俺たち今度こそ大きな鳥居を潜り、長い階段をゆっくりと降りた。

 じわりじわりと夜のインクが世界に滲んでいる。ここは神社だからその姿はないけれど、きっと隣町のお寺では、除夜の鐘が忍び寄る出番のためにその身を固くして待っている。そのせいか、行きよりも帰りの方がすれ違う参拝客の数は多く、年明けに想いを馳せる彼らの足取りは皆、どこか軽くみえた。


 さて、ここまで周りに流され続けた俺がようやくまっすぐ帰れるかというと、そんなことはなく。

 ほくほくのじゃがバターをほくほく顔で食べている松井田まついだと、自分で選んだくせに噛み切れないと文句を言いつつイカ焼きにかじりついている岡埜谷と、米麴の甘酒を火傷しそうになりながら飲んでいる我妻と、これから家で夕飯が待っているというのにどうしてもから揚げが食べたいと財布を開いたゆき。まあつまり、目の前の食欲に負けた四人と一緒に、俺は軽食タイムの仲間入りをしていた。

 仕方なく。そう、仕方なくだ。半分食べてと頼まれたから仕方なくゆきのからあげを手助け――うっわすげぇ美味――手助けしていた俺は、ようやく口の中のイカを飲み込んだ岡埜谷の不服気な声に、視線をそちらへと向けることになった。


「結局、何だったんだろーね、さっきの」


 さっきの、で思い当たることなど俺はひとつしかない。

 けれど声に出して尋ねたのは、俺ではなくて松井田だった。


「さっきのって。あの、巫女の女の子のこと?」

「そうそれ」


 松井田の確認に、彼やゆきと一緒にベンチに座っていた岡埜谷は足を組み替えながら鼻を鳴らして頷いた。さっきの一連のうちの何かが岡野谷は気に入らなかったようで、あれからご機嫌斜めだ。うちの部長としては珍しい姿ではあるが、ちょっと面倒くさいなと思う。

 そんな彼に、俺と同じように立ったままの我妻が、ちびちびと紙コップに口を付けながら応じる。


「普通に、僕たちに質問しにきただけじゃないかな?」

「……まあ、言葉通りに受け取ればそーだろうけど。……でもおれたちは勿論のこと、高橋の知り合いでもないんでしょ?」

「うん。初めましての子だったかなあ」


 図らずも紅一点になっていたゆきが、岡野谷の言葉に頷いた。クラスメイトでもないらしいし、学校でも見かけたことはないらしい。というかあんな美人さん一度見たら絶対に忘れないもん、とゆきは断言する。「それは確かに……」と何故か松井田がゆきに同調する。


「でも、シンヤお前すごかったな!」

「へ? 僕?」


 トッピングのコーンを口の中にかきこんだ松井田が、ふいに我妻のことをぱっと見上げる。突然話の焦点を自分に合わせられた我妻が、何の話かわからずにぽかんとすると、松井田はまくしたてた。


「あのとき、あの子の質問を茶化したりせずにまっすぐ答えてたじゃん。さっきのあれ、すごいカッコよかったなって思ってさ!」


 そういえば、俺は理解するのが遅かったのと、岡埜谷と同様に相手を警戒してしまったのもあって、投げかけられた質問に答える余裕もなかったが、我妻だけは質問に答えていたなと思い出す。


 ――いるよ。

 ――神様はいる。……僕は、そう思うよ。


 松井田の称賛に、けれど我妻は困ったように眉尻を下げた。


「そうかな? 僕はただ自分の思ったことを言っただけだし……それに、解答するタイミングは遅かったから、むしろ気遣いみたいに受け取られちゃってたら申し訳ないなって」

「流石にそれは我妻先輩の杞憂な気がするけどなあ」


 ゆきが苦笑した。流石に俺も、これはゆきに同意だった。

 どういう意図で、彼女が面識もない俺たちにあんな質問を投げかけてきたのかはわからない。けれど、わざわざ授与所を抜けて追いかけてきたのだ。俺たちにそれを問う理由が彼女にはあったはずだ。

 だとしたら、答えを貰えるか貰えないかは彼女にとってかなり違ったと思う。あくまで俺が、彼女の立場なら、だけれど。

 イカ焼きとの格闘を諦めたらしい。半分ほど食いちぎった残りをプラスチックのフードパックに置いた岡埜谷が、隣の松井田の肩に体重をかけながら抗議した。


「つーか松井田。おれ、別に茶化したつもりはないんだけどー?」

「だろうな! お前は言い方の問題!」

「めずらしく棘があったもんね、ノヤ先輩」


 松井田がぴしゃりと言い返し、ゆきもそんな松井田を挟むかたちで覗き込みながら、岡埜谷の言葉に自生していたものを指摘する。

 というかシュン重い! と岡埜谷を押し返す松井田が押し相撲に勝ったところで、我妻も甘酒を飲み干した。

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