花曇りの旋律

霧乃遥翔

第1話 はじまりの音色

東京の片隅、雑多な街並みの中に立つ一軒の小さな音楽教室。赤いレンガの壁に、少し色褪せた看板がかかっている。その看板には、手書き風の文字で“椿音楽教室”と書かれていた。

この教室に通う女子高生、佐倉陽奈(さくら はるな)は、今日も一人、夕暮れの光に照らされながらピアノの前に座っていた。

陽奈がこの教室に通い始めたのは、小学校の頃のことだ。当時、彼女は母親に連れられて、少し不安げな顔でこのピアノに向かっていた。しかし、最初の音を鳴らした瞬間、その不安は一気に消えた。

――音楽って、こんなに心が軽くなるんだ。

その感覚が忘れられず、彼女はピアノを弾き続けてきた。一方、父が家を出て行った日のことは今でも鮮明に覚えている。泣きはらした目で帰宅した陽奈に、母は何も言わずただ背中をさすってくれた。

「大丈夫。私たち二人でやっていけるから」

母の言葉は優しかったが、その瞳には深い悲しみと疲れがにじんでいた。それ以来、陽奈は母を支えるために、しっかりした娘であろうと努めてきた。学校の成績も常に優秀で、先生たちからの評価も高い。しかし、彼女の心の中では、ずっと抑えきれない思いが渦巻いていた。

――私は、本当にこのままでいいの?

音楽が好きだ。ピアノを弾いている時だけ、自分が自分らしくいられる気がする。でも、母の言葉が彼女の心に影を落とす。

「陽奈、現実を見なさい。ピアノで食べていける人なんてほんの一握りなんだから」

母は、かつて音楽家を目指していた陽奈の父が夢半ばで挫折し、家族を置いて去っていった過去を忘れられないでいる。だからこそ、娘には現実的な道を歩んでほしいと思っているのだ。

そんな母の気持ちを理解しつつも、陽奈の胸の奥には、どうしようもないもどかしさがあった。

夕暮れの光が差し込む音楽教室。陽奈はため息をつきながら、グランドピアノの前に座った。柔らかな光が鍵盤に反射し、まるで彼女の迷いを映し出しているようだった。

そっと鍵盤に手を置いたが、音は出さなかった。指先が震えていた。

――夢なんて、叶わないのかな。

静かな教室に、自分の呟きだけが響く。最近は、鍵盤に触れるたびに不安が胸を締め付けた。音大に進学したい。けれど、現実的な就職を選んだ方が母を安心させられる。でも、その選択は、自分の心に嘘をつくことになるのではないか。

「叶わない夢なんて、追いかける意味あるのかな……」

その言葉が、自分の心に深く突き刺さる。陽奈は、目を閉じて小さく首を振った。夢を追うことで、母を悲しませたくない。でも、音楽を諦めることで、自分自身を失いたくもない。

しばらくそうしていると、突然、扉が開く音がした。顔を上げると、そこにはバイオリンケースを抱えた無表情な少年が立っていた。

彼の名前は、藤崎蓮(ふじさき れん)。この日、初めて教室にやって来た新しい生徒だった。

「新しい生徒さん?」

陽奈は微笑みながら問いかけたが、蓮は目を伏せたまま、短く答えた。

「……ああ。親が勝手に決めたんだ」

その言葉に、陽奈は少し胸がざわつく。教室に来る生徒たちは、たいてい楽しそうに音楽の話をする。けれど、蓮の態度はどこか冷たく、距離を置くようだった。

「じゃあ、ピアノはあまり好きじゃないの?」

蓮は少しだけ考えるような仕草を見せた後、静かに口を開いた。

「嫌いじゃない。でも……弾くたびに思い出すんだ。失敗したことを。裏切られた気分になる」

その言葉に、陽奈は少し驚いた。蓮の瞳には、深い悲しみと後悔が滲んでいた。

「裏切られた……?」

蓮は一瞬、視線を揺らしたが、やがて静かに頷いた。

「俺、バイオリニストだったんだ。小さい頃から親に期待されて、毎日バイオリンを弾いていた。でも、ある大きな舞台で……ミスをしてしまったんだ」

蓮の声が少し震えた。その記憶は、彼の中で未だに鮮明に焼き付いている。

「その舞台には、たくさんの人が来ていた。家族も、先生も、みんな俺に期待してた。でも……俺は、演奏中に指が動かなくなって……」

蓮の言葉は途切れ、教室に静寂が広がった。陽奈は何かを言いたかったが、彼の痛みが伝わってきて、すぐには言葉が見つからなかった。

「それから、周りの態度が変わった。先生は俺を見放して、家族も……父は、俺を“恥だ”って言った」

陽奈は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。彼が抱える傷の深さが、痛いほど伝わってくる。

「蓮君……」

「もう、二度とバイオリンなんて弾かないって決めた。でも、母が無理やりここに通わせたんだ。音楽なんて、もう俺には関係ないと思ってたのに……」

蓮の声がかすれた。その沈黙を破るように、陽奈はそっと鍵盤に触れた。静かな教室に、優しいピアノの音が広がる。

「君はどうして弾くんだ?」

蓮が不思議そうに問いかけると、陽奈は優しく微笑んだ。

「怖いよ。私も、失敗が怖い。でも……音楽は、裏切らないから」

「裏切らない……?」

「うん。失敗しても、悲しくても、音楽はいつもそこにある。だから、私はピアノを弾くの」

蓮はしばらく黙っていたが、やがて一歩、ピアノに近づいた。そして、そっと鍵盤に手を置く。

「……君、変わってるな」

「そうかもね。でも、蓮君も本当は弾きたいんじゃない?」

蓮は小さく笑った。

「かもな……少しだけ、弾いてもいいか?」

「もちろん。二人で一緒に弾こうよ」

その瞬間、教室に二人の音色が溶け合った。蓮のバイオリンの音色が優しく重なり、陽奈のピアノがそれを包み込む。彼の音には、かつての輝きが戻りつつあった。

夕暮れの光の中で、二人の心が少しずつ共鳴し始めていた。蓮の瞳には、微かに新たな希望が宿っていた。

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